司祭の言葉 7/30

年間第17主日マタイ13:44-52

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の二週に続き、本主日の福音も、主イエスの「神の国(天の国)のたとえ」からお聞きします。「神の国」こそ、主の福音宣教の要(かなめ)です。「神の国の主」キリストの在すところに「神の国」が来ています。「神の国」とは、「神の国の主」キリストによってすでにわたしたちが体験することをゆるされている「我が身の事実」です。主は「神の国のたとえ」により、この「事実」にわたしたちの目を開かせ、主と心を合わせ、主に身を委ねて新しい命に生きるようにわたしたちをお招きくださいます。

今日の福音の「神の国のたとえ」は、「神の国」に招かれたわたしたちに、今、主が期待されることを語ります。わたしたちは主のご期待に応えて、福音の語る「畑に隠された宝」を見つけた農夫のように、「良い真珠」を見つけた商人のように、さらには水揚げした網の内から「良いもの」を選ぶ漁師のように、決して時を逸することがあってはなりません。わたしたちの持てる一切に代えて、今、「神の国」に隠されている「宝」や「真珠」や「良いもの」を「手に入れ」させていただくべきです。

しかし、主イエスの「神の国」に隠されている「宝」、「真珠」あるいは「良いもの」とは何のことなのでしょうか。それは、使徒パウロが、コロサイの教会への手紙に書き記したように、「キリストと共に神の内に隠されているわたしたちの命」のことではないでしょうか。パウロは、次のように記しています。

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたもキリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1-4)

主イエスが来てくださった今こそ、主ご自身の「神の国」の内に神が隠しておられる「主と共に神の内に隠されたわあしたちの真実の命」を「手に入れさせていただく」ことが許される大切な時。この時を失ってはなりません。そのわたしたちに、今、この時、求められていることはただ一つです。主は仰せです。「出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、良い真珠を買いなさい」、あるいは「網がいっぱいになったら、岸に引き上げ、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てなさい。」

最早、過去の自分に拘泥せず「悔い改める」つまり「主と心を合わさせていただく」つまり「主が今わたしにお望みくださることを、わたし自身の望みとさせていただく」ことです。それは、過去のわたしに代えて、主が今わたしに新しくお与えくださる「キリストと共に神の内に隠されている命」を感謝していただくことです。

主イエスは福音宣教の始めに、「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と、仰せでした。「神の国の主」キリストが在すところに「神の国」は来ています。そしてわたしたちは、主によって、主ご自身の「神の国」に招かれています。その「神の国」に、主とともに生きる新しい命、新しいわたし、が隠されてあるのです。

この事実に目を開かれる時、わたしたちは主イエスへと「心を高く上げ」させていただいて良いのです。今や、過去のわたしは「過去」のわたし。主が与えられる「新しい」わたしを求めさせていただいて良いのです。「福音」そのものである主に、わたし自身を、わたしの未来を委ねさせていただいて良いのです。なぜなら、この方こそわたしのために十字架についてくださった主。十字架にわたしの過去を清算して、新しい命をお与えくださるために復活してくださった主ご自身です。わたしたちの新しい命は、主ご自身の命とともに「神の国」に隠されてあるのです。時を失ってはなりません。しかし、その新しい命を、どこで求め、どのようにしていただくのか。

マタイによる福音は第13章全体で、「神の国のたとえ」を七つ重ねて語りました。「神の国の主」キリストは、ご自身の「神の国」とそこに隠された「新しい命」に、くり返しわたしたちの目を開かせてくださった後、マタイ第14章に語られる「五つのパン」の出来事、つまり「パンの奇跡」へとわたしたちを招き入れてくださいます。「パンの奇跡」は、後の主イエスの「神の国の食卓」すなわちミサの「先取り」です。

「神の国のたとえ」によってすでに「神の国」に招かれてあることに目を開かれたわたしたちは、さらに「神の国の食卓」つまりミサに招かれます。主イエスがわたしたちを「神の国」に招いてくださったのは、新しい命をお与えくださるためにわたしたちを「神の国の食卓」に招かれるためだったのです。そして、その「神の国の食卓」・ミサには、聖体においてご自身をわたしたちにお与えくださる主ご自身がおられます。同時に、主によって新しくされるわたしたち自身がいます。「キリストと共に神の内に隠されている新しい命」を、今、このミサでいただいてください。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 7/23

説教:年間第16主日 マタイ13:24-43

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先週に続き、今主日も、主イエスの「神の国のたとえ」からお聞きします。最初が、「毒麦のたとえ」、次が「からし種とパン種のたとえ」です。「神の国の主」キリストにとって「神の国」こそ、福音宣教の中心です。マルコによる福音は、主ご自身の福音宣教の始めを次のように伝えていました(マルコ1:14,15)。

「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を述べ伝えて『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」

「神の国は近づいた(英訳はhas come)と、主イエスは仰せでした。しかし、それはいかなることなのでしょうか。ところでマタイによる福音は、洗礼者ヨハネが、ユダヤの領主ヘロデによって捕えられ、投獄されていた牢の中から自分の弟子たちを遣わし、主に「来るべき方は、あなたでしょうか」と問わせた時、主は次のように「神の国の主」ご自身における「神の国」の到来を、「事実」をもって、お答えになりました。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタイ11:2-6)

主イエスの在すところに「神の国」が来ています。「神の国の主」キリストの在すところが「神の国」です。主のヨハネへのおことばは、この「事実」を見事に語り示しています。そうであれば、「神の国の主」キリストによってミサに招かれたわたしたちは、すでに「神の国」のただ中にいます。驚くべき、しかし、まぎれもない事実です。

実に、「神の国」とは、「神の国の主」キリストによって、わたしたちがすでに体験することを許されている「わが身の事実」です。「神の国のたとえ」とは、わたしたちが、この「わが身の事実」に目を開き、心を向けるように主によって語られたものです。

そうであれば、今日の福音の最初の「毒麦のたとえ」と呼ばれてきた「神の国のたとえ」は、「神の国」のただ中に在って、「神の国の主」であるキリストのみ前に明らかにされた、わたしたちとわたしたちの世界の現実以外の何ものでもありません。

良い麦と毒麦の混在したようなわたしたちとわたしたちの世界に、だからこそ主イエスは来てくださいました。その主のみ前に、わたしたちは何をなすべきか。自分はよい麦であると自らを誇り、他を毒麦と神に代わって他者を裁くことでしょうか。あるいはその逆に、自分を毒麦と決めつけ、同じく神に代わって自らを裁くことでしょうか。唯一の裁き主であるキリストのみ前に、そのどちらも間違っていると思います。

主イエスのみ前に、わたしたちに求められているただ一つのことは、すべてをご存知の主に、わたしたちをそのままお委ねさせていただくことです。つまり「悔い改める」ことです。聖書で「悔い改める」とは、直訳すれば(主イエスと)思いを一つにする」つまり(主と)心を合わせる」ことです。わたしたちに「神の国は近づいた」と仰せの主は、続けて「悔い改めよ」と仰せになっておられました。

だからこそ主イエスは続けて(神の国の)福音を信じなさい」と仰せでした。ここで「信じる」と訳される語は「委ねる」という言葉です。つまり、主は「福音」である主にあなた自身を委ねてよいと仰せです。今日の第二の「神の国のたとえ」は、「神の国の主」キリストの力を「からし種とパン種」という誰でも知っている事実を以て語ります。そこには主に自らを委ねた主の教会が、二千年の間体験してきた「聖霊」による「主イエスと主のみ国」の驚くべき力と働きが見事に語り尽くされます。

「天の国(神の国)はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」さらに、「天の国(神の国)は、パン種に似ている。・・・」

「神の国の主」キリストによってすでに「神の国」の内に招かれてある幸い。今、主にわたしたちの心を合わせ、すべて委ねさせていただく幸い。「神の国」の中心にはわたしたちの罪の一切を身に受けて十字架につかれ、わたしたちにご自身のいのち「聖霊」を与えるために復活してくださった救い主がお立ちになっておられます。

もう二度と、わたしたちの弱さ、小ささに絶望する必要はありません。何よりも小さなものに働いて、何よりも大きく用いることがおできになる「神の国の主」キリストご自身が、今、ここに、福音とご聖体の内に現存し、「聖霊」において確実に、わたしたちに大いなるみ業を行ってくださる。これがわたしたちの信仰です。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、主は仰せです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 7/16

説教:年間第15主日 マタイ13:1-23

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

「みことばの種」が豊かに実を結ぶ「良い土地」とは、どこにあるのでしょうか。さらに、「耳のある者」とは、誰のことなのでしょうか。

今日の福音で、主イエスは、「種を蒔く人のたとえ」を、「大勢の群衆」にお語りになりました。主の「神の国のたとえ」の一つです。その後、主は、「なぜ、神の国を群衆にはたとえを用いてお話になるのですか」と問う「弟子たち」に、次のようにお答えになられました。「あなたがた(弟子たち)には天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たち(群衆)には許されていないからである。」

主イエスは、「天の国(神の国)」を、大勢の群衆に「たとえ」を用いてお語りになりました。なぜなのでしょうか。聖書の「たとえ」は、ある事柄の詳細を説明するためのものではなく、それを聞く者に、彼らのただ中ですでに始まっている「事実」に目を開かせるために語られます。したがって、「神の国のたとえ」は、「神の国の主」キリストによる「神の国」の到来の「事実」に、わたしたちの目を開かせてくれます。

「たとえ」一般がそうであるように、「神の国のたとえ」も、聞く人に応じてまったく異なった働きをします。主イエスの「神の国の福音」を喜んで受け入れる者には、「神の国のたとえ」は、彼らが「神の国」の内に、すでに招かれてあるという「事実」に目を開かせます。それは、聞く者に、深い畏れと感動を呼び起こします。

しかし反対に、主イエスのみことばを聞いても、受け入れない者には、「神の国のたとえ」は、むしろ、彼らに対して、すでに来ている「神の国」の真実を隠す働きをさえします。それゆえ「聞く耳のある者は、聞きなさい」と、主は忠告しておられます。

ところで、今日の福音は、主イエスが、大勢の群衆に「神の国のたとえ」を語られた後、主の弟子たちに対して、「あなたがたには天の国(神の国)の秘密を悟ることが許されている」と仰せでした。ここで、「神の国の秘密」とは、何なのでしょうか。さらに、「神の国の秘密を悟る」とは、いかなることなのでしょうか。

ここで、秘密と訳されている言葉は、ギリシャ語では「ミステリア」、ラテン語ではサクラメント(秘跡)。従って事柄は明快です。「神の国の秘密」とは「神の国の秘跡。わたしたちに見える形で与えられる「神の国そのもの」つまり「神の国の主」キリストご自身・礼拝における聖体(聖餐)のことです。特別な人にのみ与えられる「奥義」などでなく、わたしたち主の弟子たちすべてに与えられる聖霊の恵みです。

事実、主イエスは弟子たちに「あなたがたには天の国の秘密悟ることが許されている」すなわち「神の国そのもの」である「主イエス・キリストを知ることが許されていると仰せです。「悟る」とは「知る」という字です。しかし、これは驚くべきことです。聖書において「知る」とは「一体となる」ことであり、「主イエスを知る」とは、主と一体とさせていただくことだからです。しかしこれこそ神の国のサクラメント(秘跡)、つまり、主を聖体(聖餐)として拝領し、その聖体の内に「主のいのちである聖霊」を受けることによって、主の弟子すべてに体験されている恵みの事実です。

それにしても、主イエスが、「あなたがた(すなわち、弟子たち)には天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たち(すなわち、群衆)には許されていないからである」と仰せになられたのは、なぜなのでしょうか。先に、「たとえ」は、聞く人に応じてまったく逆の働きをすると申しました。主のみことばを聞きながらも、主を「神の国の主」キリストとして受け入れない者には、「神の国のたとえ」は、むしろその真実を隠します。事実、「群衆」は、主のみことばを聞きながらも主を受け入れず、後に主を十字架につけることになります。

しかし、「神の国の福音」に聞き、主イエスを「神の国の主」として喜んで受け入れた弟子たちには、「神の国のたとえ」は、彼らがすでに「神の国」に招かれてあり、主が彼らのために整えられた「神の国」の食卓で、「神の国の主」イエス・キリストのいのちである聖体と聖霊をともに受ける「神の国の秘跡(秘密)」へと彼らを導きます。

みことばを聞いて、主イエスによる「神の国」の到来を喜んで受け入れ、その「神の国の主」キリストに自己の全てを託して従う弟子たちという「良い土地」に「蒔かれる」種には、主は「ご自身のいのちである聖体(聖餐)と聖霊」を与えて、驚くほどの「聖霊の実」を結ばせてくださるとお約束くださいました。実は、わたしたちを大勢の群衆の中から、主の弟子・神の国の秘跡に与る者としてくださったのも聖霊の恵みです。この恵みは、聖霊を求めるすべての人に開かれています。誰も、主のみ前にいつまでも群衆の一人に留まる必要はありません。聖霊を求めてください。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 7/9

説教:年間第14主日 マタイ11:25-30

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

人生に悩み、疲れを覚え、あるいは後悔や絶望の中に蹲(うずくま)っていた時、この主イエスのみことばに慰められ、再び立ちあがる勇気を与えられた方は多いのではないでしょうか。しかしこれは、実は、不思議な主のおことばではないでしょうか。

人生に、負うべき「軛」や「重荷」が無ければと、わたしたちは願います。しかし、本来、弱く、限界があり、加えて、神と人とに対する罪から自由ではないわたしたちにとって、「軛」あるいは「重荷」、すなわち「わたしたちの十字架」をまったく負うことのない人生、否、むしろ、「わたしたちが、本来負うべき十字架」を負おうとしない人生は、かえって自らと他者を、さらには神をも、欺くものではないでしょうか。

もちろん、「神の子キリストが負わねばならない十字架」というようなものがあろうはずはありません。しかし「弱く、罪に汚れたわたしたちが負うべき十字架」を、主イエスは、わたしたちに「あなたの軛、あなたの十字架」とは仰らず、驚くべき事に、わたしの軛」わたしの荷」、すなわち「わたしの十字架」と仰ってくださるのです。

その上で、本来はわたしたちが負うべき「わたしたちの十字架」を、主イエスはわたしたちに、ご自身と共にわたしの軛」「わたしの荷」すなわち「わたしの十字架」を、一緒に負ってくれないかと仰せになっておられるのです。この主のおことばにわたし自身の言葉を失います。ただ、主に合掌し、主を礼拝させていただくばかりです。

ところで、主イエスのこのおことばは、十二人の使徒たちをお選びになり、「神の国の福音」の宣教に遣わされるに際して、弟子たちに語られた主のおことばです。実は、主は、弟子たちを町や村に宣教に遣わされるに先立って、予めご自身ですべての町や村を訪ねておられました。マタイによる福音は、そのことを、次のように伝えています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。」(9:35)

ただしその時、それらのすべての町や村で、主イエスがご覧になられた、他でも無い「わたしたち」は、どのような様子だったのでしょうか。マタイは続けます。

「(主イエスは)、また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(9:36)

ここで「打ちひしがれている」とは、フランシスコ会訳聖書のように、むしろ「倒れている」、さらには「死にかけている」と強く訳すこともできる言葉です。

これが、主イエスが十二使徒たちを「働き手」としてお遣わしになられるに先立って、主ご自身の目で確認された「飼い主のいない」わたしたちの姿です。しかしなぜ、わたしたちには「飼い主がいない」のか。実は、「飼い主」はいらっしゃるのです。もちろんそれは、神です。わたしたちには「飼い主がいない」のではなく、「飼い主である神から離れて」しまったのです。その結果、「弱り果て、打ちひしがれ、死にかけて」いたのです。誰のせいでも無い、わたしたちの愚かさ、否、罪ゆえにです。

主イエスご自身で確認された、「飼い主を失い、弱り果て、人生の途上で倒れ、死にかけているような」わたしたちとわたしたちの人生の現実ゆえに、主は、十二使徒をお選びになり、宣教、さらに司牧に遣わされたのです。マタイは、さらに続けます。

「そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。』」(9:37f)

「収穫は多いが、働き手は少ない」と主イエスは仰せです。ただし主は、何を、否、誰を「収穫」されるのでしょうか。わたしたちが羨むような物、あるいはわたしたちと違い知恵と徳に優れた人々でしょうか。そうではありません。「飼い主を失い、弱り果て、人生の半ばで倒れ、最早自分で立ちあがる事のできない」わたしたちです。

主イエスは、このようなわたしたちを、父なる神から与えられる掛替えのないご自身の宝(ヨハネ10:29)として、大切に「収穫」してくださるのです。そのためにわたしたちの弱さと罪の一切をご自身の十字架として負い抜くことさえ顧みられずに。

主イエスは仰せです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・私の軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 7/2

説教:年間第13主日 マタイ10:37-42

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスの宣教の御生涯は、弟子たちを伴ってのエルサレムに向かう旅でもありました。そして、その旅の果てに主と弟子たちを待ちうけていることを、主はよくご存知です。この大切な旅の途上で、主は弟子たちに、三度くり返して、しかも「はっきりと」、エルサレムでのご自分の十字架の死と復活を予告されます。主の弟子たちへのくり返される予告を、マルコによる福音は次のように伝えます。

「イエスは、『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に、復活することになっている』、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった」(マルコ8:31)。

エルサレムに向かう旅の途上、主イエスご自身の内に明らかに緊張が高まって行かれるのと対照的に、くり返し主のご受難の予告を聞かされながらも、心がそれについて行かない弟子たちがいます。主のエルサレムでのご受難の予告を二度目に聞かされた直後でさえ、弟子たちは、彼ら十二人の内で「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」とマルコは伝えます(マルコ9:34)。にわかに信じがたいことです。

しかもマルコは、この直後に十二弟子の一人ヨハネが、主イエスに次のように語ったと伝えます。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」(マルコ9:38)。一見、何気ないヨハネの主への報告に聞こえます。しかしこれは、主のみ前に、神と人とに対して極めて傲慢な言葉と不遜な態度ではないでしょうか。彼は主の弟子というより、人々に対してまるで主になり代わったように振舞っています。事実、主はヨハネのこの不遜な振る舞いに深く心を痛めておられます。実は、今日のマタイの福音の主のみことばは、マルコでは主がこの時ヨハネに向けて語られたことばとされています。

「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10:42、マルコ9:41)。

今日のマタイも、主イエスのおことばを、主と共にエルサレムへ向かって旅するわたしたちが一体何者なのかを想い起させてくださるおことばとして伝えています。主のこのおことばから、ヨハネもわたしたちも、主の憐れみと主のご保護の許に生かされている「主の弟子」であり、「小さい者の一人」に過ぎないことを謙遜に自覚すべきです。ヨハネが、漁の仲間であったペトロ、ヤコブと共に、ガリラヤ湖の湖畔で、主から召し出しを受けた時のことを思い出してください。ルカによる福音によれば、この時、主は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を、夜通し不漁であった彼らの網を魚で満たされた「湖の奇跡」をもって、彼らを漁師としてのそれまでの生活から主に在って神と人とに仕えて生きる全く新しい命、生活へと招いてくださいました。それは、彼らの思いや力を遥かに越えた光栄であったはずです(ルカ5:1-11)。

しかし、まさにその時、彼らは深刻な問題に直面せざるを得ませんでした。それは彼らの罪です。罪人は、神なる主に直(じか)に見(まみ)えることは許されません。ペトロは主イエスに招かれた時、ヤコブとヨハネと共に、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5:8)と、申し上げる他ありませんでした。罪なる彼らは、主のみ前に、ひとえに神を畏れたのです。

しかし、彼らが、心から自分の罪を認め、懺悔し、主イエスを畏れたからこそ、主は彼らをご自分の弟子とされたのです。その上で、主は彼らに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」その時、彼らはこの主に「すべてを捨てて従った」と、ルカは伝えていました(5:10、11)。

主イエスの召出しを受けたこの時の謙遜なヨハネはどこに行ったのでしょうか。罪故に主を畏れ、主の赦しの許にのみ、全てを捨てて主に従ったヨハネでした。その彼がいつの間にか、人々に対して居丈高に神の恵みを管理する者であるかのように振舞ったと、マルコは伝えるのです。主は、このヨハネに心を痛められたのです。

主イエスと共にエルサレムに上る旅。ヨハネだけではありません。わたしたちも、主と共にその旅の途上にあります。主に従うこの旅は、誰にとっても、主のみ前に、神を畏れ、主の赦しの許に、謙遜と従順の内に全てを捨てて主に従い、神と人とに仕えて生きることを学ばせていただく旅、ではないでしょうか。このようなわたしたちにもかかわらず、エルサレムへの旅の途上、主は、忍耐強くわたしたちに教え、さらに、主を訪ねて来る一人ひとりに、丁寧に心を尽くして出会って行かれます。

この旅は、主イエスにとっては、ご自身の十字架を見つめての旅です。「すべてを捨てて主に従う」わたしたちのために、主はご自身を、ご自身のいのちさえ、十字架に捨ててくださる旅です。このことを決して忘れてはならないと思います。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。