司祭の言葉 6/2

キリストの聖体の主日 マルコ14:12-16,22-26

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

マルコによる福音は、主イエスと十二人の弟子たちとの「最後の晩餐」の様子を、目に見えるように鮮やかに、そして端的に伝えてくれています。

その中でも圧巻は、主イエスご自身が、みことばと行為をもって、ペトロたちに、「ご聖体の秘跡」すなわちごミサを制定してくださったことを伝える場面です。これは、後にルカおよびマタイによる福音、さらには初代教会の貴重なごミサの記録でもある使徒パウロのコリントの教会への手紙によっても一致して証言されます。

しかし、なぜ、主イエスは十字架とご復活に先立つ「最後の晩餐」で、「ご聖体の秘跡」つまりごミサを制定してくださったのでしょうか。

主イエスは、「最後の晩餐」に続くご自身の十字架とご復活によって、わたしたち罪人の救いのために「主の過越の神秘」を完成・成就してくださいました。その恵みに、使徒たちのみならず、後のわたしたちすべてが、一人も漏れることなく確実に与ることができるように、主は、「これをわたしの記念として行いなさい」と、「ご聖体の秘跡」を制定してくださったのです。

実はそのおことばで、主イエスが制定してくださったのは、ご聖体の秘跡・ごミサだけではありません。同時に司祭の叙階の秘跡をも制定してくださいました。この二つの秘跡は「同時制定の二秘跡」と呼ばれます。ご聖体の秘跡に仕える司祭の叙階の秘跡を欠いては、ご聖体の秘跡の正しい執行を教会は保証できないからです。

したがってご聖体の秘跡・ごミサで、司祭は、「これをわたしの記念として行いなさい」との「最後の晩餐」での主イエスの十二使徒へのご命令に忠実に、主ご自身がなさったように、皆さんから捧げられたパンを手に取り、「奉献文」の感謝の祈りの内に聖霊の注ぎを求めつつ、主ご自身の次の制定のおことばを繰り返します。

「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される、わたしのからだである。」(マルコによる福音では、「取りなさい。これはわたしのからだである。」

続けて、司祭はブドウの杯を手にとり、主イエスの次のおことばを、繰り返します。

「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。」(マルコによる福音では、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

司祭を用いて、十字架とご復活の主イエス・キリストご自身が、みことばと行為によって聖別されたご聖体の内に、聖霊によって現存されます。数えきれない信者・殉教者たちが、ご聖体の内に聖霊によって現存される主ご自身に、彼らの生涯を託し、最後には彼らの命を捧げ、唯一人たりとも裏切られたことの無い、これがカトリックの信仰です。この信仰には、東・西の教会の違いはまったくありません。

ご聖体においてご復活の主イエスのいのちを受けた、聖アウグスティヌスは語ります。「主イエス・キリストのご聖体を拝領する時、わたしたちは、主をわたしたちの体へと消化するのではありません。ご聖体を受けたわたしたちの方が、主によって消化されるのです。その時、わたしたちの罪なる身体が、キリストの栄光のからだへと変えられます。それゆえ、驚嘆し、かつ喜んでください。皆さんは、ただキリスト者とされるのではありません。ご聖体によって、キリストのからだとされるのです。

わたしたちの内にまで来てくださって、「わたしたちの罪なる体を、キリストの栄光のからだに変えてくださる」ことがおできになるのは、ただ「聖霊なる神」お一人です。したがって聖アウグスティヌスは、ごミサでわたしたちが受けるご聖体の内にキリストの霊・「聖霊」が、現に生きて働かれる、と明確に教えてくれているのです。

「福音とご聖体において活けるご復活のキリストにお会いさせていただくのです」と先のベネディクト十六世教皇は繰り返し教えてくださいました。聖アウグスティヌスが教えるように、ご聖体においてわたしたちが受けるのは、「聖霊」です。そして、じつは「聖霊」こそ、目に見えないけれども活けるご復活の主イエスご自身です。

ご聖体の祭日。今、ここに、ご聖体の内に聖霊によって現存されるご復活の主イエスご自身が、わたしたちにお会いくださいます。ご復活の主は、「聖霊」において、自らをご聖体としてわたしたちにお与えくださいます。まさに「驚嘆」すべき主の遜(へりくだ)りの事実。さらに、ご聖体の主をいただくわたしたちは、聖霊において、罪なる身体から主のからだへと変えられます。じつに「喜ぶ」べきわたしたちの光栄。わたしたちがごミサで記念し祝うのは、聖霊において働き、わたしたちをご自身のからだとしてくださるご聖体のキリストの、この大いなる恵みの奇跡です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 5/26

三位一体の主日(年間第8週)マタイ28:16-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「聖霊降臨の主日」に続く今日は「三位一体の主日」。集会祈願で、「唯一の神を礼拝するわたしたちが、三位の栄光をたたえることができますように」と祈りました。

唯一の神を、父・子・聖霊の三つの位格を以てお呼びさせていただく。これは、ご復活の主イエスご自身がなさっておられることです。主は、仰せになられました。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名(「名」は単数)によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

先の「聖霊降臨」の主日の福音で、ご復活の主イエスは、天の父なる神のみ許からわたしたちに遣わされる「聖霊」を「弁護者」と呼んでおられました。ただし、日本語で「弁護者」と訳されたギリシャ語パラクレートスは、元来「(人を助けるために)傍らに呼ばれた方」という意味の言葉です。そうであれば、「聖霊」は、日本語で「復活する」と訳された元来のギリシャ語の意味する「倒れている者を抱き起こし、病む者を介抱してくださる」、つまりご復活の主イエスのお姿と、確実に重なります。

このように、「聖霊」において、ご復活の主イエスご自身がご昇天後も変わることなくわたしたちと共にいてくださる、むしろ「聖霊」こそ「ご復活の主イエス」ご自身であられることを、主は今日の福音でわたしたちに確信させてくださいます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

同時に、「聖霊」としてわたしたちと共にいてくださるご復活の主イエスが、ご昇天という出来事を通して、全能の天の父なる神と一つであられることも明らかにされました。主は仰せです。「わたしは天と地との一切の権能を授かっている。」

マルコによる福音は、この真実を、さらにつぎのように具体的な事実を以って語っています。(ご復活の)主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、(父なる)神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコ16:19-20)

父なる神と一つに「天と地との一切の権能」を行使なさるご復活の御子なる主イエス。ご復活の主は、ご昇天の後の今、「ご復活の主の霊」である「聖霊」によって、地上のわたしたちといつも共にあり、さらに共に働いてさえくださっておられます。

それにしても、なぜ、唯一の神が、父・子・聖霊の三つの位格によって働かれると言われるのでしょうか。あるいは、わたしたちは、なぜ、「唯一」の神を、父なる神・子なる神・聖霊なる神の「三位」、つまり各々異なったお働き(存在の違いではなく、存在の仕方の違い)ゆえに、三つの異なった位格でお呼びさせていただくのでしょうか。

それは、わたしたちの救いのためです。罪なるわたしたち一人ひとりのために、神ご自身がわたしたちと共に在り、さらにわたしたちすべての内にまで来てくださって、わたしたちの内から救いのみ業を全うしてくださるためには、唯一なる神が、父なる神、子なる神、そして聖霊なる神として働いてくださる他ないからです。

わたしたちの救いのために、天の父なる神は、全知全能の力の座である天を離れること無く、御子キリストとして地のわたしたちの許に来てくださり、わたしたちの罪の贖いために、ご自身を十字架につけてくださいました。さらに、主イエスは復活され、そのご復活の主は、ご昇天の後にわたしたちにご自身の霊である「聖霊」を与えくださり、わたしたちの内に働き、またわたしたちと共に働いて、わたしたちのみならず、わたしたちを通してすべての人々の救いの業を完成してくださいます。

神がわたしたち一人ひとりの救いのためにしてくださった具体的な事実、その手続きの一つひとつを指折り数えるように、わたしたちは心からの懺悔と感謝をこめて、唯一の主なる神を、父・子・聖霊と、三位の位格でお呼びさせていただくのです。ただしそれは、神が難解で複雑な方だということではありません。わたしたちの罪が、わたしたちを救ってくださるための神の救いの手続きを複雑にしたのです。

したがって、わたしたちにとって、唯一の神を「三位」の位格でお呼びする「三位一体」の信仰は、単なる教理ではありません。わたしたち自身の心からの懺悔と感謝による信仰の告白です。罪なるわたしたちを救い取ってくださった神のご懇切なるみ業を思い起こす時、わたしたちは唯一の神を、父なる神、子なる神、聖霊なる神と、懺悔と感謝を以てていねいにお呼びされていただく他無いからです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 5/19

聖霊降臨の主日 ヨハネ15:26-27,16:12-15

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」

先に、主イエスのご昇天の証人とされたわたしたちは、今日、主の約束された聖霊の降臨を祝い、またその証人とされるべく、再び、主のみ前に集められました。

ここでわたしたちは、弟子たちとの最後の晩餐での主イエスの説教のおことばを、もう一度想い起こすようにと求められています。それが、今日の福音です。

最後の晩餐の間中、主イエスは、弟子たちとの晩餐に続くご自身の十字架をはっきりと見つめておられたはずです。しかしその時でさえ、否、その時こそ、主のお心を占めておられたのは、十字架の後に残されるわたしたち弟子たちの事だけです。

そのわたしたちに、主イエスはご自身の十字架とご復活、さらにご昇天の後、「真理の霊」を送ってくださること、そして「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と、約束してくださいました。

ここで、主イエスがお送りくださる「真理の霊」。今日の福音では、主はそのお方のことを「弁護者」とお呼びになっておられました。

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をなさるはずである。」

「真理の霊」、すなわち「弁護者」が、わたしたちのために主イエスご自身の十字架の死の犠牲と引き換えに与えられることは、主の次のおことばからも明らかです。

「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたたちのところに送る。」

それにしても、主イエスは、ここで、「真理の霊」つまり「聖霊」のことを、なぜ「弁護者」とお呼びになっておられるのでしょうか。

「弁護者」。じつは、これはギリシャ語で、元来「(人を助けるために)傍らに呼ばれた人」を意味する言葉です。従って、助け手、介護者、保護者とも訳されて来ました。

先にわたしは、「復活」すると訳されている言葉は、『福音書』のギリシャ語、さらにその背後に考えられるユダヤの言葉でも、傷ついた人を介抱する、あるいは、倒れた人を抱き起こすと言う意味で、日常使われる言葉でもあると申し上げました。

主イエスのご復活。そこには、傷ついたわたしたちを介抱してくださる主、倒れ、あるいは死んでさえいたわたしたちを抱き起こしてくださる主が、立っておられます。

このご復活の主イエスのお姿。それは、今日の福音で、主が十字架の後に、ご自身の十字架の死と引き換えにわたしたちにお与えくださる「弁護者」、むしろ「助け手」、「介護者」、「保護者」のお姿と、明らかに重なり合っています。

そして、「弁護者」とも呼ばれるその方こそ「聖霊」なる主であられることは、最後の晩餐の説教の中で、主イエスご自身が繰り返し明らかにしておられる通りです。

しかし、この「弁護者」である「聖霊」が、主イエスから遣わされて来られる時、そこにはどのようなわたしたちの姿があるのでしょうか。それは、傷つき、倒れ、あるいは、主のみ前に命を失ってさえいるわたしたち、ご復活の主に抱き起こされることを、ひたすら待ち望んでいるわたしたちの姿ではないでしょうか。

「真理の霊」は、そのわたしたちを「導いて、真理をことごとく悟らせてくださる。」「真理の霊」が、「聖霊」つまり「ご復活のキリストの霊」に他ならない以上、「真理の霊」がわたしたちを導く「真理」とは、ご復活の主イエスご自身に他なりません。

「聖霊降臨」の今日、ご昇天の主イエスがお遣わしくださる「真理の霊」・「聖霊」は、わたしたちをご復活の主へとお導きくださいます。「弁護者」なる「聖霊」は、わたしたち一人ひとり、主のみ前に倒れ、死んでさえいるわたしたちを確実に抱き起こし、命へと回復してくださるご復活の主のみ腕の内に確実に導き入れてくださいます。

「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」「聖霊」が遣わされるところ、そこには、わたしたちの前にご復活の主イエスが確実にお立ちになっておられます。そして、ごミサこそまさにその主イエスとの出会いの時です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 5/12

主の昇天(復活節第7週)マルコ16:15-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日、わたしたちは、主イエスの弟子たちとともに、「天に上げられ、神の右の座に着かれる」ご復活の主の証人とされるために、このごミサに集っています。

マルコによる福音は、ご復活の主イエスがご昇天を前にして、ペトロたち十一人の弟子たちにお命じになられた大切なおことばを伝えてくれていました。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

マルコはその生涯を、使徒ペトロの弟子として誠実に生きました。したがって、マルコによる福音書は、ペトロが、マルコに直々に伝えたに相違ない主イエスのおことばに基き、師であるペトロの教えに忠実に記録されたと信じられています。

そうであれば、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」との、主イエスのペトロたちへの世界宣教のご命令も、マルコがペトロの口から直接聞かされた主ご自身のおことばであったに違いありません。

ペトロは主イエスのおことばをマルコに語る時、いかなる思いだったのでしょうか。

恐らく、ペトロはその時、このおことばを主イエスご自身からご昇天の直前に聞かされた時の、彼の身の竦(すく)むような畏れと、さらには十字架の際に一度は主を捨てさえした彼に対しての主のまったく変わらぬ真実と信頼に、深い懺悔と抑えきれぬ感謝の思いが、溢れる涙と共に込み上げて来たのではなかったでしょうか。

ペトロから、主イエスのこの宣教のご命令のおことばを聞かされたマルコも、それを語るペトロの決意と情熱に圧倒されたに違いありません。マルコのその時の感動が、後に彼に福音書を執筆させる動機と力となったに違いありません。

さらに、後にマルコ自身、ローマで宣教し殉教した師であるペトロに習って、主イエスの宣教のご命令に従い、自らアレキサンドリアに宣教し、使徒ペトロのローマ使徒座に一致して、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレムと共に初代教会の五大司教区の一つとなる当地の教会の建設に献身しました。

さて、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と、「ご復活の主は、弟子たちに話した後」と、マルコは今日の福音で、さらに、ご昇天の主イエスについて、大切な二つのことをわたしたちに語ってくれています。

第一に、「主は天に上げられ、神の右の座に着かれた」、ということです。ご復活の後四十日の間、ペトロたち多くの弟子たちと共に地上に留まってくださったご復活の主イエス・キリストは、その後、「弟子たちの見ているうちに天に上げられ」ました。それは、「天の父なる神の右の座に着かれる」ためでした。

「父なる神の右の座に着かれた」とは、父なる神と権威と力とを完全に一つにされたのみならず、父なる神の権威と力を行使することがおできになる唯一の方となられた、と言うことです。言い換えれば、今後、神の権威もその力も、御子キリストを通して、そして御子を通してのみ現わされる、と言うことです。

第二には、主イエスのご命令を受けて、文字通り全世界に「出かけて行って、至るところで宣教した弟子たちと、主は共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」、ということです。

ご復活の主イエスは、弟子たちに全世界への宣教を託されて、ご自分は帰天されたというのではありません。ご昇天後も地上で彼らと一緒に働いてくださる。目に見えない聖霊において。しかしそれは、目に見えるしるしを伴って、と主は仰せです。

マルコが伝えるこれら二つのことは、共に同じ主なる神キリストのみ業です。したがって、「全世界に出て行って宣教する弟子たちと共に働かれる主」は、「天に上げられて、神の右の座に着かれたキリスト」ご自身に他なりません。

弟子たちを用いて働かれる、弟子たちを通して語られる方は、主イエスご自身です。彼らを用いての主の宣教は、天の父なる神の権威と力によるみ業。そして神は、無から有を生み出すことがおできになる。それこそが目に見える確実なしるしです。

弟子たちを通して語られる主イエスのみことばは、常に真実です。今や天の父なる神の右に座し、神から全権を託された主は、そのみことばによってすべてを創造することがおできになるからです。弟子たちへの主の宣教のご命令。それはわたしたちを用いて働かれる、聖霊によるご復活の主イエスの新しい創造のみ業です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 5/5

復活節第6主日 ヨハネ15:9-17

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「神は愛です。」(1ヨハネ4:8b)

この言葉を、主イエスの十字架とご復活の後、主の弟子ヨハネはどのような思いで綴ったのでしょうか。彼は、さらに次のように手紙の文章を続けます。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。」(1ヨハネ4:9)

主イエスに愛された使徒ヨハネには、主の十字架とご復活を経て、彼の心の内に明らかにされて来た事実があったはずです。それは、神はその愛を主イエスによって現わされた、すなわち、神の愛は主イエス・キリストである、と言う事実です。

愛とは、たんなる教えではありません。愛とは、人のために命を捧げることです。それは、今日の福音で主イエスご自身が、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と、極めて具体的に仰っておられる通りです。

事実、愛とは具体的である他ないものではないでしょうか。神は、一人ひとり異なるわたしたちを、一人ひとり掛け替えのない子として愛してくださいます。

「神は愛です。」 それは、天の父なる神が、御子キリストにおいて、この地上で、このわたしたち一人ひとりを愛し、わたしたち一人ひとりにご自身のいのちをお与えくださったと言うことです。ヨハネは、彼の言葉を次のように結んでいます。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

(1ヨハネ4:10)

「ここに神の愛がある。」 ここ。それは、主イエスの十字架とご復活です。

その主イエスご自身、今日の福音の内に、わたしたちに仰せになられます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」そして、「わたしの愛にとどまりなさい。」

主イエスの愛に「とどまる」。この「とどまる」と言う言葉は、先週の主日の福音の主の「ぶどうの木のたとえ」の中で、ぶどうの枝であるわたしたちが、ぶどうの木である主に「つながる」と言う時の「つながる」と言う言葉と同じです。

主イエスの愛にとどまる。それは、ちょうどぶどうの枝が、ぶどうの木に堅くつながるように、わたしたちが、主にしっかりとつながらせていただくと言うことです。そのわたしたちに主は、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)と、約束しておられました。

同じことを、今日の福音で、主イエスは次のように仰っておられました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願う者は何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

主イエスは、既に、わたしたちを選んでおられます。それは、主がわたしたちに、主ご自身のみことばによって、みことばなる主ご自身をご聖体としてお与えくださることによって、すなわち主の自己犠牲によって、既に、わたしたちをぶどうの木であるご自身の枝としてしっかりと結び付けてくださっておられる、ということです。

二つの理由を、主イエスは仰せでした。第一は、枝であるわたしたちが、ぶどうの木である主からいのちの水を十分に受けて、豊かな実を結ぶために。次に、わたしたちが主のみ名によって祈る時、父がその祈りを聞いてくださるために。

実は、これらはともに、わたしたち自身のためだけではなく、主イエスの救いと主の愛を求めるさらに多くの人々を、主の愛で満たすためであるに違いありません。

今日の福音を、主イエスは、次のおことばで結んでおられます。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

主イエスに愛された者として、主の愛の内に、主の愛に応えて、神と人とのために生涯を捧げて主の愛に生きる。この主の愛のご命令は、主のわたしたちへの、愛の主とともにある喜びに満ちた新しいいのちへの招待です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。