司祭の言葉 11/5

年間31主日 マタイ23:1-12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、主イエスのエルサレムでの聖週間、すなわち主の最後の一週間のことを伝えています。主は、エルサレム神殿を訪ねておられます。今日の福音は、とくにその火曜日のことです。主は、その日、律法学者とファリサイ派の人々を厳しく非難され、続けて、エルサレム神殿の崩壊を予告されます。

ところで、同じ日の出来事を伝えるマルコによる福音は、主イエスの律法学者たちに対する厳しい非難とエルサレム神殿崩壊の予告との間の出来事として、主が、神殿で自らの一切を神に捧げた「一人の貧しいやもめ」とお会いになられたことを伝えています。おそらく、これらすべては深く関係しあっていると思います。

マタイによる福音は、主イエスの「エルサレム神殿崩壊の予告」を、弟子たちの、当時の巨大なエルサレム神殿に対する讃嘆を受けて、次のように、短く、しかし実に鋭い主のおことばとして伝えています。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(24:1、2)。

実は、マタイによる福音は、「神殿崩壊の予告」に先立って、エルサレムの町に対する主イエスの深い嘆きのおことばを、次のように伝えていました。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」(24:37、38)

エルサレムは、主イエスが来られる千年以上前から、神なる主が、「み名」をこの地上に置かれるために、神ご自身によって選ばれていた町です。そのエルサレムには、神のご臨在の目に見える徴(しるし)として、「神のみことば」を記した「十戒」の石の板が納められたご「聖櫃」を護持すべく神殿が建てられ、その神殿に人々が集い、神のみことばに聞き、神を正しく礼拝することが赦されてきました。

そのようにエルサレムは、「神の都」とさえ呼ばれ、主イエスの時に至るまで、神の民の信仰生活の中心であり続けてきました。聖書に語られる通りです。

そのエルサレムに集う人々に求められたのは、ただ一つのことでした。それは、神を神とすること。すなわち、神を畏れ、神のみ前に、謙遜の限りを尽くして生きること。ただしそれは、神のみことばに正しく聞くことにのみよる、ことです。

しかし、エルサレムは、過去にも、繰り返し罪を犯して来ました。神のみことばを聞き入れないという罪です。それは、実に具体的な形をとりました。彼らは、「預言者たちを殺し、神が自分に遣わされた人々を石で打ち殺」して来たのです。

主イエスは、今、この都が再び、しかも決定的な仕方で「神のみことばを聞きいれない」罪を繰り返すことになることを知っておられます。しかも、「神のみことば」である主ご自身に対して。みことばご自身である「神の御子」主イエス・キリストを十字架につけるというエルサレムの信じがたい罪ゆえに、主は深く嘆かれたのです。

主イエスの律法学者に対する厳しい非難とエルサレム神殿の崩壊の予告は無関係ではあり得ません。律法学者は本来、神殿に集う全ての人々が、律法、すなわち神のみことばに聞き、みことばによって主のみ前に神の民として整えられるために、律法の教師として立てられていた者であったはず、だからです。

しかし、彼らは、神のみことばに畏れと謙遜を以って聞くことをせず、したがって神のみ前に、律法によって、彼らが託された民はおろか、自らを整えることさえできず、あろうことか神と人との前に自らを誇る者へと堕してしまっていました。マルコによる福音では、律法学者たちに対する主イエスの非難は、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」との主のみことばで結ばれています(12:40)。

そのマルコによる福音は、律法学者を厳しく非難し、続けて神殿の崩壊を予告される主イエスを慰めるように、神殿に詣で、自らを神に捧げた「一人の貧しいやもめ」の姿を伝えています。主は、弟子たちに次のように仰せになりました(12:43,44)。

「この貧しいやもめは、神にだれよりもたくさん献げた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて献げたからである。」

律法学者たちの誇りとした地上のエルサレムの神殿は崩壊します。しかし貧しいやもめたちのために、新しい神殿が建てられます。それはご復活の主イエス・キリストご自身です。ただしそれは、エルサレムでの主の十字架の死を経てのことです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。