年間25主日 マルコ9:30-37
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
9月14日に、「十字架称賛」の祝日を祝いました。教会には、主イエスの「山上の変容」から40日目に主がエルサレムで十字架にお就きになられたとの伝承があります。後に、「主の十字架」が9月半ばのユダヤ歴新年に会わせて記念されるようになると、40日遡った8月6日に、主の「山上の変容」が記念されるようになりました。
「主の変容」。 主イエスは、エルサレムに上られるに先立ち、弟子たちの内、ペトロ、ヤコブとヨハネを連れて、高い山に登られました。その時、主のお姿が変わり、着ておられた服も真っ白に輝きました。この「変容の主」を目の当たりにして、弟子たちは、さらに、「これはわたしの愛する子。これに聞け」との「天からの声」を聞いたと、マルコによる福音は伝えています(9:2-13)。
主キリストは、ペトロたちに、ご自分が天の父なる神の御子であられることを、ご自身の変容を以てお示しになられました。また、「天からの声」、すなわち、父なる神ご自身も、御子の真実を、はっきりとペトロたちにお語りになられました。
教会が、この主イエスの「山上の変容」と主の「十字架」を緊密に結びつけて記念するのは、主の「山上の変容」が、真っ直ぐに主イエスの「十字架」を指し示すものであるとの、教会の信仰ゆえです。
実はこのことは、主イエスご自身が、明らかにされていたことでもありました。主の「山上の変容」の前後に、主ご自身、エルサレムで起こるご自身の十字架とご復活について、三度くり返して、弟子たちに予告されておられました。今日の福音は、主の「山上の変容」の後に、二度目にくり返された、主の十字架と復活の予告のおことばです。主は、弟子たちに仰せになりました。
「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」
わたしたちすべてを創造し、支配される天の父なる神。その御子キリストが、十字架におつきになられる。ここに驚くべき、神の救いの秘義が明らかにされました。
すべての被造物の裁き主であられる天の父なる神。その父なる神の御子キリスト御自ら、わたしたちのために、罪の裁きの十字架にお就きになられる。実に驚くべきことです。しかし、今日の福音は、驚くべきことを、もう一つ語っています。主の「山上の変容」後、二度目にくり返された主ご自身の十字架と復活の予告を聞かされた、まさにその直後に、弟子たちは、彼らの内「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」(9:34)というのです。にわかに信じがたいほどのことです。
確かに、神の御子が十字架につけられて殺される。そして三日の後に復活される。主イエスご自身のこの予告は、弟子たちの知恵や常識、さらには、彼らの主への人間的期待からも、およそかけ離れたものであったに違いありません。主の十字架と復活の予告を聞かされた時、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と、福音は正直に伝えています。
弟子たちには、山上で変容された神の御子の栄光に輝く御姿とその御子キリストの凄惨な十字架上の死とが、どうしても結びつかなかったのでしょう。主イエスの「山上の変容」の栄光に接してなお、あるいはむしろそれゆえに、弟子たちの主への期待は、その後に続く主の十字架の予告を受け入れ難くしたのかも知れません。
確かに、主イエスの十字架と復活の予告のおことばは、人の知恵を以って理解できることではないと思います。それはわたしたち自身の罪の懺悔を通してのみ、畏れと感謝を以て頷かせていただき得ることです。主は、弟子たちに仰せになります。
「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい』。」(9:35)
「主の変容」が、主イエスの十字架の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が約束の地に入るまでの、荒野の40年を思い起こさせます。事実、「主の変容」の後、主は弟子たちとともにエルサレムに上る旅を始められます。そして40日後に弟子たちは、「主との最後の晩餐」、そしてそれに続く「主の十字架」によって、主によって約束の地である「神の国」に招き入れられます。
ただし、それは、罪なる弟子たちにとっては、ひとえに、主イエスの十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」です。その時、そこで、弟子たちは「神の国の食卓」に備えられ、彼らに与えられる「永遠のいのちの糧」が、実は「主ご自身のからだ」であることが、主ご自身によって明らかにされます。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。