司祭の言葉 4/28

復活節第5主日 ヨハネ15:1-8

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。

ヨハネによる福音は、主イエスの「最後の晩餐」での十二弟子への説教と祈りを、五章にもわたって、実にていねいに伝えてくれています。今日の福音はその一節で、その内容からとくに、主の「ぶどうの木のたとえ」とも呼ばれてきました。

聖地を旅行された方は、お気付きと思います。ぶどうは乾燥した地で生育し得る数少ない植物です。しかもそのような地において、とりわけ豊かに水分を蓄える事のできるぶどうは、日本でいう果物と言うよりも、乾燥した地の人々にとっていのちの水ともいい得る、まことに貴重な植物です。

主イエスは、わたしたちに「わたしはぶどうの木」と、仰ってくださいました。主のおことばには、水を求めて得られないような荒地においても、主はわたしたちに豊かにいのちの水を与えることがおできになる、との主のおこころを強く感じます。

「わたしはぶどうの木」と言われた主イエスは、さらにわたしたちに、「あなたがたはその枝である」と仰せでした。「ぶどうの木」である主に、「枝」として繋がらせていただかなければ生きることができないわたしたちであることを、主は良くご存知です。わたしたちは誰一人、いのちの水なしに生きることはできないからです。

ところで、主イエスは続けて、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と、仰せになっておられました。

一つのことに気付きます。主イエスは、わたしたちをぶどうの木の「枝」であると仰っておられるのであって、「実」であると仰ってはおられません!

主イエスはわたしたちを、ぶどうの「実」ではなく、主のぶどうの木の「枝」としてくださいました。「枝」であるわたしたちが、主なるぶどうの木からの豊かないのちの水を受けて生きるのみならず、「豊かに実を結ぶためであると、主は仰せです。

「ぶどうの実」は、わたしたちという「枝」を通して、「ぶどうの木」である主イエスからのいのちの水を豊かに蓄えさせていただきます。そのわたしたちという「枝」を通して多くの「実」が豊かに受けるのは、主のいのちです。

ところで、わたしたちに、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と仰せになられた主イエスは、天の父なる神については、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と、仰っておられました。

その上で、主イエスは続けて、父なる神ご自身が農夫として、ぶどうの木の枝を手入れしてくださる。実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶ枝は、さらに豊かに実を結ぶようにしてくださる、と仰せになられました。わたしたちは、どちらでしょうか。

実は、主イエスは、決定的に大切なことを、わたしたちに仰せになっておられました。「わたしの話したことばによって、あなたがたは既に聖(きよ)くなっている。」

「既に」です過去の、あるいは今後のわたしたちの様子を見て、ではありません。主イエスは、わたしたちに与えられたみことばによって、「既に」わたしたちを聖くしてくださった。父なる神は、みことばなる主を与えてわたしたちを、「既に」父なる神のもの・豊かな「実」を結び得る枝としてくださっておられる、と主は仰せです。

「わたしの話したことばによって、あなたがたは既に聖(きよ)くなっている。」わたしたちを聖くすることがおできになるのは、聖霊のみです。つまり、主イエスは、ご自身であるみことばをわたしたちにお与えくださることによって、「既に」わたしたちに、聖霊をお与えになっておられる、と仰っておられるのです。

事柄は明確です。主イエスがわたしたちにみことばをくださる、それはみことばなる主ご自身をくださることです。みことばなる主は、聖霊なる主ご自身です。

主イエスの「ぶどうの木のたとえ」は、最後の晩餐での主の説教の一節です。そこでの主の約束は、「最後の晩餐」を経て十字架で裂かれ、わたしたちに与えられる主ご自身、つまりご聖体において、わたしたちに聖霊をくださる、ということです。

主イエスのみことばとご聖体において聖霊をいただいたわたしたちは、聖霊によって既に聖くされている、と主は仰せです。それはわたしたち、さらにわたしたちを通して多くの人が、主から同じいのちの水をいただいて豊かに生きるためです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/21

復活節第4主日 ヨハネ10:11-18

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

これは、主イエスのおことばです。ここで、「良い羊飼い」とは、誰のために「良い」のでしょうか。もちろん、わたしたち「羊のために」です。わたしたちを生かすために、ご自身を犠牲になさるほどに、わたしたちのために「良い」ということです。そうであれば、「良い羊飼い」とは主だけです。ただ主だけが、このみことばの通りに、「良い羊飼い」として、事実、わたしたち「羊のために命を捨て」てくださったからです。

ここで思い出すことがあります。主イエスは、宣教のご生涯の始めに、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ9:35)と、マタイによる福音は伝えていました。ただし、その時、行き廻られた町や村で、主がご覧になったわたしたちの現実とは、どのようなものだったのでしょうか。

マタイによる福音は続けていました。「主は、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:35,36) フランシスコ会訳『聖書』では、ここを次のように訳しています。「イエスは、群衆が牧者のいない羊の群れのように疲れ果て、倒れているのを見て、憐れに思われた。」

先に、主イエスの話されたユダヤの言葉でも、また福音が伝えられた新約のギリシャ語でも、「復活する」とは、元来、倒れている人を抱き起こす、さらには、傷ついた人を介抱する、と言う時に日常的に使われる言葉(他動詞)でもあると申しました。

そうであれば、「牧者のいない羊の群れ」こそ、主イエスのみ前に「疲れ果て、倒れて」いたわたしたちの姿、ご復活の主に見いだされ、抱き起こされ、介抱されることをひたすらに待っているわたしたち自身の現実の姿ではないでしょうか。

「わたしは良い羊飼いである。」主イエスは、今日の福音で、このおことばを二度繰り返された後、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と、仰せになっておられました。この時、主が「羊であるわたしたちを知って」おり、羊も「神である羊飼いを知る」とは、どういうことなのでしょうか。主は、仰せです。

「それは父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」

御父なる神と御子キリストが互いを知る。それは、御父と御子が一つであるということです。そうであれば、御父が御子を知っておられるように、羊飼いである主イエスが、わたしたち羊を知ってくださる。それは、父なる神と御子が一つであるように、主は、ご自身とわたしたちとを一つにしてくださる、ということです。

驚くべきことに、「牧者のいない羊」であるようなわたしたちを、主イエスはご自身と一つとしてくださる。ご自身そのものとさえしてくださる。自らの罪ゆえに主のみ許から迷い出たわたしたちの負うべき十字架、つまりわたしたちの悩み、苦しみ、悲しみ、罪の一切を、主ご自身がご自分に引き受けてくださる、と言われるのです。

「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」ここに神の愛があります。御子にわたしたちを固く結びつけご自身と一つにしてくださる父なる神の愛。

しかしこの父なる神の愛は、わたしたちの罪の赦しために御子キリストを十字架につけ、さらに御子を復活させてわたしたちに命を与える聖霊をくださることにより成就する神の愛です。主は仰せでした。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。」

かつては「牧者のいない羊」のようであったわたしたち。それは、自らの罪ゆえに牧者を失っていたわたしたちの現実の姿、唯一人の牧者なる神から罪によって離れてしまっていたわたしたちの姿でした。そのような愚かで惨めなわたしたちと、敢えてご自身を一つにしてくださるまで、わたしたちを愛し抜いてくださる主イエス。

御子キリストによる、この神の愛の内に、わたしたちの罪を贖う主イエスの十字架が堅く立てられています。この神の愛の内に、罪贖われたわたしたちに永遠の命を与え、さらにそのわたしたちを神への捧げものとしてくださるために、聖霊を注いでわたしたちを聖くしてくださるご復活の主ご自身がお立ちになっておられます。

羊飼いなる主イエスが、羊であるわたしたちを知り、ご自身と一つに結び合わせてくださいます。主は、十字架とご復活によるご自身のご奉献に、わたしたち自身の奉献を一つに結び合わせてくださいます。ごミサこそ、まさにその時です。

「わたしは良い羊飼いである」と主イエスは仰せです。 

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 4/14

復活節第3主日 ルカ24:35-48

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」(ルカ24:32)

「そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を(ペトロたち十一人の弟子たちに)話した」(ルカ24:35)と、今日のルカによる福音は、語り始めていました。

ところで、遡って、主イエスの十字架の死から三日目のことでした(ルカ24:13-34)。この二人の弟子たちは、エルサレムを離れてエマオと言う村に向かっていました。彼らは、主のことを道々話していました。すでにその日の朝早く、十字架の主のおからだが納められた墓を訪ねた婦人たちから、「主は生きておられる」と聞かされていました。しかし、二人はそのことを信じることができませんでした。

エルサレムから離れて行くこの二人に、いつの間にかご復活の主イエスが寄り添い、ともに歩き始めてくださっていました。しかし彼らは、この方が主ご自身であることに気づきませんでした。「二人の目は遮られていた」と、聖書は伝えています。

何が、ご復活の主イエスに対して、彼らの目を遮っていたのでしょうか。それは、彼らの人間的でこの世的な主への期待、したがって主の十字架の死による失望と落胆。さらには、その後の主のご復活を疑う疑いではなかったでしょうか。

実は、そのような二人には最初から、主イエスの真実が目に見えていなかったのかも知れません。それは、彼らが主に呼ばれたその時から、主の十字架の死、さらには主のご復活の後の今この時に至るまで、神が一時も休むことなく、主イエスにおいて彼らになさってくださっておられた恵みの事実です。

しかし、この神の恵みの事実に、二人の目が開かれる時が来ます。

二人、否、今や三人がともに歩き続けて夕方になりました。二人は、もう一人の方を夕べの食卓に招きました。その方は彼らとともに家に入られ、一緒に食卓に着かれました。そして、その方が二人に「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」まさにその時、「二人の目が開け、イエスだと分かった」(24:30,31)。

「主は生きておられる。」

十字架を控えての最後の晩餐の時と同じ主イエスが、しかし、まぎれもなく、今やご復活の主が、その食卓で、二人のためにパンを裂いておられる、彼らのために、ご自分の御からだを裂き、ご自分の御血を注いでくださっておられる。 

実は、ご復活の主イエス・キリストに対して「目が遮られていた」のは、この二人の弟子だけではありませんでした。エルサレムに留まっていたペトロたち他の弟子たちも、同様でした。彼らは、この二人から主のご復活の証言を聞かされていたにもかかわらず、ご復活の主がペトロたちにご自身を現わされた時、主から「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起すのか」と言われなければなりませでした。

しかし、ご復活の主イエスは、ちょうど、かつてエルサレムを離れてエマオに向かった二人になさったように、ペトロたち十一人の弟子たちにも、主ご自身について、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活するとの聖書の言葉を悟らせるために、彼らの心の目を開いて」くださいました。その上で、主は、「あなたがたはこれらのことの証人となる」と、ペトロたちに約束されました。

後にペトロたちは確かに、主イエスのお約束通り、主の十字架とご復活の証人とされました。しかしそれは今日の福音のように、ご復活の主ご自身が、彼らの心から疑いが無くなるまで、くりかえし彼らを訪ねてくださったことによって、でした。

わたしたちも、同じではないでしょうか。わたしたちの「遮られた心の目」が、ご復活の主イエスにはっきりと開かれるその時まで、主はうむことなく、休むことなくわたしたちを訪ね、わたしたちのためにご自身について聖書を悟らせ、さらにごミサで、主とのこの食卓でご自身の御からだを裂き、御血を注ぎ出してくださいます。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」

わたしたちも同様です。ご復活の主イエス・キリストは、すでにわたしたちとともに歩いてくださっておられた。この事実に気づかせていただく。それがごミサです。

ご復活の主が、皆さんとともに。 父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 4/7

復活節第2主日 (神のいつくしみの主日) ヨハネ20:19-31

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしの主、わたしの神よ。」

主イエスの十二使徒の一人トマスが、ご復活の主日から八日目の当に今日。彼を訪れてくださったご復活の主イエス・キリストご自身に、深い懺悔、そして畏れと感謝をもって告白した、彼の信仰のことばです。彼のこの信仰のことばは、今に至るまで、すべての時代、全世界のキリスト者の信仰告白のことばであり続けています。

聖トマスは、「わが主よ、わが神よ」との彼の信仰のことばとともに、二千年の教会の歴史を通して記憶されてきました。しかし、トマスは最初から信仰者の模範というべき人であったという訳ではなかったようです。最初はむしろ逆であったともいえます。トマスは、弟子たちの間で、「ディディモ」と呼ばれていました。これには「双子」に加えて、「疑い深い」と言う意味もあるのです。それには、理由があります。

わたしたちは、先の主日を、主イエス・キリストの復活の主日としてお祝いいたしました。主は十字架におつきになられる前に、弟子たちに三度、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」と仰せになっておられました。このおことば通り、主は十字架に死に、そして三日目に復活されました。

その復活の主日後、昨日までの一週間、わたしたちは毎日の礼拝で、ご復活の主イエスが、最初にマグダラのマリアに、続けて十字架の許にまで主に従い続けた婦人たちに、さらにペトロたち主の弟子たち一人ひとりにお会いくださった次第を、喜びと感動、そして畏れをもって、福音からていねいにお聞きし続けて参りました。

ただし、ご復活の主イエス・キリストは、今日までトマスにだけはお会いなっておられませんでした。なぜでしょうか。今日の福音が伝えているように、ご復活の日の夕方、主が他の弟子たちをお訪ねになられた時、トマスは、そして彼一人だけが、彼らと一緒にいなかったからです。トマスは、主イエスのご復活を疑っていたからです。

ペトロがトマスに、「わたしたちは、週の始めの日に、確かに主に、ご復活の主にお目に掛かった」と熱く語った時も、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とさえ応えていました。

さて、ご復活の日から丁度一週間後の今日、ペトロ始め主イエスの弟子たちは再び集まりました。トマスも今日は一緒でした。ご復活の主日と同様に、主は八日目の今日再び、弟子たちを訪ねてくださいました。ご復活の主イエスは、今日はとくにトマスにお会いくださるために来てくださいました。主はトマスに仰せになりました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

ご復活の主イエス・キリストのこのおことばに応えて、トマスの心の底から絞り出されるようにして語りだされた言葉こそ「わたしの主、わたしの神よ」でした。疑い深いトマスでした。主のご復活の約束を、さらにその事実をも疑っていました。しかし、トマスは、最早これ以上疑い続ける訳にはゆきませんご復活の主イエスご自身が、今、弟子たちのただ中に、そしてトマス自身の目の前に立っておられるからです。

その時、トマスは主イエスのみ前に悔い崩折れる他無かったと思います。今日まで疑いの内に自らを閉ざしていたトマス、主の十字架の下に蹲り続けていたトマスを、主は大切に抱きしめ、抱き起こしてくださいました。十字架の釘跡の残る主の両の御腕で。槍で刺し貫かれた傷跡の残る主のみ胸の内に。それが、主のご復活です。

「ディディモ」と呼ばれたトマスのように、主イエスを「疑う」こと、神の遣わされた主を信じ切ることができないことを、聖書では罪と言います。この罪の帰結は死以外にはありません。神を疑い続ける限り、人は真実に生きることはできないからです。神を疑う者は、結局は自分自身も疑い、誰をも信じることはできず、したがって、誰とも信頼しあい、愛しあい、望みをもって生きることはできないからです。すなわち、神を疑う者は、神と人とに対して死んだ者である他ないのです。

しかし疑うトマスを、主イエスはそのままにしてはおかれません。ご復活の主イエス・キリストは、彼を、神と人との前に決して死んだままにしてはおかれません。トマスだけではありません。実は、二度もご復活の主のご訪問を受けながら、なお主のご復活を疑ったペトロ始め主の弟子たちを、ご復活の主イエスは忍耐強く、「三度」訪ねてくださいました。わたしたちすべてが、最早二度と、主のご復活を疑い得なくされるまで、十字架の許に蹲っていたわたしたちすべてが、主に抱き起こされ、主とともに主のご復活のいのちに歩み始める者とされるまで、主は忍耐強くわたしたちを訪ね続けてくださいます。それが今日の福音です。

「わたしの主、わたしの神よ」。 ご復活の主が、皆さんとともに。 アーメン。