司祭の言葉 10/2

年間第27主日 C年

 お早うございます。いよいよ秋も深まってきました。杉戸町の外れに当たる江戸川に近い宮前では、稲刈りが済んで田んぼに積まれたもみ殻に火がつけられ、一晩中もみ殻を焼くにおいが漂っています。杉戸の無人販売所には栗が並び始めました。まもなく道路わきには柿を売る店が店を構えることでしょう。

 今日の福音を読んでふと頭に浮かんだのは、先日テレビで見た樹木を移植する映像です。 普通樹木を移植するときには根の周りを掘って根切りを行い、1年ほど放置して細かい根が生えてから、土のついた根を傷めないようにコモでくるみ、縄で縛り、移植場所に移送し、掘った穴に入れ水をやって土を入れます。でも専門家がやっても枯れることがあります。数年前兄のところでも、茶室用の花木を庭に移植しましたが、根付かずに枯れてしまいました。
 造園業者は、枯れないように移植するにはどうしたらよいか考えたのでしょうね。とんでもない方法を編み出しました。重機移植といいます。大きな8本のシャベルのついた重機で木の周りを囲み、それを差し込んで根切りを行い、土を落とすことなくそのまま掘り出し、穴を掘っておいたところにそっとおろして移植するのです。15メートルもある樹木でも移植可能とのことですから、桑の木なら簡単でしょうね。

 今日の福音は、「わたしどもの信仰を増してください」と信仰の「量」を問題にした弟子たちに対して、イエス様は「からし種」の話をしています。それは「信仰とは量や大きさの問題ではないのだ」と言うことでしょうか。信仰の力とは「信じるとその人に不思議な力が備わる」というようなものではなく、「信じて神にゆだねたときに、神が働いてくださる」ということだと言えるのではないでしょうか。だからこそすべてが可能になるのでしょう。 聖人たちの、ドンボスコやマザーテレサの神に対する信頼は絶大なものがありました。ですから大きなこともなしえたのだと思います。

 福音書の中で「神を信じる」というのは「神の存在についての考え方の問題」ではなく、「神に信頼を置いて生きるかどうか」という問題だったのです。
 似たような話はマルコとマタイにもあり・・そこでは桑の木ではなく山となっています。山に向かって海に移れという方が壮大だし、山と海ならつりあいます。桑の木ではしっくりきません。
 そこで神学者はこう考えます。

 伝承の大元では山だった話が、マルコにはそのまま伝わり、マタイはそれを書き写した。しかし他方では、長い口伝の過程でどこかでこんがらかって桑になり、それがルカに伝わったのではないかと。
 マルコでは、イエス様が呪ったイチジクの木が枯れてしまったのに驚いた弟子たちが、どうしてそういうことが可能なのかを尋ねたところ、イエス様が山をも移すほどの信仰という言葉で答えたとなっています。
 もしかすると今日の言葉は伝承段階でもイエス様がイチジクを呪った話と結びついて伝えられており、それが伝承のどこかの過程で、桑と入れ替わった可能性もあると言います。

 さらに次の奴隷の話ですが、ルカは桑の木の話の続きとして書いていますので、本来は別の話をルカがまとめたと考えられています。

 もともとは、人々の関心を集めるために、街角で祈ったり、衣の房を大きくするパリサイ人たちに対する話で、譬えの意味するところは、人々の称賛を当てにするようなパリサイ的生き方をやめて、謙虚に生きることを求めています。
 意味するところは、私たちは神の称賛に値することは何もしていないし、どのような良い業をしても、神に向かって自慢することは何もないということです。

 ルカはこれを桑の木を移す話と結び付けて書いています。とすればルカはこれを使徒によって代表される、教会の指導者に対する説教として位置付けたと思われるということです。

 教会にはいろいろな問題があります。意見の対立もよくあることです。そして一番厄介なのは皆さん善意だという事だ・・・とは、教会の役員さんなどからよく聞く話です。

 ルカが桑の木を採用したのは、教会の役員さんたちに対して、傲慢になるな、許せないという思いが桑の木のように心の中に枝葉を茂らせ、はびこっているとしても「抜け出せ、海に植われ」と信じて命ずればその通りになる。
 これこそ奇跡である。心に許しという奇跡を起こし、奉仕しなさい。・・・と言いたかったのかもしれません。

 信仰は、問題をそのまま打ち捨てることはせず、山を動かすか、人を変えるか、どちらかをします。いずれにしても偉大な奇跡というべきであると思います。