司祭の言葉 6/9

年間第10主日 マルコ3:20-35

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

福音にお聞きしつつ、主イエスの宣教の旅に伴わせていただいています。主は、すでにペトロを始めとする十二使徒たちをお選びになっておられました。マルコによる福音は、この12人に対し、「主ご自身の望む人たち」であった、と伝えていました。しかし、大切なことは、主は彼らに何を「お望み」になられたのかということです。

マルコはそのことも明快に伝えてくれていました。二つのことです。第一に、「この

12人をご自分とともにおらせる」ことであり、さらに、彼らに「悪霊を追い出す権能を授けて宣教に遣わされる」ことであったと。

第一に、ご自分とともにおらせることをこそ、主イエスは彼らにお望みになられた。このことは、現在のわたしたちにとっても極めて大切です。またこのことは、主の十字架の死の後も、同様でした。事実、主は、十字架の後は「ご復活の主」として、ご昇天後には「聖霊なる主」として、使徒たちが、さらには彼らに続くわたしたちも、主といつもともにおらせてくださっておられます。マタイによる福音全体は、ご復活の主イエスによる彼らへの次のおことばによって、結ばれています。

「わたしは天においても地においても、すべての権能が与えられている。だから、あなたがたは行って、すべての国に人を弟子にしなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいるのである。」

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいる。」ご復活の主イエスのご昇天の後も、同じ主が「聖霊なる主」として使徒たちと、さらにわたしたちとも世の終わりまでいつもともにいてくださる。それは、使徒たちが、続いてわたしたち教会が、歴史を貫いて経験してきた事実です。福音書に続く使徒たちの宣教の記録である『使徒言行録』が、古来『聖霊言行録』とも呼ばれてきたのはこのゆえです。

第二に、主イエスは、「聖霊」なる主として時と場所を超えていつもわたしたちとともにいてくださるゆえに、使徒たちの内に、またわたしたちの内に働かれ、さらにわたしたちを通して働いてくださり、主ご自身の権威とみ力により、わたしたちと多くの人々から「悪霊を追い出す」ことがお出来になる。

「聖霊なる主イエス」が「悪霊を追い出」される。この事実には、二つの意味があります。第一に、「聖霊なる主」は、わたしたちの内に、またわたしたちを通して多くの人々に働き、わたしたちと人々の罪の赦すことがおできになる、という事実です。

福音記者ヨハネが伝えるように、洗礼者ヨハネは、彼から洗礼を受けようとされる主イエスを指さし「見よ、神の子羊」と告白しました。その時同時に、ヨハネは「神の子羊」・主イエス・キリストを、「世の罪を取り除かれる方」と証ししています。御子キリストの罪を赦す権威が、「聖霊なる主」において働かれる。それは、聖霊なる主がわたしたちの内に働き、さらにわたしたちを用いて働き、わたしたちや多くの人々から「悪霊を追い出」してくださるということです。「悪霊」とは、あらゆる形で、わたしたちを神から引き離す力であり、働きです。そして、神から離れることが、罪です。

さらにヨハネは、その「神の子羊キリスト」こそ「神の子」であり、わたしたちに「聖霊によって洗礼を授ける方」、つまり主イエスは、「聖霊なる主として」わたしたちの罪を赦し、わたしたちをご自身のものとしてくださる方であることをも証しします。

従って第二に、聖霊なる主イエスによって罪赦されたわたしたちは、同時に、聖霊なる主によって聖くされ、神への捧げものとされて、神に帰ることさえ赦されます。

これは驚くべき恵みです。「聖霊なる主イエス」は、わたしたちの罪を赦してくださるのみならず、わたしたちを聖めて、神への捧げものといて、ご自身の許にお返しくださる。だからこそ、今日の福音の始めに、主は、この「聖霊(なる主)を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と、警告しておられたのです。  

主イエスは、「神のみ心を行う人こそ、わたしの母、わたしの兄弟・姉妹である」と仰せでした。「神のみ心を行う」。それはわたしたちの知恵や力によってではありえず、神のみ心を唯一知る「聖霊なる主」のお助けによってのみ、わたしたちに可能とされることです。従って、「神のみ心を行う」者とされるために、わたしたちは、聖霊なる主によるわたしたちの罪の赦しと聖化を求めさせていただく他ありません。その時、聖霊なる主は、先にご自身の母マリアさまと兄弟たちを招かれた「神のみ心」に生かされる者たちの交わりへと、わたしたちをも喜んでお招きくださいます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。