司祭の言葉 9/1

年間22主日 マルコ7:1-8,14-15,21-23 

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

七月、八月と、マルコおよびヨハネによる福音から、主イエスの「五つのパン」の出来事と、さらにその出来事を巡っての主と人々との対話からお聞きしてきました。

ところで、去る8月29日は、洗礼者ヨハネの殉教の記念日でしたが、マルコによる福音によれば、ヨハネの殉教の死は、実は主イエスの「パン」の出来事の直前に起こったこととして、語られています。これには、意味があるはずです。

主イエスは、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼をお受けになられて後、ヨハネの殉教に至るまで、「悔い改めよ。神の国は近づいた」とのみことばを以て、福音の宣教を続けて来られました。しかし、ヨハネの殉教の死を転機として、主は、以後くり返される「パン」の出来事を通して、極めて大胆にも、人々を「神の国」に、むしろ「神の国の食卓」に招き入れることをお始めになられるのです。

実は、殉教の死に至るまで生涯を主イエスに捧げた洗礼者ヨハネに対する主の深い思い、むしろ彼への主の感謝こそが、この事実を説明するのでは無いでしょうか。

同時に、「パン」の出来事の後、主イエスは弟子たちに、ご自分の十字架の死と復活について語り始められるとともに、ガリラヤの北辺にまでおよんだ宣教の旅から踵を返して、エルサレムへと向かう最後の旅におつきになられました。マルコによる福音の伝えるこれらの事実を、わたしたちは見逃してはならないと思います。

今日の福音は、当時の宗教的指導者であったファリサイ派の人々および律法学者と主イエスとの、一見「ユダヤの慣習」を巡っての問答が物語られているようです。しかし、「パン」の出来事およびそれを巡っての主と人々との対話を通して、主イエスが神なる主、すなわち「神の国の主」キリストであることが明らかにされた今、『福音書』の関心は、勢い、人々の主に対する信仰に集約されます。

ファリサイ派の人々や律法学者たちが、先祖からの「ユダヤの慣習」に固執するのは、それが「神の国」に入るための条件であると信じたからです。ただし、ここに彼らの深刻な問題があからさまになります。「神の国」を願い求める、その彼らに、「神の国の主」である主イエス・キリストへの信仰が、真剣な問題になっていません。

「神の国」に入らせていただく。それは、いかに彼らが真面目に良い業を行うとしても、彼らを含めた罪人である人間が神に要求し得ることではありません。それは、「神の国の主」イエス・キリストによってのみ、赦され、可能とされるべきことです。そうであれば、それは、へりくだって「神の国の主キリスト」に信頼し、主に依り頼む他ないことです。その「神の国の主キリスト」は、今、彼らの前に立っておられるのです。

マルコによる福音によれば、律法学者やファリサイ派の人々は明らかに、主イエスの「パン」の出来事およびその後の人々との対話を見聞きしていたはずです。それにもかかわらず、彼らは主に向かって、まるで説教でもしているかのような極めて不遜な態度です。「釈迦に説法」という諺がありますが、彼らは、「神の国の主」イエス・キリストの前での彼らの振舞いの異常さに、気付いていないのでしょうか。

そのような彼らを、主イエスは、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」と、厳しく指摘しておられます。しかしこれは他人ごとではありません。「神の国」を願い求めるわたしたちも、主の前に、ファリサイ派や律法学者のように、自分たちを神より先にし、神に説教するようなことをしてはいないでしょうか。

ファリサイ派の人々や律法学者たちは、民の宗教的指導者として神のことばを託された人々であったはずです。その彼らの本来なすべきことは、マタイによる福音の中で主イエスが彼らに対して厳しく仰せになられたような、「背負いきれない重荷をまとめ人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」ということではあり得ないはずです。その逆であるはずです。

神のみことばを託される。それは、神の民の救いのために、神のご意志をその身に負い、神のみこころを自らの心とすることであるはずです。今や、律法学者やファリサイ派ではなく、神は御子イエス・キリストを世に遣わされ、御子に神のみことばを託されました。むしろ御子は、神の救いのみことばそのものとなられたのです。

神が、御子キリストによって神のみことばそのものとなられた。それは、御子にとっては、わたしたちの「背負いきれない重荷すなわち罪をまとめて」「ご自身の肩に背負って」わたしたちを救ってくださることでした。実にそれは、神のみことばご自身である主イエスにとって、わたしたちの十字架を、わたしたちのために、わたしたちに代って、ご自身の死に至るまで負い抜いてくださることでした。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/25

年間21主日 ヨハネ6:60-69

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。」

わたしたちのミサのご聖体拝領前の信仰告白の一つは、今日の福音の、ペトロのキリスト告白のこの言葉からとられたものです。

七月から今月の主日にわたって、ヨハネによる福音の伝える「五つのパン」の物語、およびその後の、人々と主イエスとの対話からお聞きしてきました。今日はその結びであり、主の対話の相手は、人々から主の十二弟子に移っています。

主イエスは、「パン」において、人々にお与えになられるものが、実は「キリストのからだ」すなわち主ご自身であることを、すでに人々にくり返しお語りになって来られました。たとえば、主は、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と、仰せになっておられました。

しかし、今日の福音の始めに、主イエスのこれらのおことばを聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」といって、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」と、伝えられていました。

このように、多くの人々が主イエスから離れて行く中で、主の許に留まった十二人の弟子たちに、主は、「あなたがたも離れて行きたいか」と問われました。この主の問いかけに対し、十二弟子を代表して、シモン・ペトロが応えて告白したのが、冒頭のペトロのキリスト告白です。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

十二弟子を代表してのペトロによるこのキリスト告白こそ、彼ら十二弟子と、主イエスを離れて行った多くの人々とを、決定的に分かつものとなりました。

主イエスを離れていった多くの人々も、聖書が彼らを「弟子たちの多くの者」と呼ぶように、その時点まで、主の弟子を自認し、主に彼らなりの期待や希望や願いを託して主に従っていた人々であったはずです。

あるいは、彼らの人間的な期待は、主イエスが、わずかのパンで、男だけでも五千人の人々の食卓を満たされた「五つのパン」の出来事によって、いやましに増し加えられたのかも知れません。彼らは、その奇跡の翌日も、ふたたび主を訪ねて来たと、ヨハネによる福音は先に伝えていました。

しかし、「五つのパン」の出来事の後、主イエスが、彼らに語られた真実は、彼らの期待、あるいは常識から、余りにかけ離れていたのでしょう。主は、「パン」において、彼らに裂いて与えられるものが、「キリストのからだ」・主ご自身であることを、彼らにくり返し語られるばかりでした。

しかも、主イエスはこのことについて、もはや一切説明なさいません。主が、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われる時、それは比喩でも言葉の彩(あや)でもなく、事実以外の何ものでもないからです。

後に、十二弟子との最後の晩餐において主イエスがお語りになられるミサの制定のおことばも、この事実以外ではありません。福音に基づく「奉献文」は、は、次のように記します。「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される、わたしのからだ、である』」。

今、主イエスのこのおことばの前に、わたしたち一人ひとりが問われています。わたしたちも、十二弟子とともに主を信じ、主のおことば通りの真実を受け入れるのか、あるいは、群衆とともに主を離れていきたいのか、を。

ただし、主イエスのおことばに従って、わたしたちが、「キリストのからだ」をいただき、その内に働かれる聖霊によって、「キリストの似姿」、否、「キリストのからだ」に変えられて行く以外に、わたしたちの救いはどこにもないことは明らかです。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/18

年間20主日 ヨハネ6:51-58

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

「五つのパンと二匹の魚」の奇跡の翌日、人々はふたたび主イエスを訪ねて来ました。今日の福音は、先の主日の福音に続く主と彼らとの対話の後半です。

主イエスが「パン」において人々にお与えになるのは、じつは「キリストのからだ」、すなわちご自身のいのちであることは、すでに先の主日の福音で明らかにされていました。その主のおことばを、今日の福音はくり返すことから始めます。

「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

しかし、主イエスのおことばを、人々はすぐに理解できたわけではありません。彼らは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と互いに激しく議論し始めた、とヨハネによる福音は、正直に伝えていました。

これに対して、主イエスは、もはや、説明を一切なさいません。「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と、主が言われる時、それは、比喩でも言葉の彩(あや)でもなく、文字通りの事実だからです。

主イエスは、「パン」において、事実、「主ご自身の肉」、すなわち「キリストのからだ」をお与えくださる。カトリック教会が、わたしたちの信仰の核心、すなわち「ご聖体の秘跡」・ミサの核心として信じてきたことは、主のこの事実以外の何ものでもありません。カトリック教会は、主のおことばに忠実に、ミサのたびに、主からいただく「パン」において、ご聖体・「キリストのからだ」を拝領し続けて来ました。

ご聖体の秘跡は、主イエスを信じる信仰における事実です。それゆえ、カトリック教会は、ご聖体を、主に信仰を告白し、洗礼を受けた人々にのみ、授けているのです。そしてその時、主を信じてご聖体を受ける者たちすべてにとって、今日の福音で、主が語られた一切のことは、真実です。主は仰せになられます。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」

ここに、主イエスは、ご聖体を受けるわたしたちに与えられる恵みの一切を語り尽くしておられます。その恵みの一切とは、主ご自身のいのち、即ち「聖霊」です。主は、「人の子の肉と血」、即ちご聖体を受けたわたしたちは、「永遠の命」を与えられ、「終わりの日に復活」に与ると、明確に約束してくださっています。この二つともに、「聖霊」の、そして「聖霊」のみの結ぶ実であり、決してそれ以外ではあり得ません。

ご聖体をいただくわたしたちは、「聖霊」をいただくのです。「聖霊」はわたしたちの内に働いて、「永遠の命」「終りの日の復活」を、「聖霊」の結ぶ恵みの果実として、わたしたち自身に、わたしたちの身の事実として、必ず成就してくださいます。

ご聖体をいただくわたしたちは、まさに生ける主イエス・キリストご自身であられる「聖霊」をいただきます。主はさらに続けて、

「わたしの肉を食べ、血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」

ご聖体を受けるわたしたちは、「御父と御子の交わり」の内に招き入れられると、主イエスは仰せです。「御父と御子の交わり(communio)こそ、「聖霊」の本体であり、「聖霊のお働き」そのものです。それは、「二ケヤ・コンスタンチノープル」信条に、「聖霊は父と子(の交わり)より出で」と、明確に告白されているとおりです。

「聖霊」により、「御父と御子の交わり(communio)に招き入れられることは、「神の国の祝宴」、「父・子・聖霊の三位一体なる神の食卓(の交わり)(communio)」に迎え入れられることでもあります。ミサは、地上におけるその天の食卓の先取りです。

「これは天から降って来たパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/15

「天の食卓に迎え入れられて」聖母マリアさまの被昇天の祭日の黙想 

(2024年8月15日、ルカ1:39-56) 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

聖母マリアさまのこのおことばは、「聖母被昇天」の祭日の「集会祈願」のように、後に「からだも魂もともに天の栄光に上げられた」「神の母」聖マリアさまの喜びを、聖霊により御子キリストを宿されたその時から、すでに先取りしているようです。

実は御子キリストは、ご自身の十字架と、十字架に続くご復活とご昇天を前にして聖母マリアさまと弟子たちに次のように約束しておられました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32) 紀元五世紀に遡る「聖母被昇天」の祭日。それは、御子キリストが、ご自身のこのお約束をご自身の「母」マリアさま、だれよりも愛しかつ誰にも優って感謝してやまない聖母さまに、わたしたちすべてに先んじて最初に成就されたことの記念です。

ところで、聖母さまが御子キリストによって「上げられた」「天の栄光」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「父・子・聖霊」の「三位一体の神」の「聖なるいのちの交わり(communio)のこと。しかもそれは、教会の伝統では、ロシアのリュブリョフの有名なイコンのように、「三位一体の神」なる「父と子と聖霊」の「天の食卓(の交わり)」として描かれて来ました。そうであれば、聖母さまが「天の栄光に上げられた」とは、聖母さまが「天」における「父・子・聖霊の三位一体の神」の「聖なる交わりの食卓(communio)」に、大切に、かつ感謝をもって迎え入れられたということです。

聖母さまが、三位一体の神の天の食卓に迎え入れられる。これは、「神の母」としての誠実なご奉仕を地上で終えられた後、上げられた天において聖母さまのご労苦に報いるにまことにふさわしいことでしょう。聖母さまは、「天の父なる神」の祝福とご意志を、「おことば通り、この身に成りますように」と受け入れ、「聖霊なる神」に満たされて神の御独り子を身籠り、「御子なる神キリスト」を産み育てられた方。

聖母マリアさまは、「神の母」、文字通り「神に御からだをお与えくださった方」(聖アタナシウス)です。「神の母」マリアさま無しに、わたしたちは、神なる主イエスのご聖体をいただくことはできません。つまり、ミサが成り立ちません。カトリックの信仰は、心の内に神を信じるという以上に、主イエスご自身が制定してくださったミサ(最後の晩餐・過越の祭儀)において「神との霊的・神的な交わり(Divine/Holy Communion)」に入らせていただくこと」です。しかし、聖母さま無しに、わたしたちはご聖体の主イエスにおける神との御交わりに入らせていただくことはできません。

聖母さまは、聖霊によって父なる神の御ひとり子を宿された時から、天の「三位一体の神の交わり」に迎えられる日まで、「神の母」として、天の神の祝福に包まれ、聖霊に導かれ、御子キリストのおことばとみ業を「すべて心に納めて」行かれました。

      (ルカ2:51)

主イエス・キリストが「受肉された神」ご自身であることを、ご聖体の秘跡(ミサ聖祭)の体験を通して「わが身に知る」カトリック教会は、主の「受肉の秘義」に「母」とされることによってお仕えされた聖母マリアさまを、「偉大な人イエスの母」としてではなく、「受肉された御子なる神」の「母」、すなわち「神の母」「神に御からだをお与えくださった方」と、確信と感謝と喜びをもってお呼びさせていただいて参りました。しかし、このことはミサを離れては、決して自明のことではありません。

事実、約300年間の迫害の時を、カタコンベでミサを死守した教会でしたが、4世紀初頭コンスタンチヌス大帝により教会が公認され、保護されるようになると、ミサを離れた観念的な議論で教会を混乱させる人々が現れました。彼らは、聖母さまによる受肉の秘義を認めず、従って主イエスを受肉された神と認めず、聖母さまも「偉大なる人イエスの母」に過ぎず「神の母」ではないと主張しました。ミサのご聖体において「受肉された神キリスト」を畏れと感謝をもって拝領する体験を欠き、主を観念的にしか理解できない人々には、これはやむをえないことかもしれません。

また、御子キリストが、ご自身の母・マリアさまを、父の許に上られる十字架の上から、わたしたちにも「母」としてお与えくださった恵みを忘れるわけには行きせん。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)

それは、わたしたちが「神の母」聖マリアさまに抱かれて、「三位一体の神」の祝福の内に新たに生まれることを、御子なる主イエスが切に願われてのことに違いありません。「神の母」聖マリアさまは、わたしたちの母として、わたしたちを「三位一体の神の交わり」の内に、すなわち「永遠のいのちの交わり(commmunio)」の内に産んでくださいます。それは、聖母さまのように、わたしたちも「神の国の祝宴」、「父・子・聖霊の三位一体の神の食卓(の交わり)」に迎え入れられることでもあります。

「神の母」聖マリアさまを「わたしたちの母」とも呼ばせていただけるわたしたちカトリックの幸い。「神の母」聖マリアさま、わたしたち罪人のために、今も、死を迎える時も、お祈りください。  アーメン。

司祭の言葉 8/11

年間19主日 ヨハネ6:41-51

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」

「五つのパン」の出来事の翌日、ふたたび主イエスを訪ねて来た人々と主との対話を、先の主日に続きヨハネによる福音からお聞きしています。

ところで、マタイによる福音によれば、「五つのパン」の出来事は、洗礼者ヨハネの殉教の直後のこととして伝えられています。これには、深い理由があるはずです。

主イエスは、洗礼者ヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けられて後、ヨハネの殉教の死に至るまで、「悔い改めよ。神の国は近づいた(動詞は完了形で「神の国は(主のもとに)来ている」の意)とのみことばで、福音の宣教を続けて来られました。

しかし今や、ヨハネの殉教の死を転機として、主イエスは、人々に、ご自身のみ国である「神の国」が「近づいた(来ている)」と告げるのみならず、彼らを「神の国」、しかもその「食卓」に招き入れることを、お始めになられます。実は、これが、「神の国の食卓」のしるしとしての「五つのパン」の物語で、福音がわたしたちに伝えようとしていることです。

このように、主イエスが、多くの人々を、ご自身のみ国である「神の国」に、さらにその「食卓」に招かれる。それこそ、わたしたちに、主をお遣わしくださった父なる神のみ旨であることを、主は、今日の福音ではっきり仰せになっておられます。

「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとへ来ることはできない。」

主イエスは、このように仰せになられた上で、父なる神のみ旨にしたがって、ご自身のみ国へと招き入れた人々に対し、さらに、「わたしはその人を終わりの日に復活させる」と、約束なさっておられました。

主イエスの「復活のいのち」つまり「死を越えた永遠のいのち」に与らせるために、彼らが招き入れられた「神の国」、そしてその「食卓」で、彼らが主の復活のいのち(永遠のいのち)に与るための道は、「キリストを食べる」ことだとさえ主は仰せです。

「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

「神の国」が、「神の国の食卓」のしるしである「五つのパン」の出来事として語られることには、理由があったのです。主イエスは、父なる神が、彼に「引き寄せてくださ」った人々を、主ご自身のみ国である「神の国」に招き入れるだけではなく、彼らのためにそのみ国に「食卓」を、整えてくださっておられたのです。

しかもその「食卓」で、主イエスが、招かれた人々にお与えくださる食物とは、「天から降って来た生きたパン」であり「世を生かすためのわたしの肉」、つまり「キリストのからだ」・「キリストご自身」・ご聖体であると、主ははっきりと仰せです。

先に、主イエスの「神の国の食卓」のしるしである「五つのパン」の出来事は、洗礼者ヨハネの殉教の死に続けて語られていると申しました。このことは、主の「神の国」について、大切なことを明らかにしてくれています。すなわち、「神の国」は、神のみ前に義しい人である洗礼者ヨハネを殉教の死に至らせるようなこの世の罪を、ご自身の十字架で負い切られることによってのみ打ち建てられる、主のみ国であるということです。そして、「この世」とは、わたしたちのことです。

実際、「神の国」に主イエスによって招かれたわたしたちは、律法学者たちから「神の国」に招かれるにふさわしいと称賛されるような者ではありません。むしろ罪人であるわたしたちを、主がご自身の「神の国」に招いてくださるためには、主ご自身が、わたしたちの罪を十字架で負い抜いてくださる以外に道はありません。

「わたしはいのちのパンである」と言われ、ご自身を、わたしたちを「生かすための肉」と仰せの主イエスにとって、わたしたちにいのちをお与えくださることは、わたしたちのためにご自身を十字架で裂いてご聖体としてお与えくださることです。

「五つのパン」の出来事は、主イエスの昔ばなしではありません。今もごミサの度に、主ご自身がわたしたちのためにしてくださっておられる救いの出来事です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。