司祭の言葉 9/18

年間第25主日C年

 このたとえ話を信者たちから聞いたルカは困惑したことでしょう。ルカに伝承を伝えた信者たちは、「イエス様はこの管理人のやり方を褒めて語ったんですよ」・・・と、驚きを持って言い添えたのではないか、と思うからです。

 今日のみ言葉を聞いた感想はいかがですか?
 どうして「主人」はこの管理人をほめたのでしょうか。

 イエス様が話の筋を「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と持ってゆくために、普通なら怒るはずの主人に、この管理人のやり方をほめさせた・・と受け止めているのではないでしょうか。

 なんでも疑ってかかるへそ曲がりな神学者たちは、「何か、からくりというものがないか」・・と、勘ぐって考えます。
 不正を重ねる管理人を許せるのか。二重に損害を与えたのに、主人はなぜ褒めたのか。

 もしかしたら、8節aの「主人」は、管理人をやめさせようとする「主人」と別な人ではないのか・・など。

 8節aの、「主人は、この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた」という言葉について、二つの解釈があります。

 一つは、破局を前にした家令の「賢さ」に限定してみる見方。

 もう一つは、デレットという方が、1970年に主張した見方で、家令のしたことは、律法にのっとったやり方で、主人にも、負債者にも益をもたらし、自分の将来も確保した「利口なやり方」であったというもの・・・・です。

 それはどういうことかというと、
 律法では同胞に対して利息を取ることは禁じられていました。そのため、取引の場合は利息を含めて、借用書を書く習慣がありました。それで、油の50パトス、小麦の20コロスは利息分だったというものです。
 油の50%というのは高いと思われますが、オリーブ油の場合は混ぜ物をしやすいので、補償のため利子が高くなり、麦の場合は混ぜ物をしにくいので低いと説明されています。
 棒引きによって、負債者は得をします。主人は律法通りなので文句を言えません。そして、管理者は負債者から感謝される・・という、展開です。

 信者たちは、イエス様がこのたとえ話を語ったのは確かだが、自分たちの常識に反してこの管理人のやり方を褒めて語ったということに、釈然としない気持ちを抱きながら、それでもこのたとえ話を伝承してきました。

 それでこの話の後、8節aの後に、ルカが、解釈を加えたとみられています。

 今日のパンフレットを見ますと、いろいろ理由をつけてみても、管理人の行いを許しがたい不正とみる以上は、詭弁にしかなりません。不正を良いと言いくるめるのは、詭弁でしかないからです。
 それで、まず最初に、「この世の子らは・・」が加わり、「不正にまみれた富で友達を作りなさい・・・」という言葉が加わった・・そう聖書学者は見ています。

 田川健三という聖書学者はこのようなことを言います。

「不正な管理人」といわれていますが、たとえ話の中には「不正」という言葉は出てきませんし、主人の財産を無駄遣いしているというのも、告げ口の言葉です。
 無駄遣いもどのように無駄遣いしたのでしょうか。小作人の借金の棒引きこそ、大きな無駄遣いですが、それをイエス様は褒めているのですから、不正とみなすはずがありません。もしかしたら、この管理人はもともと主人の財産を管理することよりも、小作人の負担を軽くすることに熱心だったのかもしれません。そして小作人たちに人気があったので、仲間がねたんで告げ口をしたのかもしれません。そうすると、無駄遣いといっても、自分のために使ったのではないことになります・・・と。

 この聖書学者は、この譬えが語られた状況をこう推測します。

 多数の小作人に対して権勢をふるっている大地主の管理人が、イエス様を食事に招いたような折りにでも「どうしたら私は救われるでしょうか」尋ねたのに対して、
『こんな管理人の話もありますよ』と皮肉交じりに、「救われようなどと考えるのなら、まず小作人の借金を棒引きにしてあげなさいよ」と語ったのかも知れない・・・と。

 そして、金持ちがイエス様に、「どうしたら永遠の命に入ることが出来るでしょうか」、とたずねたら、イエス様は「貴方の財産を売り払って貧しい人に施し、私に従いなさい」とおっしゃっている箇所がありますから、ありえない話ではありません・・・と。

 この個所の前も後も律法学者やパリサイ人たちに対する警告なので、ここも、当初は律法学者やパリサイ人たち裕福なものに対して、「危機に際して、断固として行動しなさい」という勧告であったものが、聞き手がキリスト信者になり、その聴衆の変化によって、譬えの後の部分が付け加えられ、「富の正しい用い方の指針」に変化した、とみられています。

 イエス様のお話は、当時の社会の姿をとらえて、厳しい言葉で、わたしたちのあるべき姿を語っていると思います。財産は自分のためだけではなく、神のお心に沿って、使わなければならないと。