司祭の言葉 1/8

主の洗礼(B年・年間第1主日)マルコ1:7-11

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「主の公現」の祭日に続く今日、わたしたちは「主イエスの洗礼」を記念いたします。ご自身そのものである「福音」の宣教をお始めになるに先立ち、ヨルダン川で民衆に洗礼を授けていた洗礼者ヨハネから、主は、民衆と共に洗礼をお受けになりました。しかし、聖なる主がなぜ洗礼をお受けになられたのでしょうか。

実際、マタイによる福音は、主イエスが洗礼者ヨハネのもとに来て、民衆と共に洗礼を受けることを望まれた時、「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして、『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」と、主に申し上げたと伝えています。このヨハネに、「イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」(マタイ3:14,15)

御子キリストが、民衆と共に洗礼を受けられるのは、「正しく、ふさわしい」と言われています。つまり、それは父なる神のみ旨であり、民衆と共なる御子の洗礼を通して、神が、民衆すなわちわたしたちを救うということです。事実、主イエスがヨハネから洗礼を受け、「水の中から上がると、すぐ」、神は、次の「三つのこと」をなさったと、今日のマルコによる福音は伝えていました。まず、「天が裂けて」、次に、が鳩のようにご自分に降って来るのを、ご覧になった。」 続いて、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」

第一に、主イエスが民衆と共に洗礼を受けられたことによって、主と共にあった民衆に「天が開かれた。」これは驚くべきことです。罪人なる民衆に聖い「天」は閉ざされていたからです。詩編は、「死」を恐れる民衆の呻きを伝えます。ただし、彼らが恐れたのは、「死」そのものではなく、罪人のままの「死」によって、彼らに「天が永遠に閉ざされてしまう」こと、つまり神に会う機会を永遠に失うことです。

例えば、詩編第6編にこうあります。「主よ、立ち戻って、わたしの命を助け、慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。死の国では、あなたを覚えている者はおりません。陰府の国で、誰があなたをほめたたえるでしょう。」

しかし今や、主イエスが民衆と共に洗礼を受けてくださったことによって、罪人なる民衆、つまりわたしたちに「天が開かれた」のです。ただ一度、かつ永遠に。

ところで、天は「聖霊のご聖櫃」です。したがって、「天」が開かれたのは「聖霊が降る」ことでもあります。事実その時、天から「聖霊が鳩のようにイエスの上に降って来た。」「父なる神のいのち」である「聖霊」が、今や見える形で民衆つまりわたしたちと共に在る「御子キリストの上に降った」。天の父なる神は、この時、イザヤの預言の通りに、神のいのち・神ご自身である「聖霊を主イエスの上に置かれた」のです。

事実、福音が続けて伝える、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」との父なる神のみことばは、かつて預言者イザヤを通して語られていた次のことばと同じです。「見よ、わたしが支えるわたしの僕を、わたしの魂が喜びとする、わたしが選んだ者を。」 そして、イザヤの預言は、すでにわたしたちがお聞きした御子キリストの洗礼の時を指し示すように、次のように結ばれていました。わたしはわたしの霊を彼の上に置く。」(イザヤ42:1)

父なる神が「ご自身の霊を御子の上に置」かれた。目に見えない「天の父なる神」の霊・「聖霊」が、わたしたちと共に洗礼を受けられた「御子」キリストに降り、主から、また主からのみ、目に見える形(ご聖体の内に)で、わたしたちに与えられる。ヨハネはそれを証ししていました。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方(主イエス)は聖霊で洗礼をお授けになる。」 主はご自身を以て、わたしたちがご聖体の秘跡に与ることができるように洗礼の秘跡を制定してくださいました。

主イエスの福音宣教は、預言者のように神のことばをわたしたちに伝えるだけではありません。「主の福音宣教」はその始めから、民衆、すなわちわたしたちへの「主イエスにおける父なる神のいのちの働きである聖霊の業」です。それは、天地の創造主・全能の父なる神が、御子キリストに「聖霊」を注いで、わたしたちのために始められた「父・子・聖霊の神のみ業」、すなわち「三位一体の神のみ業」に他なりません。それは、みことばご自身である御子キリストの宣教を通して、父なる神の力が聖霊において働き、わたしたちの一切を新たにする、「神の新しい創造のみ業」です。

ヨハネからの洗礼の後、主イエスは「福音」の宣教に立たれました。見えない「父なる神」が、「御子」において見える姿で働かれる。「御子キリスト」によって、目に見えない「神の霊・聖霊」が、「父なる神」のみことばの実りを目に見える形でわたしたちに結んで行きます。それが、わたしたちすべてを救う主の「福音宣教」です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/7

主の公現 マタイ2:1-12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

東方から来た占星術の学者たちは、マリアさまと共におられた幼子キリストを礼拝した後、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と福音は伝えます。

教会は古くから、降誕祭の夜半のミサから主の公現の祭日までを、降誕節の12日間としてお祝いして来ました。降誕祭・夜半のミサ以前のアドベント(待降節)の期間は、復活祭前のレントの期間のように、静かで落ち着いた時が流れていました。その後、その夜半のミサで幼子キリストをお迎えして始められた喜びに満ちたクリスマスの祝いの期間は、主の公現日の今日まで続きます。

降誕節の12日間の祝いの締めくくりである主の公現日の今日、わたしたちは救いの喜びがユダヤを超えて、東方からの占星術の学者たちに象徴されるユダヤの民以外の諸国の民・全世界の民のものとされたことを、感謝の内に記念します。

ところで、「東方の占星術の学者」と言う言葉を聞く度に、わたしは昔の自分を思い起こさざるを得ません。わたしは、仏門に生を受けた者ですが、若い日にわたしの習った仏教、特に真言密教には、古来占星術が伝えられています。聖書に登場する「東方の占星術の学者」の「占星術」の実際は分かりません。しかしそれが「占星術」と言われる以上、普通の人間には隠されているとされる神の秘密ないし奥義を、人間の知恵を極めて探ろうとする試みの一つであったに違いありません。

そのように、聖書の東方の占星術の学者たちも、おそらく先祖代々、人間の知恵の教えを頼りに生き続けて来たのでしょう。主イエスと出会わせていただく時までは、彼らにはそれしか真理に出会う道は思い至らなかった、と思います。

しかし、彼らがマリアさまのみ腕に抱かれた幼子キリストを、彼ら自身の目で見、恐らくは、その主イエスを、マリアさまのみ手から彼ら自身の腕に抱き上げさせていただいた時、彼らは、占星術のような人間の知恵に頼ることの無力さ、その空しさ、無意味さに深く気付かされたのではないでしょうか。同時に、「神の秘義そのものであられるこの幼子キリスト・まことの神ご自身」の前に、彼らの知恵も含めて、彼らが頼りにしてきた一切のものが無価値であることを、骨身に沁みて思い知らされたに違いないと思います。

彼らの占星術も、所詮「人間が神になろうとする試み」に他なりません。その空しさ、それに対する彼らの無力さは、かつてわたし自身が身に沁みて感じたように、彼ら自身が体験上いちばん良く知っていたはずです。その彼らが主の公現日の今日、幼子キリストに見たのは、実に「神が人となられた」との事実でした。

占星術の学者たちは、神に近づくための特別な力と秘密の知恵を得るために、その代償として彼らに多大な犠牲を強いる存在を「神」と信じて礼拝してきたと思います。しかし、この幼子キリストにおいて「人となられた神」は、彼らに何らの犠牲も求めはしません。全くその逆です。神ご自身が主イエスにおいて、犠牲としてご自身を彼らに捧げておられるのです。十字架に至るまで。

彼らはこの時初めて「真実の神」を知り、従って、真実の神に「真実の礼拝」を捧げたはずです。礼拝とは、自己を奉献することです。驚くべきことに、神ご自身の自己奉献が、まず先にあったのです。神がご自身をわたしたちにお与えくださって、既に礼拝の中心になってくださっておられるのです。それが幼子キリストです。それをはっきりと知らされた時、東方の占星術の学者たちは、彼らの持てるものすべてを捧げて、否、彼ら自身を神に捧げて、主なる神を文字通り礼拝したはずです。幼子キリストにおいて、彼らにご自身をお与えになっておられる、まことにして唯一の神を。

今日のマタイによる福音は、彼らは、幼子キリストにお会いした後、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、伝えます。彼らは、最早、「占星術の学者」と呼ばれ続けるわけには行きません。また、そのように生き続けるわけにも行きません。主イエスにお会いした彼らは、かつての彼らと同じではあり得ません。彼らは、すでに「キリストのもの(キリスト者)」とされたからです。

主イエスにお会いした後には、最早、誰も「もと来た道」を再び辿って帰るわけには行かないのです。否、そのような道を再び辿らなくても良くなったのです。「神が人となられた」主イエスの前に、「人が神になろうとする」ような、永遠に報われようの無い、虚ろな苦行のような偽善的な人生から、彼らはここに初めて全く自由にされました。かつてのわたし自身が、そうであったように。

主イエスのご降誕を祝ったわたしたちも、主によって「神が人となられた」新しい世界に既に招き入れられています。東方の学者と共に、わたしたちもご聖体において神ご自身を祝福として受け、神を恵みとして生きる「新しい道」を歩き始めるために

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。