司祭の言葉 9/15

年間24主日 マルコ8:27-35

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「それでは、あなたはわたしを何者だというのか。」

主イエスは、このようにペトロに問いかけられました。ペトロだけでは無いはずです。わたしたちすべてが、主から同じ問いを問われているのではないでしょうか。主からこの問いが問われないところに、わたしたちの真の命はないからです。

かつて、主の郷里ナザレの人々も主イエスから同じ問いを問われました。しかし彼らにとって、主は自分たちの理解の内にあるべき人であったのでしょう。「この人は大工ではないか。マリアの子、またヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」と、イエズスさまを主キリストと認めることができませんでした。

ただし、主イエスに対する故郷の人々の無理解は、彼らが幼い時から主を知っているから、やむを得なかったとは言えません。洗礼者ヨハネを思い出してください。彼は主の従兄でした。しかし彼は、主が「神の子」であり、「聖霊によって洗礼を授けることがおできになる方」、つまり「わたしたちに聖霊を注ぐことがおできになる方」であることを認めて、「主の道を備える者」として、つねに主を仰ぎ見、謙遜の限りを尽くして、殉教の死にいたるまで主に仕えました。

主イエスの弟子ペトロも、主から同じ問いかけを受けました。彼は、その当時、彼を取り巻く多くの人々の中に、主のことを、洗礼者ヨハネの生まれ変わりだという者、エリヤだという者、あるいは預言者の一人だという者たちを含めて、主について様々な事をいう人々がいることを知っていました。

しかし、ペトロは主イエスの問いかけに、「洗礼者ヨハネだという者もあれば、あるいはエリヤないし預言者の一人だという者もいます」と、他人ごとのように答えることはできませんでした。ペトロは、主のこの問いかけに、「あなたは生ける神の子・メシア(キリスト)です」と、彼自身の信仰の告白をもって応えました。

むしろこの時、ペトロは、「あなたは神の子・キリストです」と、主イエスに告白する他無かったのだと思います。告白とは殉教という意味でもあり、自分の言葉に自分の命を賭けることです。ペトロは、主に彼のすべてを、彼の命を、託していたからです。

このペトロに、主イエスは、ご自身のいのちをお与えになりました。

今日のマルコによる福音によれば、ペトロのこのキリスト告白に応えて、主イエスは、「人の子(すなわち、主イエス・キリスト)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と、ペトロたちに「はっきりとお話し」になられました。

主イエスは、この時、十字架上でのご自身のご奉献、すなわちわたしたちすべての罪の赦しのために、主ご自身が味わわれるご受難と十字架の死を、さらにわたしたちに聖霊をお与えくださるための主のご復活をはっきりとお約束くださいました。

さらに、マタイによる福音によれば、主イエスは、「あなたは生ける神の子・メシア(キリスト)です」とのペトロの告白に応えて、「ペトロ、あなたは幸いである。あなたにこのことを示したのは人間の知恵ではなく、天におられるわたしの父である」と告げられた上で、「岩」であるペトロの上にご自身の教会をお建てになることに加えて、彼に授ける「天国の鍵」の権能について、次のように約束されました。

「わたしも言っておく。あなたはペトロ、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ18:18,19)

「それでは、あなたはわたしを何者だというのか。」

ヨハネによる福音によれば、この同じ主イエスの問いに耐えられず、それでもなお心をあらためて神に聞こうとせず、自分の知恵を頼りに主から離れて行った多くの人々がいました。その時、彼らの後に残されたペトロたち十二人の弟子たちに、主は、「あなた方もわたしを離れて行きたいか」と、お尋ねになりました。

その時の、ペトロの主イエスへの命がけの告白を、わたしたちも命をかけて、今、このミサで、ご聖体拝領前に告白します。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧。あなたをおいてだれのところに行きましょう。」(ヨハネ6:68,69)

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。