司祭の言葉 12/8

「無原罪の聖マリアさまの祭日の黙想」ルカ1:26-38

128(但し、今年2024年は当日が主日であるため、翌9日に祝います)

 

12月8日は「無原罪の聖マリア」の祝日です。「聖マリアの無原罪の御宿り」の祝日とも呼ばれて来ました。聖なる御子キリストの母として御子を宿されるご聖櫃とされるために、天地創造の初めから父なる神によって選ばれておられたマリアさま。聖母さまは、父なる神からの聖なるご委託ゆえに、神からの特別な恵みにより、当然ながら存在の初めから原罪のあらゆる汚れをまぬかれておられました。今日の祝日は、聖母さまのこの神的事実に、畏れをもって敬意と感謝をささげる日です。

ご聖体における御子キリストご自身のご現存に信仰において与るわたしたちにとって、御子のご聖櫃である「無原罪の聖マリア」の信仰は、古来、聖アタナシオや聖アウグスティヌスを始め教会教父方によって告白された「至聖なる聖マリア」の信仰として受け継がれて来ました。この信仰の伝統に基き、1854年ピオ9世教皇により「無原罪の聖マリア」「聖マリアの無原罪の御宿り」の信仰が改めてカトリックの教義として確認され、12月8日が祝日と定められました。このことをご自身がお喜びの内に確証されるように、1858年にフランス・ルルドで聖ベルナデッタにご出現になったマリアさまは、ご自分を「無原罪の御宿り」と紹介されました。先の聖ベネディクト16世教皇は、この祝日を「聖母の最も美しい祝日の一つ」とされています。

聖アタナシオが、聖母マリアさまを、「キリストにからだをお与えくださった方」(神の母聖マリア祭日読書課)とお呼びしておられるように、聖母さま無しにはわたしたちには受けるべき「キリストの御からだ」は無く、したがってご聖体の祭儀であるミサ聖祭を祝うことができません。わたしたちにとって、ご聖体におけるキリストの聖なるご現存を感謝し祝うカトリックの信仰は、「無原罪の聖母マリアさま」の存在無しには成り立たず、したがって聖母さまを欠いては、ご聖体の内に働かれる聖霊によるわたしたちの聖化、つまりわたしたちの「御子による救いのわざ」は成就しません。

それゆえ「聖なる教会は、神の母聖マリアを、御子の救いのわざから切り離すことのできないほどのきずなで結ばれた方として、特別の愛を込めて敬」ってきました(「典礼憲章」103)。神の救いのわざにおいて御子キリストと聖母さまを切り離すことができないがゆえに、教会の暦では、主なるキリストの神秘に合わせて必ず聖母さまを感謝し記念させていただいて来ました。降誕日にマリアさまを母としてお迎えさせていただく御子キリストを待ち望む待降節中にわたしたちが祝う「無原罪の聖マリア」「聖マリアの無原罪の御宿り」の祭日も、そのひとつの大切な機会です。

この祭日に、わたしたちが第一に心に留めさせていただきたいのは、冒頭に申し上げたように、聖母マリアさまこそ、主なる御子キリストの誕生のために、無原罪の内にあらかじめ神に選ばれ、御身をもって主をお迎えされる待降節を準備され、御子を宿されるご聖櫃としてご自身を神に捧げ、祈りと御身をもって主とわたしたちのために、降誕節(クリスマス)を成就してくださった方であられたという事実です。

このように、聖母マリアさまによって、旧約の時代、つまり人類の創造以来、目に見ることがゆるされなかった神ご自身が、今、聖母さまを母として、つまり母なるマリアさまから御からだをいただいた御子キリストとして、わたしたちの目に見える方となってくださいました。この人知を超えた聖なる神のみ業にお仕えされるために、「無原罪の聖マリアさま」として、聖母さまはあらゆる罪や汚れから守られたのです。

また、「無原罪の聖母さま」「聖母さまの無原罪の御宿り」を祝う教会は、聖母マリアさまへの感謝と同時に、聖母さまのように、聖霊に満たされた汚れもしみもない教会の喜ばしい誕生をも心を込めて祈り願い準備します。教会もまた、聖母マリアさまを母として、聖霊によって聖なる主・キリストの花嫁として生まれるからです。

祭日のルカによる福音は、天使ガブリエルによる聖母マリアさまへのお告げのことばです。「喜びなさい、恵まれた方よ。主はあなたとともにおられます。」この父なる神からのおことばは聖母マリアさまによって受肉し、御子キリストにおいて人となられる主なる神は、聖霊においてわたしたちの歴史を創造します。「恐れることはない、マリア。あなたは神の恵みを受けている。あなたは身籠って男の子を産む。」

「無原罪の聖マリア」。見えない神が、マリアさまを母としてお生まれになられる御子キリストにおいて見える方となられる。聖母マリアさまは、神が創造し、神が支配されるわたしたち人類の歴史において最も大いなる出来事にお仕えくださるために選び、守られたのです。そして、その一切の業は活ける神の聖霊によるものです。

「聖霊があなた(聖母さま)に臨み、いと高き方の力があなたを覆う。それ故、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。・・神には、何一つおできないことはない。」

「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように。」

この時が始めではありません。聖母マリアさまは、神へのこのお応えが、実は聖母さまがその母アンナさまに宿られたその存在の始めからのお応えであることを、聖霊の御守りと御導きの内に、ご自身すでに良く知っておられたに違いありません。

父と子と聖霊の聖名によって。 アーメン。

司祭の言葉 12/1

待降節第一主日 ルカ21:25-28,34-36

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

待降節を迎えました。この時期、教会の外では、すでにクリスマスの飾りつけも華やかです。しかし、カトリック教会では、伝統的にクリスマスの飾りつけは、待降節の終わる12月24日のクリスマス・イブの日没前に行います。その後、降誕日・クリスマス夜半のミサを祝い、その時から、新年を挟んで、1月6日の主イエス・キリストの公現日までの12日間を、クリスマスの祝いの時として過します。

待降節の間は、祭色の「紫」が示し、ミサ中「栄光の賛歌」を歌わないように、つつしみの期間です。日本ではこの4週間を「待降節」と呼びます。主イエスのご降誕を「待つ時」です。しかし元来のラテン語「アドベント」は、主が「来られる」と、主を主語に理解します。わたしたちのもとに必ず来てくださるとの主の確かなお約束を信じ、喜びと期待の中にも謙遜と神への畏れの内に、来り給う主のみ前に立つことをゆるされるように祈りを整える時が、待降節・アドベントです。

待降節第1主日の福音に相応しく、主イエスは、「あなたがたは、人の子(すなわち主)の前に立つことができるようにいつも目を覚まして祈りなさい」と仰せでした。

実はこれは、ルカによる福音が第21章に伝える、主イエスのいわゆる「終末預言」と言われる主の説教の結びのおことばです。主は、わたしたちに「目を覚まして祈っていなさい」と、お求めになっておられました。「終わりの時」、すなわち主が来られる時、わたしたちが「人の子(すなわち主)の前に立つことができるように」。

聖書において「終末」とは、たんに「世の終わり」を意味しません。天地の創造主・歴史の支配者である天の父なる神が、神の遣わされる御子イエス・キリストにおいて、決定的な仕方で、また、目に見えるお姿で、歴史に介入されることです。

「終末」とは、したがって、父なる神が、御子キリストによって「古い時を終らせ」「新しい時をお始めになられる」特別な時です。「終末」という「神の時」の中心に立っておられるのは、主イエスです。この方を見失ってはなりません。

それにしても、「あなたがたは、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」との、今日の主のみことばは、わたしたちにゲッセマネの主イエスを思い起こさせます。そこで、主は弟子たちに仰せになりました。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」(ルカ22:46、マタイ26:41)

確かに、主イエスはいわゆる終末預言の中で、「終末の時」を控えて、わたしたちが経験するであろう自然災害や戦争等の「大きな苦難」を予告されていました。実際、2011年の東日本大震災の傷跡の癒えぬ今年正月の能登大震災等、日本を襲った度重なる災害に加えて、ロシアのウクライナ侵略、ガザでの殺戮、緊張感を増す日本と東アジア諸国との摩擦等、「終末のしるし」を巡っての話題は尽きません。

しかし主イエスは、そのような「大きな苦難」でさえ、「まだ世の終わりではない」、「産みの苦しみの始まり」であっても、「終末のしるし」ではないと、はっきり仰せです。実は、わたしたちは、人類の「最大の危機」かつ「最大の苦難」を、ゲッセマネに続く主の十字架として、すでに経験したのではなかったでしょうか。

その主イエスが、とくにマルコによる福音の終末預言で、「終末のしるし」とされたのは、「聖霊」の働きです。見えない神ご自身の見える業。「聖霊」とは、活ける主のお働きです。このことを、わたしたちは決して聞き逃してはなりません。(マルコ13章参照)

「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。」主イエスとともに祈らせていただくためです。十字架を目前に、わたしたちのためにゲッセマネで祈られた主の祈りにわたしたちも加わらせていただき、「聖霊自らが、ことばに表せない呻きを以って執り成して下さる」聖霊の執り成しに与らせていただくためです。

(ローマ8:26)

「目を覚まして、祈っていなさい」、「人の子(すなわち主)の前に立つことができるように」と、主イエスは仰せです。「終末のしるし」である「聖霊の働き」は、わたしたちをしてゲッセマネに祈る主のみ前に立たせ、主のみ前にわたしたちを執り成し、ゲッセマネの主イエスの祈りの内に引き入れてくださいます。

「主の時」が近づいています。待降節は、クリスマスに、ベツレヘムの馬小屋で聖母マリアさまからお生まれになる救い主キリストのみ前に立たせていただくために、祈り備えさせていただく大切な時です。後に、わたしたちは、ゲッセマネで、主イエスの十字架の御許で、さらに主のご復活の時、同じ主のみ前に、ふたたび立たせていただく者とされるでしょう。時は近い。「しかし、あなたがたは、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」と、主は仰せです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 11/24

王であるキリスト(年間34最終主日)ヨハネ18:33b-37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

待降節直前の主日を、教会は「王であるキリスト」の祭日として祝います。次の主日から始まる4週間の待降節を経て、降誕祭(クリスマス)にお迎えする主イエス・キリストこそ天地の創造主であり、わたしたち「すべて」の王であられることを、待降節を控えてあらかじめ深く心に留めさせていただくためです。

しかし、この歴史の支配者であり、主であり王であられるキリストは、ナザレの村の貧しいおとめを母として人知れずお生まれになります。「王であるキリスト」の祭日の今日は、わたしたちがこの「神の秘義」について深く黙想させていただく時です。

ところで、聖書において「王」とは、神によって油注がれて、神の民のために立てられる存在です。神に立てられた「王」には、神から託される二つの大切な使命があります。一つは、神の民「すべて」にパンとブドウ酒、つまり日毎の糧を保証すること。二つ目には、その同じパンとブドウ酒を奉献しての神の民の神への真の礼拝を、神のみ前に責任をもって整えることです。

神の民「すべて」と言う時、神が最も心にかけられるのは、民の内「最も弱く、かつ貧しく小さい者」のことではないでしょうか。彼らが犠牲にされるところでは、民の「すべて」という言葉は、意味を失います。「最も弱く貧しく小さい者」をこそ含んで「すべて」の人々のために。これは、いかなる政治においても理想であり、目的であるはずです。しかし現実はどうでしょうか。

神が、ご自身の民、すなわちわたしたち「すべて」のために、御子キリストを王としてお与えくださる。そのために、神がなさったこと。それは、神が主イエスによって、わたしたちの内の「最も弱く貧しく小さい者」とご自分を一つにされた。これ以外に、主が神の民「すべて」の王となってくださる道はなかったからです。そしてそれは、主イエスにとって極めて具体的な事実でした。

主イエスは、貧しさの中に生を受け、幼少時より厳しい生活と重労働に耐え、飢えと渇きに苦しむ者とともに苦しみ、宣教のご生涯においても家のない旅の生活の辱めや身を守る術の無い惨めさを味わい尽くされました。このような主を前にして、今日の福音で、当時のローマ帝国ユダヤ総督ピラトは、困惑を隠せません。彼は主イエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と問います。「いったい何をしたのか。」

主イエスは、ピラトにお答えになります。「わたしの国は、この世には属していない。」

「それではやはり王なのか」と、ピラトはさらに問います。主は、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

この主イエスのおことばに、ピラトは最後に問います。「真理とは何か。」このピラトの問いに応えるように、ヨハネによる福音は、今日の福音に続けて、一気呵成に、主イエス・キリストの「過越の秘義」を語りあげます。すなわち、主の死刑の判決に始まり、主の「十字架上の死」を経て、主の「復活」までを。

ご生涯を通して「最も弱く貧しく小さい者」とご自身とを完全に一つとされた神の御子キリストは、その上で、さらに言葉の真実の意味において、神の民「すべて」の王となられるために、ご自身に「十字架上の戴冠式」を求められました。

事実、今日の福音に続けて語られる「主イエス・キリストの十字架上の戴冠式」無しに、冒頭に指摘した、神が真の王に託された第二の使命、すなわち神の民「すべて」を、パンとブドウ酒を捧げての神への真の奉献の礼拝に整えることは不可能でした。なぜなら、天の父なる神への唯一の捧げものは、永遠のパンとブドウ酒、すなわちキリストご自身の御からだと御血以外には、実際にはあり得ないからです。

さらには、真の王の第一の使命である、神の民「すべて」に、日毎の糧であるパンとブドウ酒を保証すること。このことも、実は、主イエスの十字架上のご自身の奉献無しには不可能でした。なぜなら、主イエスが真の「王」として、神の民すなわちわたしたちの「すべて」にお与えくださろうとなさるのは、わたしたちのこの世の命を支えるだけのパンとブドウ酒ではありません。わたしたち「すべて」に、永遠のいのちを与えることができる唯一のパンとブドウ酒です。それは、主にとってご自分の御からだと御血以外にはあり得ません。

「王であるキリスト」の祭日に、わたしたちはこの唯一の王を賛美します。そしてこの同じ方、十字架においてわたしたちすべての王となってくださるこの方を、来週からの待降節の後、わたしたちはベツレヘムに聖母マリアさまからお生まれになる「幼子」としてお迎えいたします。それが、主とわたしたちのクリスマスです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 11/17

年間33主日 マルコ13:24-32

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

マルコによる福音13章全体は、「キリストの終末預言」と言われて来ました。ただし聖書において「終末」とは、たんに「世の終わり」を意味しません。神の遣わされる救い主キリストによって、天地の創造主、歴史の支配者である天の父なる神が、決定的な仕方で、また、目に見えるお姿で、歴史に介入されることです。

「終末」とは、したがって「古い時の終わり」であるとともに、「キリストにおける新しい時の始め」・「神の国の到来」です。「終末」という出来事の中心に立っておられるのは、「神の国の主イエス・キリスト」です。この方を、見失ってはなりません。

マルコによる福音13章の主イエスご自身による終末預言は、「エルサレム神殿の崩壊」の予告によって語り始められます。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい建物でしょう」との、当時の巨大なエルサレム神殿に対する、弟子たちの讃嘆の言葉を受けて、主は、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と、仰せになられました。

驚く弟子たちの「そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」との問いに応えて、主イエスは、「その時」わたしたちが経験するであろう「大きな苦難」を予告されました。

東日本大震災の傷跡が未だ癒されないままに、今年のお正月の能登大震災の衝撃。その上に、長引くロシア・ウクライナ戦争に加えて、イスラエルにおける内戦と緊張感を増す世界情勢等、「終末の徴」を巡っての議論は尽きません。しかし、主イエスは、そのような「大きな苦難」でさえ「まだ世の終わりではない」、すなわち「産みの苦しみの始まり」であっても、「終末の徴」ではない、とはっきりと仰せです。

(マルコ10:3-8)

実は、主イエスが、マルコによる福音の終末預言において、「終末のしるし」として語られるのは、「聖霊」とその働きです。見えない神ご自身の見えるみ業。「聖霊」とは、終末預言をなさる主ご自身の霊であり、したがって活ける神なる主の働きです。このことを、わたしたちは決して聞き逃してはなりません。

それでは、「聖霊」はいかにして、この「終末の時」に、働かれるのでしょうか。主イエスは、次のように仰せです。「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれる時、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(マルコ13:10,11)

わたしたちは、「終末のしるし」である「聖霊」の働きを求めて、あちこち捜し回る必要はないのです。「聖霊」は、主イエスを証しする者たち、すなわちわたしたち教会を通して働かれる。そうであれば、「聖霊の働きである教会」こそ「終末のしるし」、「神の国の到来のしるし」です。これは、驚くべき主のおことばのように聞こえます。しかし、わたしたちが現に教会で体験している事実ではないでしょうか。

これらのおことばの後、主イエスは、今日の福音に語られた「人の子」つまり主ご自身の「来臨」をお語りになられます。それは、教会を通して働かれる「聖霊」が証しする「終末の主」・救い主キリストご自身の来臨のお姿です。

(このような苦難の後の)そのとき、人の子(キリスト)が大いなる力と栄光を帯びて雲にのって来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

「終末の時」には、主イエスの予告のように、それに先だって起こり得る、悪霊の業としか思えないような、大きな災害や混乱や疫病や戦乱が、人の目には大きく映るかもしれません。しかし、実は、そのような出来事の中で、より大きく、またより鮮やかに浮かび上がってくる「終末」のしるしとその真実は、わたしたち教会を用いて働かれる「聖霊」の力です。その「聖霊」によって証され、「聖霊の働きである教会」を「ご自身のからだ」とされる、キリストご自身の現存です。

「終末」を支配されるのは、歴史の主キリストです。主は、勝利の主。ただし、主の栄光は、主の十字架の苦しみを経て成就される勝利です。「終末の時」、わたしたちが受ける一切の苦難。主はそのすべてをご自身の十字架として負ってくださる。主とともにわたしたちも、苦難を経て後、主の栄光の内に復活させていただくことができるように。主は、「終末の預言」を次のおことばによって結んでおられます。

「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしのことばは決して滅びない。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 11/10

年間32主日 マルコ12:38-44

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の主日に続き今日の福音も、主イエスのエルサレムでの聖週間(最後の一週間)の、特に火曜日の出来事を伝えています。主は神殿を訪ねておられます。そこで、主は、神にささげものをしていた「一人の貧しいやもめ」とお会いになられます。

ところで、福音は、エルサレム神殿でのこの「やもめのささげもの」のエピソードの直前に主イエスの律法学者に対する厳しい非難、また直後に主の「神殿の崩壊の予告」を伝えていますが、これらすべては深く関係しあっていると思います。

マルコによる福音は、主イエスの「エルサレム神殿崩壊の予告」を、主の弟子の一人の「先生、ご覧ください。なんとすばらしい建物でしょう」との、当時の巨大なエルサレム神殿に対する讃嘆の言葉を受けて、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」との、短い、しかし実に鋭い主のおことばを伝えるに留めています。

これに対して、週日のミサで続けてお聞きしているルカによる福音(13章)は、エルサレム入城を間近に控えての、エルサレムの町、とくにエルサレムの神殿に対する、主イエスの深い嘆きのおことばを、次のように丁寧に伝えています。

「わたしは今日も明日も、その次の日も旅を続けなければならない。預言者がエルサレム以外の地で死に遭うことはありえないからである。エルサレム、エルサレム、預言者を殺し、自分に遣わされた人を石で打ち殺す者、めんどりが雛を翼の下に集めるように、わたしはいくたび、あなたの子らを集めようとしたことであろう。しかし、あなたがたはそれに応じようとしなかった。見なさい、あなたがたの神殿は見捨てられたまま残されるであろう。」(14:33-35)

エルサレムは、主イエスが遣わされる千年以上前から、神なる主が、ご自身の「み名」をこの地上に置かれるために、主によって選ばれていた町です。そのエルサレムには、主なる神のご臨在の目に見える徴として、「神のみことば」を記した「十戒」の石の板が納められた「聖櫃」を護持すべく神殿が建てられ、その神殿に人々が集い、神のみことばに聞き、神を正しく礼拝することが許されてきました。そのようにエルサレムは、「神の都」とさえ呼ばれ、主の時に至るまで、神の民イスラエルの信仰生活の中心であり続けてきました。聖書に語られる通りです。

そのエルサレムに集う人々に求められたのは、ただ一つのことでした。それは、神を神とさせていただくこと。すなわち、神を畏れ、神のみ前に人として謙遜に生きること。ただしそれは、神のみことばに正しく聞くことにのみよる、ことです。

しかし、エルサレムは、過去にも、くり返し罪を犯して来ました。彼らが神のみことばを聞き入れないという罪です。ただしそれは、決して彼らの心の内でのことに留まらず、極めて具体的な形をとりました。彼らは、「(神が彼らのためにみことばを託し、神が彼らの救いのために遣わした)預言者を石で打ち殺」して来たのです。

主イエスは、今、この都が再び、しかも決定的な仕方で「神のみことばを聞きいれない」罪をくり返すことになることを知っておられます。しかも、「神のみことば」である主ご自身に対して。みことばご自身である「神の御子」を十字架につけて殺すというエルサレムの信じがたい罪ゆえに、主は深く嘆かれたのです。

主イエスのエルサレム神殿の崩壊の予告と、律法学者に対する主の厳しい非難は、無関係ではあり得ません。律法学者は本来、神殿に集うすべての人々が、律法、すなわち神のみことばに聞き、みことばによって主のみ前に神の民として整えられるために、律法の教師として立てられていた者であったはず、だからです。

しかし、彼らは、神のみことばに畏れと謙遜を以って聞くことをせず、したがって神のみ前に、律法によって彼らが託された民はおろか、自らを整えることさえできず、神と人との前に自らを誇る者へと傲慢の罪に堕してしまっていました。「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と、主イエスは仰せでした。

律法学者をかくも厳しく非難される主イエスを慰めるように、神殿に「一人の貧しいやもめ」が現れます。主は、この婦人に対して、次のように仰せです。「この貧しいやもめは、神にだれよりもたくさん献げた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて献げたからである。」

律法学者たちの誇りとした地上のエルサレムの神殿は崩壊します。しかし貧しいやもめたちのために、新しい神殿が建てられます。それはご復活の主イエス・キリストご自身です。ただしそれは、エルサレムでの主の十字架の死を経てのことです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。