司祭の言葉 11/3

年間31主日 マルコ12:28b-34

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスが十二弟子たちとともにエルサレムに迎えられてから、既に三日目。今日の福音は、聖週間の火曜日のことです。エルサレム入城以来、主は、毎日神殿を訪ねておられます。その主に、一人の律法学者が進み出て質問をしました。 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。 主は、お答えになられました。

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

主イエスのおことばに心から頷いた律法学者に、主は仰せになりました。

「あなたは、神の国から遠くない。」

主イエスのこの短いおことばは、神殿の境内で主の周りに集まっていた人々すべてを、驚嘆させて余りがあったはずです。事実、主のこの一言は、すべての人々に、深い沈黙をもたらしました。「もはや、(主イエスに)あえて質問する者はなかった」と、マルコによる福音が、今日の出来事を結んでいるとおりです。

「あなたは、神の国から遠くない。」明らかに、このことばは、「神の国の主・キリスト」ご本人以外には他に誰にも語り得ないことばです。主イエス。この方は、たんに「神のみことば」を教えるだけの律法の教師などではない。この方は、「神の国の主」。聞く者すべてに対して、「神の国の門」を開く権威を持っておられるこの方こそ、長い苦難の歴史を貫いてひたすら待ち望んできた救い主キリストではないか。

しかし、本当にそうなのか。人々と主イエスとの関係は、エルサレムでの聖週間の数日を残して、ここに急展開を告げることになります。

ごミサに集うわたしたちは、主イエスこそキリスト・「神の国の主」であり、「神の国の門」を開くことがおできになる唯一の方、と信じています。そのわたしたちには、今日の福音の「最も大切な掟」についての主のおことばは、いわゆる「神なる方」とわたしたちとの関係を規定する律法というような抽象的なものではありません。主イエスのおことばは、今、わたしたちの前に立っておられる神なる主・キリストご自身とわたしたちを固く結び合わせる神のことばです。

その主イエスが、わたしたち一人ひとりに、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と、仰せになっておられます。

主イエスは、ここでわたしたちに、どこか遠くにおられる「神」を愛しなさいとを仰っておられるのではありません。主は、わたしたちに、今、わたしたちの前に立っておられる、主なるキリストご自身を愛してほしい、と主ご自身のおこころを尽くして、わたしたちに求めておられるのです。それは、わたしたちへの愛ゆえです。

確かに、わたしたちの愛には限界があります。罪という限界です。わたしたちが神への愛に生きるためには、この罪という限界を自覚し、この罪と闘う他ありません。それは罪なるわたしたちには元来不可能な戦いです。しかしわたしたちは、わたしたち自身の罪との戦いを通して、罪に完全に打ち勝っておられる主イエスにおける神の愛を知り、身の打ち震えるような感動を覚えるのではないでしょうか。

さらに、「隣人を自分のように愛しなさい」との主イエスにおことばに支えられて、罪に勝利された主の限りない愛の内に、主が愛しておられる人の隣人として生きたいとの願いへと、わたしたちも勇気をもって導かれるのではないでしょうか。

主イエスは、神と隣人とを愛するようにと、わたしたちに求められた後、わたしたちに、「あなたは、神の国から遠くない」と、語りかけてくださいます。主は、わたしたちに神のことばを教えるだけの教師ではありません。主は、わたしたちが罪の限界を越えて神と人とを愛する愛に生きることができるようにわたしたちを新たにしてくださる。そのようにして、「神の国の門」を、わたしたちに開いてくださるのです。

「あなたは、神の国から遠くない」とわたしたちに約束してくださった主イエス。主は、今日の福音のおことばの三日の後に、十字架におつきになられます。わたしたちの愛を限界づける罪に対して、最後の勝利を収めてくださるために。わたしたち罪人に「神の国」「愛の国」の門を開いてくださるために、主はご自身を十字架の上で、わたしたちに捧げてくださいます。ここに主イエスにおける神の愛があります。

父と子と聖霊のみ名よって。 アーメン。

司祭の言葉 11/2

死者の日 ヨハネ6:37-40

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

11月1日の「諸聖人の祭日」に続いて、「死者の日」と呼ばれる11月2日は、英国では「諸聖徒の日」(Holy souls)と呼ばれます。日本では、洗礼を受けずに亡くなった方々に配慮して「死者の日」とされたのだと思いますが、この日は「諸聖徒の日」と呼ばれる方が、教会の暦には相応しいと思います。

「諸聖人」、あるいは「諸聖徒」の「聖」とは、如何なることなのでしょうか。聖書においては、「聖」である方は神お一人です。主イエスお一人です。このことははっきりしています。そうであれば、教会で列聖された「聖人」を含めて、広く「聖徒」とは、彼自身聖なる特別な人と言うよりも、神によって「聖くされた人」、つまり「キリストのものとされた人」のことであるに違いありません。

「父がわたしにお与えになる人は皆わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6:37-39)

ここで、主イエスが「ご自分のものとされた人」、つまり、主によって「聖とされた人」について、主ご自身は、それは「父がわたしにお与えになった人」と仰っておられるだけです。

主イエスは、わたしたちの中で、特に聖い人たち、正しい人たちを、主が選ばれたとは言われていません。「天の父なる神が、子なる神キリストに託された人たち」を、主イエスは、ご自分のものとする、「聖」とする、と言われるだけです。

即ち、「諸聖徒」とは、天の父なる神から主イエスに託され、主によって「聖」とされた人たちのことです。そうであれば、感謝すべきことに、これはわたしたち全てにも、信仰によって開かれている恵みではないでしょうか。

「諸聖徒」方は、主イエスによって「聖とされた人々」です。彼らについて、主は先のおことばに続いて、さらに、次のように仰せになっておられます。

「(わたしの父の)御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠のいのちを得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:39-40)

主イエスのみことばは、単なる慰めや約束の言葉では決してありません。神が聖霊によって成就される恵みの事実です。神のみことばは、聞くわたしたちに、今ここで、聖霊によって働く力であり、事実です。神のみことばは、聞く私たちをして聖霊によって「聖とする力」、即ち「主イエスのものとしてくださる力」です。主は、わたしたちにみことばをくださる時、みことばと共に必ず聖霊をくださいます。これがカトリックの信仰です。ここにわたしたちの希望があります。

そして、この聖霊なる神こそ、元来わたしたちに、「イエスは主である」と信じ、告白させてくださった方です。しかもこの聖霊こそ、みことばと共に働いて洗礼においてわたしたちを新たに生まれさせ、さらに、ごミサにおいてわたしたちの捧げるパンとブドウ酒を主イエス・キリストご自身の御からだと御血、つまり主トご自身のいのちとして私たちにお与えくださる方、に他なりません。

主イエスは、わたしたちにみことばを与えてくださるだけではありません。みことばと共に、主はわたしたちに聖霊をお与えくださり、その聖霊によってわたしたちの内に働き、主のみことばをわたしたちの内に結ばせてくださいます。これが、主イエスのみことばと聖霊の力、すなわち、福音の力です。

11月1日にわたしたちが記念した「諸聖人」方に続いて、今日記念している天にあるわたしたちの信仰の先達である「諸聖徒」方。彼らは、主イエスによって「聖」とされた方々です。主によって、祝福のみことばと共に聖霊を受けた方々です。聖霊によって、主のみことばが、彼らのいのちそのものとされた方々です。彼らは、聖霊によって、神と人とに対する祝福とされた方々です。

諸聖人方と共に諸聖徒方は、天のみ国にあって、愛と感謝を以って、ひたすらに主イエスを褒め、とこしえに主を称え賛美しておられると、教会は信じて来ました。わたしたちの主への愛と賛美は、地上において制約されたわたしたちの主への思いを遥かに超えて、天においてこそ全うされるに違いありません。諸聖人・諸聖徒方は、このことを既によく知っておられる方々であるはずです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 11/1

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」

諸聖人の祭日(B年・2024年11月1日)の黙想

マタイ5:1-12a

諸聖人と諸聖徒方を11月1日2日のミサで記念するカトリック教会の伝統は、英国とアイルランドが起源ではないかと言われます。英国では現在でも11月を「聖徒の月」と呼び、ちょうど日本のお盆のように、英国の人々にとっては教会でのミサの後、教会墓地を訪う時とされ、どの墓地もきれいに清められ、花壇のように花で埋め尽くされます。亡き方々を偲ぶ人々の思いは洋の東西を問わず変わりません。

諸聖徒の祝日に先立つ諸聖人の祭日には、主イエスの十二弟子たち、さらにご復活の主ご自身から「みことば」と「聖霊」を受けた聖パウロを筆頭にすべての聖人方を記念いたします。彼らの中には、わたしたちに代って地上の生活で多くの苦しみを負い、あるいはわたしたち同様、自らの弱さと戦われた方々もおられます。

諸聖人諸聖徒の「聖」とは、いかなることなのでしょうか。聖書においては、「聖」である方は、神お一人。主イエス・キリストお一人です。このことははっきりしています。そうであれば、「聖人」とは、生まれながらに聖(きよ)い人と言うよりも、主から「みことば」と「聖霊」をいただいて、神によって「聖くされた人」ではないでしょうか。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国(神の国)はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。・・・

心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。・・・」

「心の貧しい人々は、幸いである」と、主イエスは仰せです。「貧しい人々」とは、主の他に頼る方がいない者たち、つまりわたしたちのことです。「天の国(神の国)」に関して、わたしたちは主以外に誰を頼ることができるでしょうか。わたしたちに「神の国」を約束してくださるのは、ただ「神の国の主」であるキリストお一人です。

主イエスの上記のみことばは、かつては「真福八端」と呼ばれていました。ご自身「聖」にして、わたしたちの罪を赦し「聖とする」ことがおできになる神ご自身からの八つの詩句からなる「祝福のみことば」です。神によってわたしたちが「聖とされ、それゆえに神の国を約束されること」。実は、それこそが主イエスの祝福です。

主イエスによって「聖とされ、神の国を約束される」。それは、わたしたちが「神の国の主・キリストのものとされる」こと。それを使徒ヨハネは、「御子キリストに似た者とされる」(1ヨハネ3:2)と教えてくれます。わたしたちが「聖とされ、神の国を約束される」、つまり主から祝福されるとは「御子キリストに似た者とされる」こと主に祝福された「聖人」方は、わたしたちに先立って「キリストに似た者とされた方」です。

その祝福を主イエスはいかにしてわたしたちにお与えくださるのか。それは、「祝福のことば」とその祝福をわたしたちの内に成就させてくださる「聖霊」によって「聖霊」は、主の「みことば」と共に働いて、わたしたちに「イエスは主である」と告白させてくださいます。「みことばと共に働かれる聖霊」こそ、洗礼においてわたしたちを新たに生まれさせ、ミサでわたしたちの捧げるパンとブドウ酒をご聖体つまりキリストご自身の御からだと御血・主ご自身のいのちに変えてくださる方です。

「みことばと聖霊」において、主イエスがわたしたちにくださるのは主ご自身。主はご自身をお与えくださることによってわたしたちを「聖」とし、「キリストに似た者」としてくださいます。それが主の祝福。主イエスこそ祝福そのものです。主の十二使徒を始め諸聖人方は、主ご自身、つまり聖霊を祝福として受け、聖霊によって「キリストの似姿に変えられた」方々。わたしたちすべてのお手本です。

わたしたちもミサで、諸聖人方のように、「主よ、わたしたちにみことばをください」と、主イエスに願います。主は、わたしたちにも必ず「みことば」とともに「聖霊」、つまり主ご自身をくださいます。主はどのように小さく、貧しいわたしたちにも、ご聖体において、主イエスご自身を祝福としてお与えくださいます「心の貧しい人々は、幸いである。神の国はその人たちのものである」と、主は仰せです。

わたしたちは、諸聖人方とは比べるべくもない者です。しかし、主イエスがご聖体においてわたしたちにお与えくださる主ご自身は、主の十二使徒始め、すべての諸聖人方にお与えになられた主とまったく同じ主ご自身。主は今も、いつも、代々に、一人なる同じ主であられるからです。わたしたちのような小さな者にさえ、ご自身をお与えくださる主。主イエスを、わたしたちはそのみ恵みゆえに畏れます

諸聖人諸聖徒方は、「神の国」で主イエスのみ前にみ使いと共に主を褒め称えていると信じられています。ご自身を祝福としてわたしたちにお与えくださる主への彼らの愛と感謝は、地上のわたしたちの制約された思いを遥かに超えています。彼らは、天に在ってそのことを最もよく知っておられる方々であるに違いありません。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。