司祭の言葉 12/25

主の降誕(日中)ヨハネ1:1-18

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

クリスマス、おめでとうございます。皆さんに神の御祝福がありますように。

今年も未だコロナ終息が見通せない中でのアドベントの期間、わたしたちは使徒ペトロの言葉を頼りに、主イエスとそのみ国を「神が約束されたゆえに待ち望み」ました(ペトロ2,3:13)。この世にあって確実なものは「神の約束」だけです。そしてクリスマス。主イエスを、母マリアさまを通して、心からの感謝と喜びの内にお迎えします。

わたしが長く奉仕させていただいた英国の教会では、クリスマスの深夜のミサで、司式司祭が幼子キリストの小さな御像を両の掌(たなごころ)に抱いて入堂します。そして、祭壇の前か祭壇脇に置かれた小さな馬小屋の前に跪き、その中の飼い葉桶の稟(わら)の上に、そっと幼子キリストの御像を安置してからミサを始めます。

英国での毎年のクリスマス深夜ミサの度に、司祭であるわたしは、生まれて間もない赤ちゃんをわたし自身この手に抱いた時のことを思い出しました。同時に、かつて幼子キリストをエルサレムの神殿で、その老いた腕に抱きしめた老シメオンのことも。その時、彼が感激のあまり歌わずにはおれなかった歌をルカは伝えています。

「主よ、今こそあなたは、おことばどおり、このしもべを安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの光栄です。」

(ルカ2:29-32)

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

主イエスは、わたしたち人間の思いや力を超えた、だからこそ確実な「神の約束ゆえに」、母マリアさまを通してわたしたちのもとに来てくださった神ご自身です。

クリスマスの礼拝で、マリアさまから老シメオンのようにわたしたちもご聖体の内に同じ幼子キリストを両の掌に受け取らせていただき、大切に抱かせていただきます。老シメオンとともに、ご聖体の幼子キリストの内に神の約束の一切を、神の恵みのご計画のすべての成就を、わたしたちへの祝福として受け取らせていただきます。

クリスマスのミサで、わたしたちも母マリアさまとともに、マリアさまのように、幼子キリストを小さなご聖体の内に抱かせていただき、見つめさせていただきたいのです。幼子キリストをご自身の胸に抱かれたクリスマスのマリアさまの神への畏れ、驚き、喜びと感動、そして安堵の涙、その聖母さまの心の動き、さらに感謝と祈りの一切を、わたしたちも、今、ここで、マリアさまとともにさせていただきたいのです。

人が神に代わろうとしてきたわたしたち人類の長く空しく倒錯した過去は、ここに終わりました。そのために、本当に多くの人が自らを偽り、自分を失い、さらには多くの人を惑わし、傷つけ、犠牲にしてきた過去は、今、ここに確実に終わりました。

「神が人となられた」今、わたしたちが母マリアさまとともに幼子キリストに見つめているのはこの事実です。かつてのように見知らぬ神とその恵みを虚ろに求めて彷徨(さまよ)い続けた時は終わりました。今から後は、クリスマスに神が主イエスにおいて成就された受肉の恵みの事実に立って生きて行けるのです。老シメオンの歌うように、マリアさまとともに、わたしたちも「神の栄光をこの目で見た」からです。

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

「主イエスにおいて人となられた神の栄光」。それは老シメオンの言葉のように、「神が万民のために整えられた救い、異邦人を照らす光、神の民イスラエルの光栄。」主イエスは人を救い、活かし、人に光栄を与える神のいのち神の栄光とは主イエスにおいてわたしたちに与えられる神の恵み。実は、それは主なる神ご自身です

神はご自身をお与えくださるために人となられた。主イエスとは、そのようにわたしたちにご自身をお与えくださる神ご自身の栄光のお姿です。老シメオンがマリアさまとともに、幼子キリストの内に見つめた神の栄光とは、実は神の自己奉献の事実。それは、わたしたちがミサの度に、ご聖体の内に見つめ味わう神の真実です。

クリスマスから後、主イエスにおいて神の栄光は、さらに輝きを増し加えて行きます。クリスマスの幼子キリストは、栄えて行かれます。十字架、さらにご復活に至るまで。

クリスマスの出来事は、決してクリスマスだけで終わりません。それは、毎日のミサ毎に、ご聖体においてわたしたちに体験され続ける神の恵みの出来事です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 12/25

説主の降誕(夜半)ルカ2:1-14

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ルカによる福音は、主イエスのご降誕を、その当の夜半に最初にお祝いすることを許されたのは、マリアさまとヨセフさまの他には、貧しい羊飼いたちであったと伝えています。彼らは、マリアさまたちが滞在しておられたユダヤのベツレヘムの地方で、その夜、「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番を」していました。

灼熱の日中とは異なり、夜半には気温が零下にも降ることのあるベツレヘム郊外の荒野。おそらく小さな焚火だけを暖を取る手立てとして、野外で肩を寄せ合うようにして夜通し太陽の昇る朝を待ちわびていたに違いない貧しい羊飼いたち。神は、とくにその彼らを、世界で最初のクリスマス夜半の祝いに招かれました。ルカによる福音は、その時の様子を次のように伝えています。「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常におそれた。」

羊飼いたちは恐れました。何を、でしょうか。彼らは神を恐れました。なぜ、でしょうか。町の城壁の外で羊の群れの番をして生活を営む他無い貧しい羊飼いたち。彼らは律法学者が求めるユダヤの律法を守れる境遇にはありませんでした。律法を守ることも、律法に従って神を礼拝する事もできない羊飼いたちを、町の人々は、神の恵みにふさわしくない者たちとして蔑んでいました。羊飼いたち自身も、罪人の彼らにはアドベントは無縁だと思っていたと思います。クリスマスの夜までは。

しかし、神がわたしたちのもとに来られる(アドベント)との決断は、人ではなく神ご自身によることです。使徒ペトロは、わたしたちは神が来られるのを、人の期待や計らいにではなく、「神の約束に従って待ち望んでいる」(2ペトロ3:13)と教えています。

神のみ使いガブリエルは、マリアさまに遣わされた時、驚き恐れるマリアさまに「おめでとう(ギリシャ語kaire、恵まれた方。主があなたと共におられる」と告げました。

み使いが告げたのは、マリアさまが気付かない内に、すでに、神が彼女とともにおられる(インマヌエル)と言う事実です。アドベントとは、この事実への気付きの時です。

実は、クリスマスの遥か以前から、主イエスをわたしたちのためにお遣わしくださるための神ご自身のご準備が、み使いガブリエルに象徴される旧約の預言者の長い時代を貫いて続けられていたのです。その上で、地上のアドベント(神が来られる)は、母マリアさまが聖霊によって神の御子キリストを宿されることによって、歴史の事実、さらに、後にご聖体を受けるわたしたちの身の事実となりました。

真のアドベント来たり給う神をお迎えすることとは、神への恐れと感謝の内にマリアさまと共に、マリアさまのように、わたしたちもこの身に神の御子を宿させていただくことではないでしょうか。ただしそれは、偏に神の恵みにのみよることです。

アドベントとは、ユダヤの律法学者たちのように、律法を上手に解釈し神との一定の距離を保ちながら、自分の心を自分で操作するようなことではありません。わたしたちにとってアドベントとは、マリアさまのようにこの身をそのまま神に明け渡してしまうことです。神の御子をこの身に宿させていただくとは、そういうことではないでしょうか。律法を読むこともできず、律法を解釈して神と自分の間に距離を置く術も持たない羊飼いたちは、ただ神の恵みによってアドベントへと導かれました。

その羊飼いたちは天使のことばを聞いて、神を「非常に恐れ」ました。彼らは、主なる神が来られたならば、主のみ前に自らを弁護する術もなく、主に自分たちを明け渡してしまう他ないことを良く知っていました。同時に彼らは、自分たちが神のものとされることに堪え得ない罪人であることをも、誰よりも良く知っていました。

だからこそ、み使いは、羊飼いたちに告げます。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。神が求めておられるのは、マリアさまのように、また彼ら貧しい羊飼いたちのように、真に神を恐れる者たち、神のみを恐れる者たちだからです。「神を恐れる」者にこそ、神はご自身の御子を宿させてくださるのです。さらに、彼らに宿された神の御子によって、彼ら自身を福音の使者、すなわち「民全体に与えられる大きな喜び」の使者とさえしてくださるのです。

畢竟、それは神の天使たちに加わって神を賛美することです。羊飼いたちの見上げる天には、すでにみ使いたちによる神の勝利と歓喜の歌声が響いています。

「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」

クリスマスのこの夜、マリアさまとヨセフさま、また、羊飼いたちのように真に神を恐れるみなさんに主イエスが来てくださいます。「恐れるな」とのおことばを携えて。

クリスマス、おめでとうございます。神の御祝福が皆さんの上にありますように。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 12/24

待降節第4主日 ルカ1:26-38

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように。」

いよいよ、アドベント最後の主日を迎えました。わたしたちのただ中に輝くアドベントの4本のろうそくに、みことばとご聖体における光なるキリストをみつめさせていただきつつ、クリスマスの秘義に備える緊張感と喜びに胸がはずみます。

クリスマス前の12月17日から24日までの8日間を、カトリック教会は、古来、アドベント・オクターブ(8日間)と呼んで大切にしてきました。今日はその最終日。この期間、教会は伝統に従い、日毎のミサの「アレルヤ唱」及び「晩の祈り」の「福音の歌(マリアの賛歌)」の交唱)に示される特別な主題を覚えて、一日一日を歩んでまいります。

この期間の福音朗読は、(主日に重なった場合、主日の福音朗読個所が優先されますが、) 17日のマタイによる福音の「イエス・キリストの系図」に始まり、18日は同じマタイから、マリアさまの夫ヨセフさまへのみ使いの啓示。19日には、ルカによる福音から、キリストの先駆者・洗礼者ヨハネの誕生の予告。12月20日は、ルカによる福音から、キリストの母とされるマリアさまへの天使ガブリエルのお告げ。21日には、同じルカから、マリアさまのエリザベト訪問。22日は、ルカによる福音から、マリアさまの賛歌。23日も、ルカから、洗礼者ヨハネの誕生。アドベント・オクターブ最終日の24日も、同じくルカによる福音から、洗礼者ヨハネの父ザカリアの賛歌からお聞きいたします。

毎日の主題と福音朗読箇所に導かれて、アドベント・オクターブはアドベントの仕上げとして、クリスマスの秘義に備えて今一度祈りを深めさせていただく時です。(実は、クリスマスChristmasとはChrist-massであり、「クリスマス」それ自体「キリストの秘義」の意。)

クリスマスにマリアさまを母としてお生まれになられるキリスト。この方こそ、わたしたち一人ひとりに命を与え、聖霊によって導き、そのようにしてわたしたちと「始めから」「いつもともに」あってくださった、インマヌエルなる神ご自身です。

罪なるわたしたちには目に見ることが許されないその神ご自身が、主イエスにおいて、ご自身をわたしたちに「よく見て、手で触れる」ことをさえ許し、さらにわたしたちにご自身を「永遠のいのち」としてお与えくださる。それが、クリスマスの秘義

待降節第4主日の今日の福音は、大天使ガブリエル(「神のことば」という名の天使)によって、母マリアさまに、主イエスの受胎告知がなされます。み使いは、ナザレの村のおとめマリアさまを訪れて、神のみことばをお告げになりました。「おめでとう(ギリシャ語kaire)、恵まれた方。主があなたとともにおられる。」マリアさまは、主を畏れました。そのマリアさまに、天使は告げます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」

なお戸惑うマリアさまに、さらにみ使いガブリエル(神のことば)は、優しく、しかし力強く語り続けます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」

「聖霊があなたに降り」と、わたしたちが決して聞き逃してはならないことをみ使いはマリアさまに告げていました。神の御子をその身に宿されるために、マリアさまは聖霊によって守られる。わたしたちも同様です。本来神を見ることさえ許されない罪人であるわたしたちこそ、秘跡の内に、つまり洗礼およびご聖体の二重の秘跡の内に働かれる聖霊の、わたしたちの罪を赦す慈愛のみ力により守られて始めてキリストのからだであり主のいのちであるご聖体を受けることが許されるのです。

母マリアさまへの神のことばは次のように結ばれます。「神にできないことは何一つない。」秘跡の内に働く聖霊なる神は、そのみ力によってわたしたちを守り、罪人のわたしたちにご自身を「永遠のいのち」として与えることさえおできになる。もはや、疑うべくもないみことばなる神ご自身に、マリアさまはお応えになられました。「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように。」

キリストの誕生。クリスマス、すなわちキリストの秘義。神は、見えないご自身を見える方としてくださいます。それのみならず神は秘跡によってわたしたちを守り、さらに秘跡においてご自身をわたしたちにお与えくださいます。キリストは、わたしたちにご聖体として、さらにご聖体の内に働く聖霊として、ご自身をお与えくださるために人となってくださる。神なる主キリストの受肉こそ、神の究極の愛の秘義です

クリスマスの秘義。わたしたちへの神のこの究極の愛ゆえに、神の母として選ばれたマリアさまは、神の奉仕者としてその尊いご生涯全体を捧げて行かれます。「おことばどおりこの身になりますように」 これは、わたしたちの祈りでもあります。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。