司祭の言葉 8/6

主の変容 マルコ9:2-10

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」

主イエスの光輝くお姿を目の前に仰ぎみることをゆるされたペトロの言葉です。

マルコによる福音は、主イエスの「パンの奇跡」の後、主が「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(マルコ8:31)と、ご自身の十字架とご復活を弟子たちに「教え始められた」後、直ぐに続けて、今日の「主の変容」の出来事を伝えています。

マルコは、このように語り続けることにより、「パンの奇跡」すなわち主イエスとの「神の国の食卓」、さらに主の十字架の死と復活の告示、加えて「主の変容」、この三つが、主イエスが神の御子であり、神ご自身であることを、弟子たちに明らかにされた一連の出来事であることを、わたしたちに示しているのではないでしょうか。

さて、主イエスの「山上の変容」。マルコは、その日、主は、ペトロとヨハネとヤコブの三人だけを連れて「高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」すると「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」と伝えていました。

さらにその時、弟子たちは、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と、「雲の中からの声」すなわち「天の父なる神の声」を聞いたとも、マルコは伝えていました。

エルサレムに最後に上られるに先立ち、主イエスは弟子たちに、エルサレムで十字架にお就きになられ、さらに復活されるご自身が、実は父なる神の御子であり、神ご自身であられることを、ご自身の光輝く神のお姿への変容をもってはっきりとお示しになられ、また父なる神ご自身も「天からの声」を以てそれを確認されました。

ところで、マルコは、モーセとエリヤの二人が、「イエスと語りあっていた」内容そのものは伝えていませんが、ルカによる福音は、それを次のように伝えています。

(モーセとエリヤの)二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(ルカ9:31)

ここで、特に「最期」と訳された言葉は、「過越」(exodus; έξοδοςという字であることに注意したいと思います。そうであれば、高い山の上で「モーセとエリヤが話していた」「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期とは、主イエスがエルサレムで成し遂げられる「主ご自身の過越の成就」であったことが分かります。

このように、山上での「主の変容」は、主イエスのエルサレムでの「十字架の苦難を経て復活の栄光に過ぎ越して行かれる主の過越」に堅く結びつけられています。だからこそ、主は、「山上の変容」の前後に、ご自身の「過越」すなわち「十字架と復活」を、弟子たちに予告しておられたのです(マルコ8:31-9:1)。

すべてを創造し、支配される天の父なる神。その御子キリスト、神ご自身が、十字架にお就きになられる。「山上の変容」と「過越の予告」が相まって、ここに驚くべき、神の救いの秘義が明らかにされました。しかも、それだけではありません。

「主の変容」が、直前に語られた「パンの奇跡」の物語により、主イエスの「過越の食卓(神の国の食卓)」とも緊密に結びつけられていることは、すでに指摘しました。

「主の変容」が、主イエスのご受難の40日前であったとの伝承から、紀元5世紀以来、教会の暦では、「主の変容」の祝日は、9月14日に祝われる「十字架称賛」の祝日の40日前の8月6日に祝われて来ました。ここで、「主の変容」が、主の十字架の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が約束の地に入るまでの荒野の40年の旅を思い起こさせます。

事実、「主の変容」の後、主イエスは弟子たちと共にエルサレムに上る旅に就かれ、その40日後にエルサレムに入城された主は、弟子たちを、ご自身の十字架に先立ち、「最後の晩餐」つまり「主の過越の食卓」に招かれました。そのようにして、主は、約束の地である「神の国」を、「神の国の食卓」を以てお示しになりました

ただしそれは、主イエスの旅に伴い、旅の終わりエルサレムでの主の十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」。また「神の国の食卓」に備えられ、わたしたちに与えられる「永遠のいのちの糧」が、実は十字架で裂かれた「キリストの御からだと御血」であることが、ミサの度に、主ご自身によって明らかにされます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/4

年間18主日 ヨハネ6:24-35

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしがいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

来る8月6日は、「主の変容」の祝日です。マルコによる福音は、「主の変容」が、主キリストの「五つのパン」つまり「神の国の食卓」の奇跡の後の、「主の過越」である主の十字架の死と復活の告示(マルコ8:31)に続く出来事とされています。したがって、これら三つのことは、主が神の子キリストであることを、主ご自身が弟子たちに明らかにされた一連の出来事であり、切り離して考えることはできません。

今日の福音は、先の「神の国の食卓」の物語に続く出来事です。主キリストから「五つのパン」で養われた人々が、翌日、再び主を訪ねました。彼らに主は仰せでした。

「朽ちる食べ物のためではなく、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。これ(「永遠のいのちに至る食べ物」)こそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」

主キリストは、わたしたちに「永遠のいのちに至る食べ物」、むしろ「永遠のいのちそのもの」をお与えくださるために、天の父なる神から遣わされたことを明言されました。主のこのおことばを聞いた人々は、続けて主に、「神の業を行うためには、何をしたら良いでしょうか」とたずねました。主キリストは彼らに、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と、おこたえになられました。

「神の業」とは、フランシスコ会訳が「神が(わたしたちに)求めておられること」と説明するように、人々が主キリストにおたずねしたのは、「永遠のいのちに至る食べ物をいただくために、神がわたしたちに求めておられるのは何でしょうか」と言うことです。これに対して、主は彼らに、「神の遣わされたキリストを信じること。これが、神が求めておられることである」と、お応えになりました。ただし、ここで「主キリストを信じる」とは、わたしたちにとって具体的にはいかなることなのでしょうか。

主キリストと人々との会話はさらに続きます。主が、「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世にいのちを与えるものである」と語られると、人々は、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と願いました。その時、主は、次の驚くべきおことばをもって、彼らにお応えになりました。

わたしがいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

つまり、主キリストご自身が「いのちのパン」そのものであると明言された上で、「(いのちのパンである)主キリストのもとに来るものは決して飢えることがない」。つまり、主をいのちのパンとして「受けるために来るもの」は、いのちに満たされると約束されたのです。そして、それがキリストを「信じる」ことであると。神がわたしたちに求めておられることは、「キリストを信じること」。それは、主キリストを「いのちのパン」として受けるために主のもとに来ること(拝領すること)に他なりません。

「神の業」、それは神のお求めに従うこと。それが、わたしたちにとって神から「永遠のいのち」を受ける唯一の道です。その道はまさに信仰の道であり、ここで信仰とは、主キリストを「いのちのパン」として拝領することに他ならない、と主は言われるのです。だからこそ、主はわたしたちにごミサを制定してくださったのです。

これは驚くべきことです。しかし、これがカトリックの信仰です。事実、主キリストが弟子たちとの最後の晩餐でミサを制定された晩から今日に至るまで、わたしたちカトリックは、ミサこそカトリックの信仰として、ミサ毎に主キリストご自身を、その御からだと御血を「永遠のいのちに至るパン」として拝領させていただいています。

実は、「(キリストを)信じる」と訳されたギリシャ語ピスチュウオーは、人ではなく、神を主語に、「(キリストを)信じさせる(疑わせない)」という意味に加えて、「(キリストとの)神秘的な交わり(communio)に入らせる」という意味です。このことは、カトリックにおいては体験の事実です。「信じる」ことが「ご聖体の拝領」(communio)として全うされることは、入信の秘跡の体験そのものだからです。実に、カトリックの信仰で「キリストを信じる」とは、わたしたちの心の確信に止まらず、ご聖体の拝領において体験されるキリストとの神秘的な交わり(communion)の事実です。

このように、わたしたちカトリックの信仰は、入信の秘跡の完成であるミサの度に、主キリストの御体と御血を拝領し、ご聖体の内に働く聖霊によって「キリストとの神秘的な交わり」へと参入させていただくことです。それが「永遠のいのち」です。

(第2コリント3:18)

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。