司祭の言葉 3/31 日中

復活の主日・日中のミサ(B年・2024年3月31日)ヨハネ20:1-9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエス・キリストのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアは、主のおからだが納められた墓を訪ねました。しかし、その墓の内に、主を見つけることは出来ませんでした。ヨハネによる福音は、そのように伝えています。

主イエスにもう一度お会いしたい。主への切ないほどのマグダラのマリアのこの一途な思い。しかし、訪ねた主の墓が空であった時のマリアの驚きと落胆。それは、皆さんもよくお分かりになると思います。

しかし、「その時」と、ヨハネによる福音は、続けて、マグダラのマリアとご復活の主イエスご自身との驚くべき出会いを伝えます。

マリアが「空の墓の外に立って泣いていた」「その時」、彼女は、「マリア」と彼女の名を呼ぶ声を聞いたのです。忘れもしないその声に、マリアは即座に、彼女の言葉で主に、「ラボニ」と、お応えしました。「わたしの先生」と言う意味です。

「わたしの先生」。この短い言葉にマリアの逸る心を感じます。ふたたび見(まみ)えることができたご復活の主イエス・キリスト。主に縋りつきたい。しかしこの時、主はマリアに、「わたしに縋りつくのはよしなさい」と仰せになりました。なぜでしょうか。

マグダラのマリアだけでは無いと思います。実は、気付かないままにわたしたち一人ひとりも、「わたしの」思いの中に、「わたしの」小さな愛の中に、「わたしの」願いの中に、主イエスを求め続けて来たのではなかったでしょうか。

しかしご復活の主イエスは、逆にわたしたちが、「主の」内に、「主の」深い願いの内に、「主の」大きな愛の内にわたしたち自身を見つけることを求めておられます。

主イエスは、エルサレムに最後に入城された直後、神殿での説教で人々に、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と、仰せになっておられました。

このみことばで主イエスは、ご自身の十字架に続くご復活が、聖霊による主ご自身の新しいいのちの始めであるとともに、主の十字架によって主に結び合わされたわたしたち自身の復活のいのちの始めでもあることを、語り示しておられます。そしてそのことを、復活の主イエス・キリストの使徒パウロは次のように語っています。

「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。・・・あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1-4)

ご復活の主イエス・キリストが、マグダラのマリアに、「わたしに縋りつくのはよしなさい」と仰せになられた時、主は、続けて次のように念を押しておられました。「わたしは、まだ父のもとへ上っていないのだから。」(ヨハネ20:17)

ご復活の主イエスは、決してご自分だけが「天の父のもとに上っていないのだから」と仰っておられるのではないと思います。ご復活の主のいのちとともに、マリアの命も、まだ天の父のもとに高く上げられていないのだから、ということです。

しかし、ご復活の主イエスが天の父のもとに高く上られる時、必ずやマリアの命も主とともに、主によって天に高く抱き上げられ、主のご復活のいのちと一つとされます。ただしそれは、マリアが、ご復活の主に「縋りつく」ことによってではありません。ご復活の主キリストが、マリアを「抱き起こし、抱き上げる」ことによってです。

実は、主イエスがマリアと話された『聖書』の言葉では、「復活する」とは、死んだ者、倒れた者が、一人で立ち上がると言う意味の自動詞ではありません。(倒れた者、死んだ者を)抱き起こし、抱き上げる」という意味の他動詞です。主は復活された。それは、倒れ死んでいた主イエスが生き返ったと言うだけではありません。むしろ、倒れ死んでいたのはマリアの方です。そのマリアを、あるいは倒れているわたしたち一人ひとりを、主が抱き起こし、抱き上げてくださる。それが主の「復活」です。

わたしたちのために十字架につかれた主イエス・キリストは、主の十字架のもとに、なお蹲(うずくま)ってしまうわたしたちのために復活してくださるのです。主のみ前に倒れているわたしたちを、死に打ち勝った主の力強い御腕で抱き起こし、さらに高く抱き上げてくださるために。十字架の傷跡のある主の御腕で。

ご復活の主イエス・キリストが、皆さんとともに。  アーメン。

司祭の言葉 3/31

復活の聖なる徹夜祭(B年・2024年3月31日)マルコ16:1-7

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエス・キリストのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアたち三人の女性たちは、十字架の後に主のおからだが収められた墓を訪ねました。

そのマリアたちに、神は、最初にみ使いによって声をかけてくださいました。それが今日の福音です。実は、福音書は、さらに、ご復活の主イエスご自身とマグダラのマリアとの感動的な出会いの物語を語り継いで行きます。

ところで、最初にみ使いによってマグダラのマリアたちに出会われた神は、彼女たちに「驚くことはない」、文字通りには「恐れるな」と仰せになっておられました。なぜでしょうか。なぜ、神は、この時、マリアたちに、「恐れるな」と仰せになられたのでしょうか。皆さんは、三人の女性たちとともに、神からの「恐れるな」とのおことばを、どのような思いでお聞きになられたでしょうか。

この時、マリアたちは一体何を「恐れた」のでしょうか。主イエスが納められたはずの墓が、空だったことでしょうか。聖書はそのようには伝えていません。そうではなく、み使いによって、神が、彼女たちに会ってくださった、そのことを、マリアたちは「恐れた」のです。マリアたちは、神を「恐れた」のです。だからこそ、マリアたちに、神は「恐れるな」と仰ってくださったのです。

神に「恐れるな」と仰っていただく。わたしはこの主のみことばに、愕然といたしました。なぜなら、神のこのみことばの前に、わたしは自分自身を問い直さざるを得ないからです。果たして、わたしは、神に「恐れるな」と言っていただかなければならないほどに、真実に神を恐れて生きてきたかどうか。さらに、わたしは、今、この時、果たして、神を、そして神のみを、真に恐れて生きているといえるかどうか。

第二次大戦中、当時ドイツの大学で教えていたスイス人牧師カール・バルトが、ドイツの教会の人々に、クリスマスの説教をいたしました。その題は『恐れるな』。説教の題は、主イエスの誕生を予告する天使ガブリエルが、主の母となられるマリアさまに告げた「恐れるな」ということばから取られました。これはドイツのナチの軍靴の響きが、すでにドイツ内外に不気味な影を落とし始めている中で、恐怖と不安に心が動揺している人々に向けて語られた説教でした。

彼は教会に集った人々に、わたしたちは、今、一体何を恐れているのか、と問い掛けます。ナチの軍隊か。もちろん、そうであるに違いない。しかし、と彼はさらに問いかけます。わたしたちは、み使いに「恐れるな」と言っていただかなければならないほどに、果たして、神を、神のみを恐れているだろうか、と。彼は、この説教を次の言葉で結んでいます。「もし、わたしたちが、真の神を、神のみを恐れることがないならば、その結果、わたしたちは、真の神以外の一切のものを、恐れることになる。」

これは他人ごとでありません。先の東日本大震以来の自然災害、さらに未だ終息に至らない新型コロナ感染症に加えて、日常の些細なことでも、一端事が起これば、自分の身の危険や、さらには自らの死を恐れて心が動転するだけのわたしです。

もし、神から「恐れるな」とのみことばを聞かせていただくことがなければ、「神を恐れる」ことに、思いが及ばなかったようなわたしでした。その結果、「神を恐れる」という人として最も大切なことを忘れ、神を信じると言いながらも、取りとめのない不安と神以外のあらゆるものに対する恐れの中で、わたしは一生を空しく過ごしてしまったかも知れません。

こころから愛していた主イエスの十字架の死。頼りにし切っていたに違いない主の、まったく思いがけない死。主イエスのご復活の朝早く、神から「恐れるな」とのみことばを聞かせていただくその時まで、マグダラのマリアたちの心を占めていたのも、主を失った彼女たちのこれからの生活への不安、さらには、主を失った彼女たちを取り巻くすべてのものに対する恐れでは無かったでしょうか。言い換えれば、真の神以外のすべてのものへの恐れでは無かったでしょうか。

しかし、もうその必要はない。ご復活の日の朝、神はマリアに語られたのです。「恐れるな。」そして時を措かず、ご復活の主イエスご自身が彼女にお会いくださる。

神を、神のみを「恐れる」者から、神は、神以外の一切のものへの恐れを取り除いてくださいます。実はこの神こそ、主イエスにおいて既に親しくわたしたちにお会いくださっておられた神。十字架に至るまで、わたしたちを愛し抜いてくださった方です。この方が、今、ふたたびわたしたちにお会いくださる。それが主のご復活です。

「マリア、恐れることはない」。マリアだけではありません。これは、皆さんお一人おひとりへの、ご復活の主イエス・キリストご自身からの愛と慰めのおことばです。

「恐れることはない」。 ご復活の主が、皆さんとともに。 アーメン。

司祭の言葉 3/29

聖金曜日・主の受難(B年・2024年3月29日)ヨハネ18:1-19:42

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

昨晩のごミサで、わたしたちは主イエスと十二弟子たちとの「過越の食卓」「最後の晩餐」を記念いたしました。続く今日、わたしたちは、十字架におつきになられた主のもとに集まり、「信仰の神秘」を記念します。しかしなぜ、信仰は、神秘すなわち秘跡」なのか。信仰とはわたしたちの心の問題ではないのでしょうか。

ところで、「最後の晩餐」の時のことです。主イエスはペトロに、「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」と仰せになられました。ペテロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためには命を捨てます」と、主にお応えしました。その時のペトロの気持ちに偽りはなかったと思います。しかし、このペテロに主は、「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と、冷淡とも言えるおことばを返しておられました。

わたしたちは神を信じるという時、何を思うでしょうか。聖書において、「神を信じる」とは、極めて重い言葉です。それは、神に自分自身を委ね切ってしまうこと、さらには、神に自分自身を一切明け渡してしまうこと、捧げつくしてしまうことです。すなわち、「信仰」とは、わたしたち自身を神に「奉献」することです。つまり、聖書において「神を信じる」とは、近代人が考えるように、神の存在を知的に承認するというようなわたしたちの心の問題などではなくわたしたちの身を神に捧げること、です。

ペテロは主イエスに、「主よ、あなたのために命を捨てます」と申し上げました。それが、「主よ、あなたを信じます」ということなのです。事実、ペテロは後に主のために命を捨てます。ペテロの主への「信仰」は、彼の心の内の確信ではなく、彼の殉教によって成就します。ただし、それは主のご復活の後、聖霊の導きによってです。

しかし、「主の受難日」の今日、わたしたちが目撃するペテロの姿はどうでしょうか。今日に限って言えば、ペテロは、自分を主イエスに委ね切って、主とともに十字架につくことはできませんでした。そのように主を信じきることはできませんでした。しかし、そこには命はありません。主を離れて、命はないからです。主イエスが、主とともに十字架につけられた一人の人に「神の国」を約束されたように、主とともに十字架につけば、じつに、そこに永遠のいのちがある、神の国があるのです。

しかし、受難日の今日、わたしたちが目撃した事実とは、驚くべき事に、ペテロではなく、じつに主イエスの方が、ペテロのためにご自身のいのちを捨てられた、そのように主がペテロを信じた、という事実ではなかったでしょうか。

主イエスを信じきれず、主に自分の命を差し出し切れない今日のペテロ。そのペトロに対して、主の方がペテロにご自身のいのちを捧げ切ってくださった。そのようにして、主の方が、ペテロを「信じ切って」くださったのです。信仰とは、奉献であると申しました。実に、わたしたちが自らを主に捧げきれない中で、先に主イエスの方がわたしたちにご自身を捧げきってくださったのです。わたしたちが主を信じる前に、主がわたしたちを信じてくださったのです。それが、主の十字架です。

「主の受難日」の今日、これが、福音が伝える主イエスとペトロの間に起こった事実です。「信仰の神秘」。福音において明らかにされた「信仰」とは、「神秘つまり秘跡」・神の自己奉献のみわざとして神がわたしたちに成就してくださった神の事実です。今日、主の十字架のもとで記念するのは、この驚くべき神の恵みの事実です。

「信仰の神秘」。「神秘すなわち秘跡」。それは、わたしたちの思いを超えた神のみ業です。それは、理屈ではありません。今日のペトロのように、主イエスを信じ切れずに疑い、従って主のために命を差し出しきれないわたしたち。主のために死に切れないわたしたち。そのわたしたちのために、主の方が十字架の上でご自身の御血の最後の一滴に至るまで注ぎ尽くしてくださった。そのようにしてまで主はご自身を捧げつくしてくださった。十字架の死に至るまで。それが、信仰の神秘です。驚くべきことです。しかし、これは神が、事実なさってくださったことです。また、ご聖体の秘跡として、ごミサの度ごとに神がわたしたちになさってくださる事実です。

「信仰の神秘」「秘跡である信仰」とは、わたしたちが頭で神の存在を確信すると言うような事でも、心の内に主の十字架を偲ぶというようなことでもありません。信仰とは、わたしたちの力を越えた主イエスの事実です。信仰とは、救い主キリストが十字架において、わたしたちにご自身を捧げてくださった恵みの事実です。

この主イエスに、わたしたちは感謝を以ってわたしたち自身を捧げさせていただく。これ以外に、主にお応えする道はありません。それがわたしたちの「信仰」、神へのわたしたち自身の「奉献」です。主イエスの方がわたしたちに先立ち、わたしたちにご自身を、ご自身の御からだと御血を、捧げ尽くしてくださったからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/28

主の晩餐の夕べのミサ(B年・2024年3月28日)ヨハネ13:1-15

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

聖木曜日。主の晩餐の夕べのミサを祝う度に、かつて、わたしが英国で、ユダヤ人の友人の家庭の春の「過越の祭」の食卓に招かれた時のことを思い出します。

ユダヤの人々は、古い仕来りのままにユダヤ暦ニサンの月の14日の過越の晩、家族ごとに食卓に集います。家長のブドウの盃による祝福によって過越の祭儀は開始され、詩編の朗詠に続き、今日お聞きしたのと同じ出エジプトの物語が朗読されます。続いて、家長はパンを取り、感謝の祈りを捧げた後、パンを裂き、一同に配ります。その後、食事の終わりに、再度、家長からのブドウの杯による祝福を以て、過越の祭の食卓は閉じられます。ルカによる福音が正確に伝えている通りの順序です。

ユダヤ人の友の家庭で過越の祭の食卓に加えていただき、福音書の伝える主イエスと十二人の弟子たちの過越の祭の食卓、「最後の晩餐」の様子を心に思い浮かべていた時、ふと、わたしたちが囲んでいる家庭の過越の食卓の、いちばん大切と思われる席が空席であることに気付きました。ユダヤ人の友人によれば、それは、待ち望んでいるメシア・キリストのために、大切に空けてある席だとのことでした。

それを聞いて、ああ、ここには主イエス・キリストがいらっしゃらないのだなと、それまでの感動に代えて、突然一切が虚ろにさえ感じられた事を覚えています。

しかし、今、わたしたちが祝っているこのごミサは、違います。わたしたちの過越の食卓の主は、メシア・キリストご自身です。ただし、それは決して自明のことではないのです。これは、ユダヤの人々にとっては、今なお待ち望んでいる出来事なのです。

主イエスご自身が、ご自身の過越の食卓にわたしたちをお招きくださった。この驚くべき出来事を、ヨハネによる福音は、食事の前に主ご自身が弟子たちの足を一人ひとり洗ってさえくださったというさらに驚嘆すべき事実をもって語り始めます。ごミサ、すなわち主の過越の祭りの食卓は、そのようにして始められたのです。

それだけではありません。この主イエスの過越の食卓で、わたしたちのために裂かれるパンとわたしたちのために注がれるブドウ酒。それは、主イエスご自身です。じつに主ご自身の御からだと御血です。マルコによる福音は、次のように伝えます。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしのからだである。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」

これが、主イエスと弟子たちの過越の食事。これが、主とわたしたちのごミサです。

ユダヤの人々のみならず、わたしたちも悩みや苦労の多い人生で、救い主キリストをひたすら待ち望んできた日々があったのではないでしょうか。救い主のために食卓を整えて待っていても、いつもその席が空席のままのような、長く虚ろな時間に疲れてしまったことが、かつての皆さんにもあったのではないでしょうか。

しかし今日は違います。このごミサは、主イエスご自身がわたしたちのために整えてくださった食卓。ルカの福音によれば、「イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過ぎ越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた』。」 

食事の前に、一人ひとりの足をご自身で洗ってくださるほどに、救い主キリストご自身が切に願ってくださっておられた、主ご自身とわたしたちとの過越の祝い

長い間、わたしたちは自分の願いの中に救い主を求めて来ました。しかし今、このごミサでは、主イエスご自身の切なる願いの中にわたしたちが招かれています。

主イエスのわたしたちへの切なる願い。それは、ご自身のすべてを、ご自身の御からだ、ご自身の御血の最後の一滴に至るまで、わたしたちにくださること。それは、わたしたちを神の国の食卓に招き、ご自身のいのちに生かしてくださるためです。

救い主キリストを待ち望んできたわたしたちの願いに先立ち、わたしたちをご自身の愛の内に、ご自身のみ国に招き入れたいとの主イエスの切なる願いが、すでにわたしたちに向けられていたのです。そして今、わたしたちはこのごミサで主ご自身の限りなく深い願いの中に、強く、優しく、また確実に抱きしめられてよいのです。

救い主キリストのわたしたちへの切なる願いに抱かれて、今、わたしたちは、このごミサ、メシア・キリストご自身の食卓で、「神の国への過越」を祝っています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。