司祭の言葉 8/15

「天の食卓に迎え入れられて」聖母マリアさまの被昇天の祭日の黙想 

(2024年8月15日、ルカ1:39-56) 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

聖母マリアさまのこのおことばは、「聖母被昇天」の祭日の「集会祈願」のように、後に「からだも魂もともに天の栄光に上げられた」「神の母」聖マリアさまの喜びを、聖霊により御子キリストを宿されたその時から、すでに先取りしているようです。

実は御子キリストは、ご自身の十字架と、十字架に続くご復活とご昇天を前にして聖母マリアさまと弟子たちに次のように約束しておられました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32) 紀元五世紀に遡る「聖母被昇天」の祭日。それは、御子キリストが、ご自身のこのお約束をご自身の「母」マリアさま、だれよりも愛しかつ誰にも優って感謝してやまない聖母さまに、わたしたちすべてに先んじて最初に成就されたことの記念です。

ところで、聖母さまが御子キリストによって「上げられた」「天の栄光」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「父・子・聖霊」の「三位一体の神」の「聖なるいのちの交わり(communio)のこと。しかもそれは、教会の伝統では、ロシアのリュブリョフの有名なイコンのように、「三位一体の神」なる「父と子と聖霊」の「天の食卓(の交わり)」として描かれて来ました。そうであれば、聖母さまが「天の栄光に上げられた」とは、聖母さまが「天」における「父・子・聖霊の三位一体の神」の「聖なる交わりの食卓(communio)」に、大切に、かつ感謝をもって迎え入れられたということです。

聖母さまが、三位一体の神の天の食卓に迎え入れられる。これは、「神の母」としての誠実なご奉仕を地上で終えられた後、上げられた天において聖母さまのご労苦に報いるにまことにふさわしいことでしょう。聖母さまは、「天の父なる神」の祝福とご意志を、「おことば通り、この身に成りますように」と受け入れ、「聖霊なる神」に満たされて神の御独り子を身籠り、「御子なる神キリスト」を産み育てられた方。

聖母マリアさまは、「神の母」、文字通り「神に御からだをお与えくださった方」(聖アタナシウス)です。「神の母」マリアさま無しに、わたしたちは、神なる主イエスのご聖体をいただくことはできません。つまり、ミサが成り立ちません。カトリックの信仰は、心の内に神を信じるという以上に、主イエスご自身が制定してくださったミサ(最後の晩餐・過越の祭儀)において「神との霊的・神的な交わり(Divine/Holy Communion)」に入らせていただくこと」です。しかし、聖母さま無しに、わたしたちはご聖体の主イエスにおける神との御交わりに入らせていただくことはできません。

聖母さまは、聖霊によって父なる神の御ひとり子を宿された時から、天の「三位一体の神の交わり」に迎えられる日まで、「神の母」として、天の神の祝福に包まれ、聖霊に導かれ、御子キリストのおことばとみ業を「すべて心に納めて」行かれました。

      (ルカ2:51)

主イエス・キリストが「受肉された神」ご自身であることを、ご聖体の秘跡(ミサ聖祭)の体験を通して「わが身に知る」カトリック教会は、主の「受肉の秘義」に「母」とされることによってお仕えされた聖母マリアさまを、「偉大な人イエスの母」としてではなく、「受肉された御子なる神」の「母」、すなわち「神の母」「神に御からだをお与えくださった方」と、確信と感謝と喜びをもってお呼びさせていただいて参りました。しかし、このことはミサを離れては、決して自明のことではありません。

事実、約300年間の迫害の時を、カタコンベでミサを死守した教会でしたが、4世紀初頭コンスタンチヌス大帝により教会が公認され、保護されるようになると、ミサを離れた観念的な議論で教会を混乱させる人々が現れました。彼らは、聖母さまによる受肉の秘義を認めず、従って主イエスを受肉された神と認めず、聖母さまも「偉大なる人イエスの母」に過ぎず「神の母」ではないと主張しました。ミサのご聖体において「受肉された神キリスト」を畏れと感謝をもって拝領する体験を欠き、主を観念的にしか理解できない人々には、これはやむをえないことかもしれません。

また、御子キリストが、ご自身の母・マリアさまを、父の許に上られる十字架の上から、わたしたちにも「母」としてお与えくださった恵みを忘れるわけには行きせん。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)

それは、わたしたちが「神の母」聖マリアさまに抱かれて、「三位一体の神」の祝福の内に新たに生まれることを、御子なる主イエスが切に願われてのことに違いありません。「神の母」聖マリアさまは、わたしたちの母として、わたしたちを「三位一体の神の交わり」の内に、すなわち「永遠のいのちの交わり(commmunio)」の内に産んでくださいます。それは、聖母さまのように、わたしたちも「神の国の祝宴」、「父・子・聖霊の三位一体の神の食卓(の交わり)」に迎え入れられることでもあります。

「神の母」聖マリアさまを「わたしたちの母」とも呼ばせていただけるわたしたちカトリックの幸い。「神の母」聖マリアさま、わたしたち罪人のために、今も、死を迎える時も、お祈りください。  アーメン。

司祭の言葉 8/11

年間19主日 ヨハネ6:41-51

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」

「五つのパン」の出来事の翌日、ふたたび主イエスを訪ねて来た人々と主との対話を、先の主日に続きヨハネによる福音からお聞きしています。

ところで、マタイによる福音によれば、「五つのパン」の出来事は、洗礼者ヨハネの殉教の直後のこととして伝えられています。これには、深い理由があるはずです。

主イエスは、洗礼者ヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けられて後、ヨハネの殉教の死に至るまで、「悔い改めよ。神の国は近づいた(動詞は完了形で「神の国は(主のもとに)来ている」の意)とのみことばで、福音の宣教を続けて来られました。

しかし今や、ヨハネの殉教の死を転機として、主イエスは、人々に、ご自身のみ国である「神の国」が「近づいた(来ている)」と告げるのみならず、彼らを「神の国」、しかもその「食卓」に招き入れることを、お始めになられます。実は、これが、「神の国の食卓」のしるしとしての「五つのパン」の物語で、福音がわたしたちに伝えようとしていることです。

このように、主イエスが、多くの人々を、ご自身のみ国である「神の国」に、さらにその「食卓」に招かれる。それこそ、わたしたちに、主をお遣わしくださった父なる神のみ旨であることを、主は、今日の福音ではっきり仰せになっておられます。

「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとへ来ることはできない。」

主イエスは、このように仰せになられた上で、父なる神のみ旨にしたがって、ご自身のみ国へと招き入れた人々に対し、さらに、「わたしはその人を終わりの日に復活させる」と、約束なさっておられました。

主イエスの「復活のいのち」つまり「死を越えた永遠のいのち」に与らせるために、彼らが招き入れられた「神の国」、そしてその「食卓」で、彼らが主の復活のいのち(永遠のいのち)に与るための道は、「キリストを食べる」ことだとさえ主は仰せです。

「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

「神の国」が、「神の国の食卓」のしるしである「五つのパン」の出来事として語られることには、理由があったのです。主イエスは、父なる神が、彼に「引き寄せてくださ」った人々を、主ご自身のみ国である「神の国」に招き入れるだけではなく、彼らのためにそのみ国に「食卓」を、整えてくださっておられたのです。

しかもその「食卓」で、主イエスが、招かれた人々にお与えくださる食物とは、「天から降って来た生きたパン」であり「世を生かすためのわたしの肉」、つまり「キリストのからだ」・「キリストご自身」・ご聖体であると、主ははっきりと仰せです。

先に、主イエスの「神の国の食卓」のしるしである「五つのパン」の出来事は、洗礼者ヨハネの殉教の死に続けて語られていると申しました。このことは、主の「神の国」について、大切なことを明らかにしてくれています。すなわち、「神の国」は、神のみ前に義しい人である洗礼者ヨハネを殉教の死に至らせるようなこの世の罪を、ご自身の十字架で負い切られることによってのみ打ち建てられる、主のみ国であるということです。そして、「この世」とは、わたしたちのことです。

実際、「神の国」に主イエスによって招かれたわたしたちは、律法学者たちから「神の国」に招かれるにふさわしいと称賛されるような者ではありません。むしろ罪人であるわたしたちを、主がご自身の「神の国」に招いてくださるためには、主ご自身が、わたしたちの罪を十字架で負い抜いてくださる以外に道はありません。

「わたしはいのちのパンである」と言われ、ご自身を、わたしたちを「生かすための肉」と仰せの主イエスにとって、わたしたちにいのちをお与えくださることは、わたしたちのためにご自身を十字架で裂いてご聖体としてお与えくださることです。

「五つのパン」の出来事は、主イエスの昔ばなしではありません。今もごミサの度に、主ご自身がわたしたちのためにしてくださっておられる救いの出来事です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。