年間31主日 マルコ12:28b-34
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
主イエスが十二弟子たちとともにエルサレムに迎えられてから、既に三日目。今日の福音は、聖週間の火曜日のことです。エルサレム入城以来、主は、毎日神殿を訪ねておられます。その主に、一人の律法学者が進み出て質問をしました。 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。 主は、お答えになられました。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
主イエスのおことばに心から頷いた律法学者に、主は仰せになりました。
「あなたは、神の国から遠くない。」
主イエスのこの短いおことばは、神殿の境内で主の周りに集まっていた人々すべてを、驚嘆させて余りがあったはずです。事実、主のこの一言は、すべての人々に、深い沈黙をもたらしました。「もはや、(主イエスに)あえて質問する者はなかった」と、マルコによる福音が、今日の出来事を結んでいるとおりです。
「あなたは、神の国から遠くない。」明らかに、このことばは、「神の国の主・キリスト」ご本人以外には他に誰にも語り得ないことばです。主イエス。この方は、たんに「神のみことば」を教えるだけの律法の教師などではない。この方は、「神の国の主」。聞く者すべてに対して、「神の国の門」を開く権威を持っておられるこの方こそ、長い苦難の歴史を貫いてひたすら待ち望んできた救い主キリストではないか。
しかし、本当にそうなのか。人々と主イエスとの関係は、エルサレムでの聖週間の数日を残して、ここに急展開を告げることになります。
ごミサに集うわたしたちは、主イエスこそキリスト・「神の国の主」であり、「神の国の門」を開くことがおできになる唯一の方、と信じています。そのわたしたちには、今日の福音の「最も大切な掟」についての主のおことばは、いわゆる「神なる方」とわたしたちとの関係を規定する律法というような抽象的なものではありません。主イエスのおことばは、今、わたしたちの前に立っておられる神なる主・キリストご自身とわたしたちを固く結び合わせる神のことばです。
その主イエスが、わたしたち一人ひとりに、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と、仰せになっておられます。
主イエスは、ここでわたしたちに、どこか遠くにおられる「神」を愛しなさいとを仰っておられるのではありません。主は、わたしたちに、今、わたしたちの前に立っておられる、主なるキリストご自身を愛してほしい、と主ご自身のおこころを尽くして、わたしたちに求めておられるのです。それは、わたしたちへの愛ゆえです。
確かに、わたしたちの愛には限界があります。罪という限界です。わたしたちが神への愛に生きるためには、この罪という限界を自覚し、この罪と闘う他ありません。それは罪なるわたしたちには元来不可能な戦いです。しかしわたしたちは、わたしたち自身の罪との戦いを通して、罪に完全に打ち勝っておられる主イエスにおける神の愛を知り、身の打ち震えるような感動を覚えるのではないでしょうか。
さらに、「隣人を自分のように愛しなさい」との主イエスにおことばに支えられて、罪に勝利された主の限りない愛の内に、主が愛しておられる人の隣人として生きたいとの願いへと、わたしたちも勇気をもって導かれるのではないでしょうか。
主イエスは、神と隣人とを愛するようにと、わたしたちに求められた後、わたしたちに、「あなたは、神の国から遠くない」と、語りかけてくださいます。主は、わたしたちに神のことばを教えるだけの教師ではありません。主は、わたしたちが罪の限界を越えて神と人とを愛する愛に生きることができるようにわたしたちを新たにしてくださる。そのようにして、「神の国の門」を、わたしたちに開いてくださるのです。
「あなたは、神の国から遠くない」とわたしたちに約束してくださった主イエス。主は、今日の福音のおことばの三日の後に、十字架におつきになられます。わたしたちの愛を限界づける罪に対して、最後の勝利を収めてくださるために。わたしたち罪人に「神の国」「愛の国」の門を開いてくださるために、主はご自身を十字架の上で、わたしたちに捧げてくださいます。ここに主イエスにおける神の愛があります。
父と子と聖霊のみ名よって。 アーメン。