司祭の言葉 8/18

年間20主日 ヨハネ6:51-58

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

「五つのパンと二匹の魚」の奇跡の翌日、人々はふたたび主イエスを訪ねて来ました。今日の福音は、先の主日の福音に続く主と彼らとの対話の後半です。

主イエスが「パン」において人々にお与えになるのは、じつは「キリストのからだ」、すなわちご自身のいのちであることは、すでに先の主日の福音で明らかにされていました。その主のおことばを、今日の福音はくり返すことから始めます。

「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

しかし、主イエスのおことばを、人々はすぐに理解できたわけではありません。彼らは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と互いに激しく議論し始めた、とヨハネによる福音は、正直に伝えていました。

これに対して、主イエスは、もはや、説明を一切なさいません。「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と、主が言われる時、それは、比喩でも言葉の彩(あや)でもなく、文字通りの事実だからです。

主イエスは、「パン」において、事実、「主ご自身の肉」、すなわち「キリストのからだ」をお与えくださる。カトリック教会が、わたしたちの信仰の核心、すなわち「ご聖体の秘跡」・ミサの核心として信じてきたことは、主のこの事実以外の何ものでもありません。カトリック教会は、主のおことばに忠実に、ミサのたびに、主からいただく「パン」において、ご聖体・「キリストのからだ」を拝領し続けて来ました。

ご聖体の秘跡は、主イエスを信じる信仰における事実です。それゆえ、カトリック教会は、ご聖体を、主に信仰を告白し、洗礼を受けた人々にのみ、授けているのです。そしてその時、主を信じてご聖体を受ける者たちすべてにとって、今日の福音で、主が語られた一切のことは、真実です。主は仰せになられます。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」

ここに、主イエスは、ご聖体を受けるわたしたちに与えられる恵みの一切を語り尽くしておられます。その恵みの一切とは、主ご自身のいのち、即ち「聖霊」です。主は、「人の子の肉と血」、即ちご聖体を受けたわたしたちは、「永遠の命」を与えられ、「終わりの日に復活」に与ると、明確に約束してくださっています。この二つともに、「聖霊」の、そして「聖霊」のみの結ぶ実であり、決してそれ以外ではあり得ません。

ご聖体をいただくわたしたちは、「聖霊」をいただくのです。「聖霊」はわたしたちの内に働いて、「永遠の命」「終りの日の復活」を、「聖霊」の結ぶ恵みの果実として、わたしたち自身に、わたしたちの身の事実として、必ず成就してくださいます。

ご聖体をいただくわたしたちは、まさに生ける主イエス・キリストご自身であられる「聖霊」をいただきます。主はさらに続けて、

「わたしの肉を食べ、血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」

ご聖体を受けるわたしたちは、「御父と御子の交わり」の内に招き入れられると、主イエスは仰せです。「御父と御子の交わり(communio)こそ、「聖霊」の本体であり、「聖霊のお働き」そのものです。それは、「二ケヤ・コンスタンチノープル」信条に、「聖霊は父と子(の交わり)より出で」と、明確に告白されているとおりです。

「聖霊」により、「御父と御子の交わり(communio)に招き入れられることは、「神の国の祝宴」、「父・子・聖霊の三位一体なる神の食卓(の交わり)(communio)」に迎え入れられることでもあります。ミサは、地上におけるその天の食卓の先取りです。

「これは天から降って来たパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。