司祭の言葉 1/14

年間第2主日 ヨハネ1:35-42

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「見よ、神の子羊。」

洗礼者ヨハネの主イエス・キリストへのこの信仰告白は、現在も、全世界のカトリック信者にとってご聖体拝領前の信仰告白とされています。日本語では、司祭がご聖体を顕示し、「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」と宣言しますが、ミサのラテン語規範版では、ヨハネの告白通り、「見よ、神の子羊」と宣言されます。

「見よ、神の子羊」。洗礼者ヨハネによる、この実に短い、しかし最も的確な信仰告白。それが、いかに豊かな主イエス・キリストとの出会いへとわたしたちを導いてくれるかを、今日のヨハネによる福音は、わたしたちに物語って余りあると思います。

実はヨハネによる福音は、今日の福音の直前の段落で、すでに洗礼者ヨハネの「見よ、神の子羊」とのキリスト告白を伝えています。そこでは、ヨハネは「神の子羊」キリストを、「世の罪を取り除かれる方」と証ししています。

その上で洗礼者ヨハネはさらに、「神の子羊キリスト」こそ、わたしたちに「聖霊によって洗礼を授ける方」、つまりわたしたちに聖霊をお与えくださることがおできになられる唯一の方、すなわち「神の子」であるとも証ししています。

主イエスは、預言者のように神のみことばを告げるのみならず、神のみことばご自身。また神の子である主イエスは、わたしたちに神のみことばと共に神の霊・聖霊をもお与えくださいます。ヨハネが指し示す真実を聞き逃してはなりません。主は神のみことばと共に聖霊をくださり、聖霊によって神のみことばの実りをわたしたちの内に結ばせてくださる。これが、主イエスからいただくわたしたちの救いです。

ところで、今日の福音は、洗礼者ヨハネが、主イエスに彼の弟子たちを託したと伝えていました。師であるヨハネにとって、弟子たちは掛け替えのない宝であり、ヨハネ自身の未来でもあったと思います。そうであれば、ヨハネにとって弟子たちを主イエスに託すことは、自分の宝の一切を惜しみなく主に捧げたと言うことです。同時に、それはヨハネにとっては、自分の未来、すなわち自分の命をも主イエスに託し切ったと言うことでもあるはずです。実はその結果、主イエスによって、ヨハネの思いを遥かに超えた実りが豊かに結ばれてゆきます。

洗礼者ヨハネが、主イエスに託した二人の弟子たちは、その後「イエスのもとに泊まった」と福音は伝えます。ヨハネは自分のことを、「わたしはキリストの履物の紐を解く資格もない」(マルコ1:7)と言うほどに、主イエスに対して謙遜の限りを尽くし、いつも主を遠くに仰ぎ見て生きていました。わたしたちも、主イエスに対するこのヨハネの姿勢を心の眼に焼き付け、彼の謙遜に習うべきだと思います。

洗礼者ヨハネの祈りと願いに応えて、主イエスは、ヨハネが託した弟子たちをご自身のもとに留まることを許されたのみならず、生活を共にすることさえ許されます。そして最期には、主は彼らにご自身のいのちをさえお与えになられます。しかもご自身の十字架において。洗礼者ヨハネは、牢獄での彼の殉教の死を前に、彼の弟子たちからそのことを伝え聞いて、主イエスがそのようにしてヨハネ自身の祈りと彼の命をも満たしてくださったことに喜びで胸が溢れたに違いありません。

とくに、洗礼者ヨハネが主イエスに託した弟子の一人アンデレは、彼の兄弟シモン・ペトロを主のもとに連れて行きます。その時、主イエスはこのペトロを、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(「岩」という意味)と呼ぶことにする」とのことばで迎えました。そして、まさにこの「岩」、すなわちペトロの上に、主イエスは、十字架とご復活の後、ご自身の教会をお建てになられるのです。

主イエスは、洗礼者ヨハネから彼の弟子たち、つまりヨハネにとって最も大切な捧げものを喜んでお受け入れになられ、そしてそれを豊かに用いて、ヨハネの思いや願いをさえ遥かに超えた大いなる神のみ業を成し遂げてくださいました。

実に、洗礼者ヨハネの心を尽くした主イエスへの捧げものに、主は豊かすぎるほどの恵みと祝福を以ってお応えになられました。事実、主イエスは、ヨハネの奉献に応えて、彼らにご自身のいのちさえお与えになりました。さらにはヨハネの奉献によって、主イエスはペトロを見いだし、その彼の上に主の教会をお建てになり、わたしたちを含めた後のすべての民の救いの礎としてくださいました。

洗礼者ヨハネは、「見よ、神の子羊」との信仰告白を以って、自らの持てるもの全てを主イエスに捧げました。このヨハネに応えて、主は彼にご自身をお与えくださいました。その時、そこには人の思いを遥かに超えた神のみ業が成就して行きます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。