司祭の言葉 1/28

年間第4主日 マルコ1:21-28

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスは、律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになられた。」

マルコによる福音が伝える、ある安息日のユダヤの会堂での主イエスのご様子です。しかし、主の「権威」とは、いかなることなのでしょうか。

主イエスは、説教に続き、会堂にいた一人の人から汚れた霊を追い出されました。その時、主のみことばとそのみ業に感歎した人々は叫びます。「権威ある新しい教えだ。主が汚れた霊に命じるとその言うことを聴く。」

汚れた霊を追い出すことは、聖霊にのみよることです。人々が気付いたのは、主イエスの権威は聖霊の働きとひとつであることです。今日の福音がわたしたちに教えるのは、この事実です。主は、神のみことばを教えるだけの律法学者とは違います。主ご自身が、神のみことばであり、そのみことばなる主の内に聖霊が働いておられる。人々は、ここに主イエスの権威をはっきりと認めたのです。

事実、福音書の言う「権威」とは、元の言葉では、神である主イエスの「存在そのものからの力」、さらに主なる神の「存在そのものから裂き与えられる力」を意味します。元の言葉からも、主の権威とは、主ご自身のいのちである聖霊の力以外の何ものでもありません。同時に、すでにここに後の主の十字架が示唆されています。

それでは、主イエスが聖霊の力によって追放した汚れた霊とは何ものなのか。それは、罪とその働きに違いありません。罪は、わたしたちが主なる神に向かって心を開くことを妨げ、主を受け入れることを拒み、わたしたちを主に背かせます。しかし、わたしたちはこの罪に対して全く無防備です。また無力です。会堂にいた汚れた霊に取りつかれた男のように、わたしたちも容易に罪の誘惑に陥り、その力に屈してしまいます。そしてその時、丁度汚れた霊に取りつかれたこの男のように、仮にわたしたちが頭では主イエスを「神の聖者」と分かったとしても、その主を受け入れ、主に自分の一切を委ねてしまうことを、わたしたちの罪が拒みます。

律法学者たちは、罪を激しく糾弾し、罪を犯さない生活をわたしたちに厳しく求めました。そのこと自体は、間違ってはいないでしょう。主なる神も、わたしたちが神と人との前に、罪を犯さずに生きることをお望みになるに違いないからです。

聖書の汚れた霊に取りつかれたと言われる人も、わたしたち同様、最初から罪に汚れた生活を望んでいたはずはありません。しかし、彼は罪に対して無力でした。また、律法を守り、自分で罪に打ち勝って生きていくだけの力が彼にはありませんでした。ただし、これはわたしたちにとっても決して他人ごとではないと思います。

洗礼者ヨハネも、自他共に罪にたいして厳しく生きました。しかし、彼は律法学者とは違い、罪深いわたしたちに、律法を守れ、守らない者は裁かれると迫るのではなく、「見よ、神の子羊」と、主イエスを示しました。神のみことばなる主イエス。十字架に罪を贖ってくださる唯一の方。その方において聖霊が働かれるただ一人の方。

律法学者たちは、人々に自らの力で律法を守り、罪に打ち勝って生きるように勧めました。しかし、洗礼者ヨハネは、人は、律法すなわち神のみことばを聞くだけではなく、みことばと共に聖霊を受けることがなければ、救われようが無いことをよく知っていました。同時に、ヨハネは、主イエスだけが、わたしたちに聖霊を与えることができる唯一の方、真の権威をお持ちの方であることをもよく知っていました。

真の「権威」を持つ方とは、わたしたちに神のみことばと共に聖霊をくださる方、神のいのちそのものをくださることがおできになる方です。神のみことばを告げるのみならず、聖霊によって、わたしたちの内にご自身のみことばを成就させることがおできになる方。ただし、それはご自身のいのち、ご自身そのものを十字架上で引き裂いてわたしたちにお与えくださることによってです。それが真の「権威」です。

「見よ、神の子羊。」洗礼者ヨハネは、人々に律法の順守ではなく、主イエスを指し示しました。人々に対して、と言うだけではありません。ヨハネ自身、神なる主イエスを畏れ、主を信じ、主に自らを託し、自らを主に捧げ切り、その命の尽きる時まで、謙遜の限りを尽くし、主を礼拝する者として生き抜きました。

律法の順守には、罪人のわたしたちには実際上不可能な知恵と力が求められるでしょう。しかし、わたしたちが、主イエスからみことばと共に聖霊をいただくために、主がお求めになるのはただ一つのことです。それは、聖母マリアの信仰と聖母の生き方です。すなわち、「おことば通り、この身になりますように。」

わたしたち自身をみことばと聖霊とを共に受ける器として主なる神にお捧げする。その時主イエスはその器をご自身のいのちによって豊かに満たしてくださいます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/21

年間第3主日 マルコ1:14-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

主イエスご自身の最初の福音の宣言です。主はこの宣言を、洗礼者ヨハネが「捕らえられた後」、時を措かずになさっておられます。ヨハネは主ご自身が宣教に立たれたことを聞きおよんだ後、喜んで殉教の死を遂げていきました(マルコ6:14以下)。

洗礼者ヨハネは、「主イエス・キリストの道を整える者」として神から遣わされたことを自覚していました。その使命はただ一つ。人々の身も心も、福音そのものである主に向けさせることでした。彼は生涯を通して、人々の中でひとえに主を指さし、主を告げ示しました。「見よ、神の子羊」。ヨハネのこの信仰告白は、現在もわたしたちカトリック信者にとって、聖体(聖餐)拝領前の信仰告白とされています。

ヨハネは人々に主イエスを告げ示す時、神について教えを垂れる律法学者のように振舞ったことは一度もありません。彼は、主を礼拝する者として生き抜きました。それは彼の殉教の時まで変わりませんでした。最期の時を前に、彼は語っています。「わたしは喜びで満たされている。キリストは栄え、私は衰える。」(ヨハネ3:29,30)

主イエスの福音の宣教、福音そのものとしての主の公生涯は、主の道を整える者として神から遣わされた洗礼者ヨハネ、主に自らの生涯のみならず、彼の弟子たちさえも捧げ切ったヨハネの一生を、主ご自身が心からの感謝を以て、その一切を掛け替えのない宝としてお受入れくださることによって始められました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

ここには、わたしたちに神のことばを告げるだけの主イエスはいません。主に命を捧げた洗礼者ヨハネの信仰に応えて、ご自分を十字架に至るまで神と人とに捧げ切って行かれた主ご自身がおられます。福音そのものとしての主イエス、わたしたちのための犠牲そのもの、奉献そのものとしての主。福音の宣教の最初から、すでにわたしたちのための十字架をはっきりと見つめておられる主がおられます。

同時に、ご復活をも確実に見据えておられる主イエスがお立ちになっておられます。主イエスのご復活は、倒れているわたしたちを大切に抱き起こし、わたしたちにご自身のいのちの息・神の息・聖霊をお与えくださるためです。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」 主イエスは、預言者のように神のことばを告げるだけではありません。神の子として、みことばと共に聖霊をわたしたちにお与えくださいます。そして、この聖霊こそ、主のおことばを、わたしたちの内に成就してくださる神の力です。

わたしたちに「時が満ちる」ということ。わたしたちに「神の国が近づいた」と言うこと。わたしたちが「悔い改めて福音を信じる」ということ。これら一切の主イエスのおことばは、わたしたちへの主のご命令や戒めではなく、わたしたちに聖霊によって結ばれる実として、主によって今やわたしたちにその成就が約束されています。

しかし、主イエスがわたしたちに聖霊をくださるために、主ご自身には何が求められるのでしょうか。聖霊は、ご復活の主によって、そしてご復活の主によってのみ、わたしたちに与えられます。しかし主のご復活は、わたしたちの罪のあがないとしての主の十字架上の犠牲の死を前提としていることを忘れてはなりません。

わたしたちの罪の一切をご自身に負われて、主イエスは十字架におつきになります。この主が、この十字架の主だけが復活し、わたしたちに聖霊をくださることがおできになるのです。主の十字架による罪の赦しは、ご復活の主がくださる聖霊により、わたしたちが新しい人として生まれることによってこそ成就します。

福音が、主イエスの最初の宣教のおことばに続いて、主の十二弟子たちの召し出しを語るのは意義深いことです。主の十二弟子たちこそ、主の十字架の死による罪の赦しとご復活の主からの聖霊の授与により、主によって新しい人とされて生きた最初の人たち、主の十字架と復活の証人です。彼らは、文字通り、主によって、主の聖霊によって、主ご自身の命である主の十字架とご復活を、彼らの自身の命として生かされた最初の人々です。わたしたちは、その彼らに続く者たちです。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

主イエスの福音は、空しく宙に木霊(こだま)する真理ではありません。聖霊によって皆さん一人ひとりを召し出しご自分の弟子とし、皆さんに成就する神のいのちです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/14

年間第2主日 ヨハネ1:35-42

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「見よ、神の子羊。」

洗礼者ヨハネの主イエス・キリストへのこの信仰告白は、現在も、全世界のカトリック信者にとってご聖体拝領前の信仰告白とされています。日本語では、司祭がご聖体を顕示し、「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」と宣言しますが、ミサのラテン語規範版では、ヨハネの告白通り、「見よ、神の子羊」と宣言されます。

「見よ、神の子羊」。洗礼者ヨハネによる、この実に短い、しかし最も的確な信仰告白。それが、いかに豊かな主イエス・キリストとの出会いへとわたしたちを導いてくれるかを、今日のヨハネによる福音は、わたしたちに物語って余りあると思います。

実はヨハネによる福音は、今日の福音の直前の段落で、すでに洗礼者ヨハネの「見よ、神の子羊」とのキリスト告白を伝えています。そこでは、ヨハネは「神の子羊」キリストを、「世の罪を取り除かれる方」と証ししています。

その上で洗礼者ヨハネはさらに、「神の子羊キリスト」こそ、わたしたちに「聖霊によって洗礼を授ける方」、つまりわたしたちに聖霊をお与えくださることがおできになられる唯一の方、すなわち「神の子」であるとも証ししています。

主イエスは、預言者のように神のみことばを告げるのみならず、神のみことばご自身。また神の子である主イエスは、わたしたちに神のみことばと共に神の霊・聖霊をもお与えくださいます。ヨハネが指し示す真実を聞き逃してはなりません。主は神のみことばと共に聖霊をくださり、聖霊によって神のみことばの実りをわたしたちの内に結ばせてくださる。これが、主イエスからいただくわたしたちの救いです。

ところで、今日の福音は、洗礼者ヨハネが、主イエスに彼の弟子たちを託したと伝えていました。師であるヨハネにとって、弟子たちは掛け替えのない宝であり、ヨハネ自身の未来でもあったと思います。そうであれば、ヨハネにとって弟子たちを主イエスに託すことは、自分の宝の一切を惜しみなく主に捧げたと言うことです。同時に、それはヨハネにとっては、自分の未来、すなわち自分の命をも主イエスに託し切ったと言うことでもあるはずです。実はその結果、主イエスによって、ヨハネの思いを遥かに超えた実りが豊かに結ばれてゆきます。

洗礼者ヨハネが、主イエスに託した二人の弟子たちは、その後「イエスのもとに泊まった」と福音は伝えます。ヨハネは自分のことを、「わたしはキリストの履物の紐を解く資格もない」(マルコ1:7)と言うほどに、主イエスに対して謙遜の限りを尽くし、いつも主を遠くに仰ぎ見て生きていました。わたしたちも、主イエスに対するこのヨハネの姿勢を心の眼に焼き付け、彼の謙遜に習うべきだと思います。

洗礼者ヨハネの祈りと願いに応えて、主イエスは、ヨハネが託した弟子たちをご自身のもとに留まることを許されたのみならず、生活を共にすることさえ許されます。そして最期には、主は彼らにご自身のいのちをさえお与えになられます。しかもご自身の十字架において。洗礼者ヨハネは、牢獄での彼の殉教の死を前に、彼の弟子たちからそのことを伝え聞いて、主イエスがそのようにしてヨハネ自身の祈りと彼の命をも満たしてくださったことに喜びで胸が溢れたに違いありません。

とくに、洗礼者ヨハネが主イエスに託した弟子の一人アンデレは、彼の兄弟シモン・ペトロを主のもとに連れて行きます。その時、主イエスはこのペトロを、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(「岩」という意味)と呼ぶことにする」とのことばで迎えました。そして、まさにこの「岩」、すなわちペトロの上に、主イエスは、十字架とご復活の後、ご自身の教会をお建てになられるのです。

主イエスは、洗礼者ヨハネから彼の弟子たち、つまりヨハネにとって最も大切な捧げものを喜んでお受け入れになられ、そしてそれを豊かに用いて、ヨハネの思いや願いをさえ遥かに超えた大いなる神のみ業を成し遂げてくださいました。

実に、洗礼者ヨハネの心を尽くした主イエスへの捧げものに、主は豊かすぎるほどの恵みと祝福を以ってお応えになられました。事実、主イエスは、ヨハネの奉献に応えて、彼らにご自身のいのちさえお与えになりました。さらにはヨハネの奉献によって、主イエスはペトロを見いだし、その彼の上に主の教会をお建てになり、わたしたちを含めた後のすべての民の救いの礎としてくださいました。

洗礼者ヨハネは、「見よ、神の子羊」との信仰告白を以って、自らの持てるもの全てを主イエスに捧げました。このヨハネに応えて、主は彼にご自身をお与えくださいました。その時、そこには人の思いを遥かに超えた神のみ業が成就して行きます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/8

主の洗礼(B年・年間第1主日)マルコ1:7-11

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「主の公現」の祭日に続く今日、わたしたちは「主イエスの洗礼」を記念いたします。ご自身そのものである「福音」の宣教をお始めになるに先立ち、ヨルダン川で民衆に洗礼を授けていた洗礼者ヨハネから、主は、民衆と共に洗礼をお受けになりました。しかし、聖なる主がなぜ洗礼をお受けになられたのでしょうか。

実際、マタイによる福音は、主イエスが洗礼者ヨハネのもとに来て、民衆と共に洗礼を受けることを望まれた時、「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして、『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」と、主に申し上げたと伝えています。このヨハネに、「イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」(マタイ3:14,15)

御子キリストが、民衆と共に洗礼を受けられるのは、「正しく、ふさわしい」と言われています。つまり、それは父なる神のみ旨であり、民衆と共なる御子の洗礼を通して、神が、民衆すなわちわたしたちを救うということです。事実、主イエスがヨハネから洗礼を受け、「水の中から上がると、すぐ」、神は、次の「三つのこと」をなさったと、今日のマルコによる福音は伝えていました。まず、「天が裂けて」、次に、が鳩のようにご自分に降って来るのを、ご覧になった。」 続いて、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」

第一に、主イエスが民衆と共に洗礼を受けられたことによって、主と共にあった民衆に「天が開かれた。」これは驚くべきことです。罪人なる民衆に聖い「天」は閉ざされていたからです。詩編は、「死」を恐れる民衆の呻きを伝えます。ただし、彼らが恐れたのは、「死」そのものではなく、罪人のままの「死」によって、彼らに「天が永遠に閉ざされてしまう」こと、つまり神に会う機会を永遠に失うことです。

例えば、詩編第6編にこうあります。「主よ、立ち戻って、わたしの命を助け、慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。死の国では、あなたを覚えている者はおりません。陰府の国で、誰があなたをほめたたえるでしょう。」

しかし今や、主イエスが民衆と共に洗礼を受けてくださったことによって、罪人なる民衆、つまりわたしたちに「天が開かれた」のです。ただ一度、かつ永遠に。

ところで、天は「聖霊のご聖櫃」です。したがって、「天」が開かれたのは「聖霊が降る」ことでもあります。事実その時、天から「聖霊が鳩のようにイエスの上に降って来た。」「父なる神のいのち」である「聖霊」が、今や見える形で民衆つまりわたしたちと共に在る「御子キリストの上に降った」。天の父なる神は、この時、イザヤの預言の通りに、神のいのち・神ご自身である「聖霊を主イエスの上に置かれた」のです。

事実、福音が続けて伝える、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」との父なる神のみことばは、かつて預言者イザヤを通して語られていた次のことばと同じです。「見よ、わたしが支えるわたしの僕を、わたしの魂が喜びとする、わたしが選んだ者を。」 そして、イザヤの預言は、すでにわたしたちがお聞きした御子キリストの洗礼の時を指し示すように、次のように結ばれていました。わたしはわたしの霊を彼の上に置く。」(イザヤ42:1)

父なる神が「ご自身の霊を御子の上に置」かれた。目に見えない「天の父なる神」の霊・「聖霊」が、わたしたちと共に洗礼を受けられた「御子」キリストに降り、主から、また主からのみ、目に見える形(ご聖体の内に)で、わたしたちに与えられる。ヨハネはそれを証ししていました。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方(主イエス)は聖霊で洗礼をお授けになる。」 主はご自身を以て、わたしたちがご聖体の秘跡に与ることができるように洗礼の秘跡を制定してくださいました。

主イエスの福音宣教は、預言者のように神のことばをわたしたちに伝えるだけではありません。「主の福音宣教」はその始めから、民衆、すなわちわたしたちへの「主イエスにおける父なる神のいのちの働きである聖霊の業」です。それは、天地の創造主・全能の父なる神が、御子キリストに「聖霊」を注いで、わたしたちのために始められた「父・子・聖霊の神のみ業」、すなわち「三位一体の神のみ業」に他なりません。それは、みことばご自身である御子キリストの宣教を通して、父なる神の力が聖霊において働き、わたしたちの一切を新たにする、「神の新しい創造のみ業」です。

ヨハネからの洗礼の後、主イエスは「福音」の宣教に立たれました。見えない「父なる神」が、「御子」において見える姿で働かれる。「御子キリスト」によって、目に見えない「神の霊・聖霊」が、「父なる神」のみことばの実りを目に見える形でわたしたちに結んで行きます。それが、わたしたちすべてを救う主の「福音宣教」です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/7

主の公現 マタイ2:1-12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

東方から来た占星術の学者たちは、マリアさまと共におられた幼子キリストを礼拝した後、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と福音は伝えます。

教会は古くから、降誕祭の夜半のミサから主の公現の祭日までを、降誕節の12日間としてお祝いして来ました。降誕祭・夜半のミサ以前のアドベント(待降節)の期間は、復活祭前のレントの期間のように、静かで落ち着いた時が流れていました。その後、その夜半のミサで幼子キリストをお迎えして始められた喜びに満ちたクリスマスの祝いの期間は、主の公現日の今日まで続きます。

降誕節の12日間の祝いの締めくくりである主の公現日の今日、わたしたちは救いの喜びがユダヤを超えて、東方からの占星術の学者たちに象徴されるユダヤの民以外の諸国の民・全世界の民のものとされたことを、感謝の内に記念します。

ところで、「東方の占星術の学者」と言う言葉を聞く度に、わたしは昔の自分を思い起こさざるを得ません。わたしは、仏門に生を受けた者ですが、若い日にわたしの習った仏教、特に真言密教には、古来占星術が伝えられています。聖書に登場する「東方の占星術の学者」の「占星術」の実際は分かりません。しかしそれが「占星術」と言われる以上、普通の人間には隠されているとされる神の秘密ないし奥義を、人間の知恵を極めて探ろうとする試みの一つであったに違いありません。

そのように、聖書の東方の占星術の学者たちも、おそらく先祖代々、人間の知恵の教えを頼りに生き続けて来たのでしょう。主イエスと出会わせていただく時までは、彼らにはそれしか真理に出会う道は思い至らなかった、と思います。

しかし、彼らがマリアさまのみ腕に抱かれた幼子キリストを、彼ら自身の目で見、恐らくは、その主イエスを、マリアさまのみ手から彼ら自身の腕に抱き上げさせていただいた時、彼らは、占星術のような人間の知恵に頼ることの無力さ、その空しさ、無意味さに深く気付かされたのではないでしょうか。同時に、「神の秘義そのものであられるこの幼子キリスト・まことの神ご自身」の前に、彼らの知恵も含めて、彼らが頼りにしてきた一切のものが無価値であることを、骨身に沁みて思い知らされたに違いないと思います。

彼らの占星術も、所詮「人間が神になろうとする試み」に他なりません。その空しさ、それに対する彼らの無力さは、かつてわたし自身が身に沁みて感じたように、彼ら自身が体験上いちばん良く知っていたはずです。その彼らが主の公現日の今日、幼子キリストに見たのは、実に「神が人となられた」との事実でした。

占星術の学者たちは、神に近づくための特別な力と秘密の知恵を得るために、その代償として彼らに多大な犠牲を強いる存在を「神」と信じて礼拝してきたと思います。しかし、この幼子キリストにおいて「人となられた神」は、彼らに何らの犠牲も求めはしません。全くその逆です。神ご自身が主イエスにおいて、犠牲としてご自身を彼らに捧げておられるのです。十字架に至るまで。

彼らはこの時初めて「真実の神」を知り、従って、真実の神に「真実の礼拝」を捧げたはずです。礼拝とは、自己を奉献することです。驚くべきことに、神ご自身の自己奉献が、まず先にあったのです。神がご自身をわたしたちにお与えくださって、既に礼拝の中心になってくださっておられるのです。それが幼子キリストです。それをはっきりと知らされた時、東方の占星術の学者たちは、彼らの持てるものすべてを捧げて、否、彼ら自身を神に捧げて、主なる神を文字通り礼拝したはずです。幼子キリストにおいて、彼らにご自身をお与えになっておられる、まことにして唯一の神を。

今日のマタイによる福音は、彼らは、幼子キリストにお会いした後、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、伝えます。彼らは、最早、「占星術の学者」と呼ばれ続けるわけには行きません。また、そのように生き続けるわけにも行きません。主イエスにお会いした彼らは、かつての彼らと同じではあり得ません。彼らは、すでに「キリストのもの(キリスト者)」とされたからです。

主イエスにお会いした後には、最早、誰も「もと来た道」を再び辿って帰るわけには行かないのです。否、そのような道を再び辿らなくても良くなったのです。「神が人となられた」主イエスの前に、「人が神になろうとする」ような、永遠に報われようの無い、虚ろな苦行のような偽善的な人生から、彼らはここに初めて全く自由にされました。かつてのわたし自身が、そうであったように。

主イエスのご降誕を祝ったわたしたちも、主によって「神が人となられた」新しい世界に既に招き入れられています。東方の学者と共に、わたしたちもご聖体において神ご自身を祝福として受け、神を恵みとして生きる「新しい道」を歩き始めるために

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。