司祭の言葉 2024/1/1

「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」
―新しい年をマリアさまとともにー

神の母聖マリアさまの祭日(2024年1月1日)の黙想(ルカ2・16~21)


クリスマスの夜、天使のお告げを受けた羊飼いたちは急いで行って、マリアさまとヨセフさま、そして飼い葉桶に寝かされた乳飲み子キリストを探し当てました。彼らは、その光景を彼ら自身の目で確かめ、主イエスを礼拝した後、幼子について、彼らが天使から告げられたことを人々に知らせました。しかし、聞いた者は皆、羊飼いたちの話に戸惑い、不思議に思いました。そのような中で、

「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」


と、ルカによる福音は伝えます。福音は、この時と同じマリアさまのご様子を、後に主イエスが12歳になられた時の過越祭に、マリアさまが主とともにエルサレムの神殿に詣でた際のエピソードの結びにも伝えています。

羊飼いたちが天のみ使いに告げられた事のみならず、主イエスの出来事は、人の目には不思議に見えます。確かに、神のなさることは、旧約の預言者イザヤの語るように、「人の思いや考えを超えて」います。イザヤは告げます、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8,9)

預言者を通して、このようにあらかじめ語られていた神のみことばにもかかわらず、後に、人々は主イエスについて正しく理解できないままに自分たちの判断で主を裁き、結果として主を十字架につけてしまいます。

マリアさまは違います。主イエスのおことばとそのみ業を、それらの不思議のままに一切を「すべて心に納めて、思い巡らしていた」と、福音は伝えます。

母として主イエスを身ごもり、産み、養い育て、つねに主のお側に生活しながらも、主は不思議であり、マリアさまの思いや考えをさえ超えておられたことでしょう。しかし、マリアさまは主イエスについて、ご自分の思いや考えで判断するようなことは決してなさいませんでした。すべてをそのお心に大切に納めて、神ご自身がマリアさまにその一切を明かされる時まで、静かに待っておられました。「思い巡らしておられた」とは、そういうことだと思います。

なぜなら、マリアさまは主イエスを素直に、素朴に信じておられたからです。子をそのように信じる。これは、母の子に対する愛であり、あるいは母にしかできないことかもしれません。母を天に送ったわたしは、このことを強く思います。

実は、1月1日は母の誕生日です。母は生きていれば、今日91歳になります。わたしは、母の臨終の病床で、母にカトリックの洗礼を授けましたが、1月1日神の母聖マリアさまの大祭日に生まれた母に、母の霊名は迷わずマリアといたしました。

母の願いや期待どおりに生きてきたとは、到底言えないわたしでした。それでも、母はいつもわたしを信じ、支え励まし続けてくれました。主イエスと聖母マリアさまを、わたしとわたし自身の母に当てはめて考えることは、もちろん出来ません。しかし、マリアさまが主イエスの母であるがゆえにおできになられたこと。それは、いかなるときにも素直に、素朴に御子キリストを疑うことなく愛し、信じ抜かれた、と言うことではなかったでしょうか。ご自身をそのまま主に委ねて行かれるとともに、まったく私心なく、一筋に御子キリストを信じ、支え抜かれた。それが、神の母聖マリアさまであられたと、今のわたしには思われてなりません。

新年の初めに、このように聖母マリアさまをなつかしく想い起こさせていただくのは、まことに相応しいことです。神が年の初めにわたしたちにお求めになられておられることは、聖母マリアさまのような主イエスへの聖い愛と信仰と信頼ではないでしょうか。

教会は、マリアさまのことを、感謝を込めて「神の母」と呼ばせていただいて来ました。神の母であられるマリアさまを、ご聖体の神なる主イエスをお納めする「ご聖櫃(せいひつ)」ともお呼びして来ました。聖母マリアさまは、ちょうど「ご聖櫃」のように、ご聖体の主イエスをご自身の内に、いつも大切に抱(いだ)き、納めておられます。

「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」という美しい信仰の言葉があります。聖母マリアさまは、御子キリストをご自身の内にいつも大切に抱(いだ)き納めつつ、実は、主の愛の内に、むしろマリアさまこそ大切に抱(いだ)かれておられることを、マリアさまは至福の内にご存知であられたに違いありません。

わたしたちは、神の母聖マリアさまとともに新しい年を迎えます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 12/31

聖家族 ルカ2:22-40

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

マタイによる福音は、彼の伝える福音の始めに、ヨセフさまの夢の中に主の天使が現れ、次のように告げたと語っていました。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(1:21)

ヨセフさまの夢のみ使いのお告げの通り、マリアさまからお生まれになられた幼子は、「イエスと名付け」られました。新約ギリシャ語の「イエス」の名は、元来の旧約ヘブライ語では「ヨシュア」で、主は救うという意味です。ただし、主イエスにおいて、神はどのようにしてわたしたちを救ってくださるのでしょうか。

クリスマス夜半のごミサの冒頭、今年も教会の古い伝統に従い、わたしは幼子キリストの御像を両掌で抱かせていただいて聖堂に入堂し、祭壇前の小さな馬小屋の前に跪き、その中の飼い葉桶の稟の上に、幼子イエスの御像を安置させていただきました。そのようにさせていただきながら、後に幼子イエスをエルサレムの神殿で、その老いた腕に抱きしめた老シメオンのことを思い起こしていました。その日、老シメオンが感激の余り歌わずにはおれなかった歌を、ルカの福音は伝えています。

「主よ、今こそあなたは、おことばどおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:29-32)

老シメオンのようにわたしたちも、マリアさまからご聖体の内に同じ幼子イエスを両の掌に受け取り、大切に抱かせていただきます。老シメオンと共にわたしたちもごミサで、ご聖体の幼子キリストの内に神の恵みの約束の一切を、すべての神の救いのご計画の成就を、わたしたちへの祝福として受け取らせていただいてよいのです。これが、主イエスにおいて神がお与えくださる救いです。老シメオンの歌ったように、マリアさまと共にわたしたちも、「神の栄光をこの目で見た」からです。

神の栄光。ヨハネによる福音は、それを次のように伝えていました。「言は肉(フランシスコ会訳では「人」)となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14) さらにヨハネは続けて、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)

確かに、「いまだかつて、神を見た者はい」ません。罪なる者が、聖なる神に見(まみえ)ることは許されていないからです。神を見ることは、罪なる者には死と滅びを招きさえします。ただしかし、自らの罪を自らで贖い切れないわたしたちは、罪を赦してくださる神に会わせていただく他に、救われる道はありません。この二律背反(ディレンマ)の中に、人は長くその身を置き続けて来ました。クリスマスの夜まで。

しかし神は、今ここに、人となられた神イエス・キリストにおいて、わたしたちにお会いくださいます。老シメオンの言葉のように、それは(神が)万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

ただしそれは、主イエスが、わたしたちの罪を十字架で一身に負われ、わたしたちの罪を贖い切ってくださることによってのみ、わたしたちに成就する救いです。老シメオンはマリアさまに告げていました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。」

先に、「イエス」という名は、ヘブライ語ではヨシュアであると申しました。旧約でヨシュアとは、神がモーセによってお始めになられた神の民の救い、すなわち神の民のエジプトから約束の地への「過越(出エジプト)」のために、モーセと共に働いて神の民をエジプトから導き出し、さらにモーセ亡き後、モーセを継いで神の約束された約束の地に神の民を導き入れた、「旧約の過越」の成就者の名です。

明らかに主イエスの名には、旧約のヨシュアが隠されていると思います。神が主イエスの聖家族を最初にエジプトに導かれた(マタイ2:13-23)のは、後に、神が彼らを「エジプトからわたしの子を呼び出」されるため」、新しいヨシュアであるキリスト・イエスによって、新しい神の民である聖家族に、新しいエジプトからの過ぎ越し・主イエスの十字架と復活による「新約の過越」を成就させることの「しるし」でした。

「聖家族」。それは、主イエスによって「神の国」へと確実に導き入れられ、「神の国の主」キリストを主として生きる新しい過越の神の民です。洗礼によってわたしたちが招き入れられたのは、この「聖家族」、しかもその「食卓」、すなわちごミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。