年間27主日 マルコ10:2-16.
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
マルコによる福音書にお聞きしながら、主イエスのエルサレムへ向かわれる旅を、主とともに辿らせていただいています。主は、エルサレムへのこの旅が、主の地上での最期の旅であることを弟子たちが理解することを願って、「山上の変容」の前後から、弟子たちに三度も繰り返し次のようにお語りになって来られました。
「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」
主イエスにとって、エルサレムに向けての一歩一歩は、高まる緊張感との闘いであったに違いありません。しかし、主は、その途上においても、主を訪ねる多くの人々に、主に敵対するファリサイ派や律法学者たちをも含めて、ていねいに出会って行かれます。今日の福音も、その一こまです。
主イエスが、「ユダヤの地方とヨルダン川の向こう側」、つまりガリラヤ湖を水源として南に下るヨルダン川の東岸に広がる、当時デカポリスと呼ばれた地方を訪ねられた時のことです。主は、その地でも人々に「神の国」を宣べ伝えておられました。その主を、ファリサイ派の人々が訪い、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と唐突に尋ねた、と福音は伝えています。
ファリサイ派や律法学者たちが主イエスに向けた、離縁に関する律法を巡ってのこの問いに明らかなように、当時、「律法」、つまり「神のことば」の教師を自認していた彼らにとって、「罪」とは、たんに律法の違反の問題でした。したがってその解決、つまり「罪の贖いと赦し」という、本来、神との根本的本質的な関係の問題も、彼らには、それは律法の適用、あるいは律法の解釈の問題に過ぎませんでした。
「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と主張する彼らにとって、離婚という深刻な問題、およびその解決さえも、それは単に律法の解釈、かつその手続きの問題に過ぎません。彼らには、それが、神のみ前に誓約を交わし、一つとされた男女の関係の破たん、さらには、赦しと同時に癒しが求められるべき神と彼らとの関係の破れ、したがって神との和解の問題、として考えられていません。
律法学者には、神のみことばの教師と自認しながら、神が見えていないのです。
律法学者たちには、「律法」、すなわち「神のことば」に聞くとは、「昔、神が語られたことば」を規範として、それを解釈し、今に適用するということなのでしょう。しかし、本当にそうなのでしょうか。「神のことば」に聞くとは、今、現に、みことばを語られる神ご自身のみ前に立つこと、ではないでしょうか。「神のみことば」とは、事実「みことばなる神」、すなわち主イエスご自身にほかならないからです。
結婚の誓約に生きる一組の男女のいのちの危機、彼らが神の祝福を失いかねない事態を巡ってさえ、律法の解釈とその手続きのみを問題にしている律法学者たち。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった、それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。…従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と、主イエスは彼らに、そして「神のみことば」を聞くわたしたちすべてに、神ご自身のみ前に立っているという厳粛な事実を、はっきりと思い起こさせてくださいました。
「罪」を律法の解釈、その解決を律法の手続きの問題とする律法学者とは異なり、主イエスにとって「罪」とは、「神のみことば」、つまり「みことばである神ご自身」のみ前に明らかとされた、神のみこころに背くわたしたちの悲しい現実の姿です。
そうであれば、「みことばなる神」のみ前に、わたしたちが「罪の贖いと赦し」を真剣に求める時、「律法」、つまり「神のみことば」の解釈や、解釈された律法の適用をもって、自分の罪を自分で取り繕うことなどできはしません。「罪を贖い、罪を赦す」ことがおできになる唯一の方、神なる主イエスを求める他ないのです。
その主イエスのみ前に、今、ファリサイ派の人々は立っているのです。彼らが自らの罪を認め、その赦しを求めるならば、それがおできになる唯一の方、主が、現に彼らの前にいらっしゃるのです。しかしあろうことか、彼らは主イエスを、彼らの解釈した律法に基づいて「罪」と定め、後に、その「罪」の裁きとして主を十字架につけてしまうことになるのです。
その彼らのために、神に背く彼らを裁くことがおできになる唯一の主イエスは、本来彼らの受けるべき裁きをご自分に受け、十字架の上に彼らの罪の一切を贖ってくださいます。「罪」とは、律法の解釈の問題ではなく、神に背くわたしたち自身の問題であり、「罪の贖いと赦し」は、律法の手続きによってではなく、主が、ご自身でわたしたちの罪を負い切ってくださる他には、成就し得ないからです。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。