司祭の言葉 2/25

四旬節第2主日 マルコ9:2-10

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

福音にお聞きしながら、主イエスの宣教の歩みに伴わせていただいています。それは、最後にはエルサレムに向かう旅です。その旅も、ちょうど道半ばです。

ところで、互いに親しさを増してゆく中で、つい相手の価値に気づかなくなってしまうことがないとは限りません。主イエスの弟子たちも、主と親しく生活をともにさせていただく中で、それが当然になり、時に主に対する勝手な思い込みや自分本位の期待や願いに、本来の主の姿を見失うようなことがあったかもしれません。

そのような弟子たちに父なる神は、主イエスが彼らとともに最後にエルサレムに登られる先立ち、主の弟子ペトロたちを、主ご自身とともに高い山に登らせ、そこで、主イエスが、実はいかなる方であるのかを、はっきりとお示しくださいました。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

主イエスは、たんに優れた人生の教師、あるいはユダヤの民の偉大なる指導者などではありません。「父なる神の愛する子」である、ということです。

実は、さらにその時、ペトロたちの前に、旧約の預言者を代表するエリアが、同じく旧約の出エジプトの指導者モーセとともに現れて、主イエスご自身と語り合っているのを、ペトロたちは見ていた、とも福音は伝えていました。

主イエスは、モーセとエリアとともに、何を語り合っておられたのでしょうか。

今日のマルコによる福音は、そのことを具体的には伝えていません。しかし感謝すべきことにルカによる福音は、それは「主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」であったと、はっきりと伝えてくれています(ルカ9:31)。

「主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」。

これを聞いて、わたしたちは直ちにエルサレムでの主イエスの「最後」つまりご受難と十字架の死を思います。確かに、主はエルサレムで十字架の死を遂げられます。しかし、ここで「最後」ではなく、特に「最期」(「最期」の「期」は、「一期一会」の「期」)と訳されている言葉は、聖書の元の言葉では「過越」(エクソドス)と言う言葉です。

つまり、主イエスが、モーセとエリアとともに語りあっておられたのは、主の「過越」について、であったということです。

「主イエスの過越」、それは、エルサレム郊外のゴルゴタの丘での主ご自身の十字架上での犠牲奉献の死を含みます。しかし、それで終わりません。「主の過越」、それは、主が、エルサレムでのご受難と十字架の死を経て、ご復活の栄光へと「過ぎ越し」て行かれた、「主の聖なる過越の三日間」の出来事全体です。

「主の過越の三日間の全体を以て、主イエスはわたしたちの救いを成就してくださるのです。ただしその時、それはいったいいかなることなのでしょうか。

第一に、主イエスのご受難と十字架の犠牲奉献の死による、わたしたちの罪の贖いです。主はわたしたちの罪とその報いの一切を、ご自身の十字架として、わたしたちのために負い抜いてくださいます。それしか、わたしたちが罪を赦される道はないからです。しかし、主のわたしたちへの愛は、罪の赦しの十字架上の死によっても終わりません。

主イエスは、ご受難と十字架の死の後、わたしたちのために復活してくださいます。わたしたちにご自身のいのちの息吹である聖霊をくださるためです。それによって、汚れた霊、つまり罪によって神から離れていたわたしたちを聖霊によって聖(きよ)め、神への聖(きよ)い捧げものとして、再び神のみ許に返してくださるためです。

わたしたちは、主イエスの十字架によって罪赦され、さらにご復活の主から賜る聖霊によって聖い捧げものとされ、そのようにして主ご自身とともにわたしたちも神に献げられて、神のみ許に帰らせていただくのです。ここに救いが成就します。

「主イエスの過越」、それは、主の十字架と復活を通して神がご自身のいのちを注ぎ尽くして成就してくださる、わたしたちへの神の愛のみ業の全体です。

「主イエスの過越」の成就は、主ご自身の過越に加えて、主の愛によるわたしたち自身の死から命へ、罪のこの世から聖なる神の国への過越の成就でもあるのです。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。