年間17主日C年
みどり幼稚園では朝8時、職員が仕事を始める前に皆で主の祈りを唱えています。先生たちは全員未信者なのですが、それでもこの祈りを唱えています。でもイエス様に倣う者の生き方を示す祈りと考えれば、信者でないものにとってもよい祈りだと思います。
イエス様の時代、ユダヤ教の各グループには、それぞれのグループの特徴を表す典型的な祈りがあったそうです。ルカはこの「主の祈り」をイエスに従う者の生き方を表す祈りとして考えています。その言葉について少し見てみましょう。
父よ・・アラム語 「アバ」のギリシャ語訳ですが、アバはユダヤ語祈祷書に例がありません。もともとアバは片言の音なのです。タルムードには、「こどもが小麦の味を知るようになったらアバとイマと言う言葉を習う・・とあるそうです。(おとうちゃん・おかあちゃん)イエス様があえて不敬ともみられる家族用語・親密な表現を用いた事の背景には、ユダヤ教の権威主義に対するイエス様の批判があったと聖書学者は見ます。
こう祈りなさい・・との言葉によって、主の祈りを祈るものは、イエス様と共に神をアバと呼ぶ関係に入れられたのです。
あなたの名が聖とされますように
祈りの背景にあるのは神の名が今は汚されている現実があると言う事です。
→ クローン技術は、場合によって神の領域を汚します。
→ 卵子の段階で障害を見分け優勢卵のみを生かす技術は 障害を罪悪と考える風潮を生む危険が指摘されています。
必要な糧を毎日、その意味は、その日生きるために必要な食べ物であって、決して余分な食べ物ではありません。今この世界は食料の危機を招いています。 世界の4分の一の人口が、世界の食料の4分の3を独占していると言われています。彼等にパンを与えるためにはどうしたらよいのでしょうか? 私に何が出来るのでしょうか
主の祈りを祈る者は、この現実に胸を痛めなければなりません。
春日部ひつじ食堂のメンバーが、子供食堂に来ているご家庭にお米を届けたとき、出迎えた子供が、久しぶりにお米が食べられると喜んでいたそうです。私たちの身近なところにも、助けを必要とする方々がおられるのです。
私たちの罪を・・・ユダヤ人が罪の許しを乞うときは「私」とは言わずに、必ず「私たち」と言います。その理由は、ユダヤ人は一つの大きな家族と考えているので、自分が犯した罪でも全員が犯したことになると考えますし、たとえ自分が盗まなかったとしても、誰かが盗むという行為に対しては、自分の慈善が足りなかったから、盗む人が出た・・と考えるのだそうです。(ユダヤ5000年の知恵p169)
続いて、イエス様のたとえ話が示されています。この例えに先立って神学者エレミアスの言葉に従いユダヤの日常を確認しますと、村に店はないので、家庭の主婦は日の出前に家族の食べる1日分のパンを焼きます。だが村では夕方に誰がまだパンを残しているか知られています。いまでもパン3個は一人分の食事とされています。ここに登場する人はそのパンを借りるだけで、すぐに帰すつもりでいます。東方では客をもてなすのは欠かせない義務なのです。戸は閉めた・・は、扉にをかけたことを意味します。はずそうとすれば音がして皆が目を覚まします。
ルカは、祈りについての文脈の中でこのたとえ話を伝え、まず絶えず祈るようにとの勧告として受け止めています。
でもエレミアスという神学者は、「イエスのたとえ話の再発見」という書物の中で、ルカの結論と切り離して、たとえ話の本来の意味は別なところにあると言います。その理由はこうです。
「あなた方のうちだれか」・・と言う文は、新約聖書の定型的な導入句なので、ここは次のように訳するのが最もよいと言います。
「あなた方のうちだれか」・・は、「あなた方の内誰がそうすると、あなた方は想像できるだろうか」と訳すのが最もよいと・・・。そしてエレミアスは、次のように翻訳をし、説明をします。
「想像できるだろうか。あなた方のうち誰かに友達がいて、真夜中にあなた方のところに来て、次のように言ったとしよう。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達が私のところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです」と。そうしたら、あなたは『面倒をかけないでください・・』と大声で叫ぶだろうか?そのようなことを想像できるだろうか?」答えはこうだろう。「考えられません。どのような場合だろうと、友達の求めに答えずに放って置くことはしないでしょう」
このように、7節が「求めを拒否すること」ではなく、むしろ「拒否が全く出来ないこと」を述べていると受け止める場合に限って、このたとえ話は客をもてなす東方の常識的なルールにあったものとなり、本来の狙いもはっきりするのである・・・と。
そして、このたとえ話は、嘆願のしつこさではなく、その嘆願がかなえられることの確かさについての話となり、もし、夜中に起こされた友達が閂を外す音で家族全員の眠りを妨げるのをいとわず、困っている隣人の求めに一刻の猶予もおかず、直ちに応ずるのなら、神はそれよりもずっと快く振る舞ってくださるだろう。
神は求める人々の叫びを聞き、助けに来てくださる。求められる以上のことをなさる。この神にあなたは全幅の信頼を持ってたよっていいのだ・・・そのような意味になると言います。
果たして皆さんは、イエス様はこの例えを、どちらの意味で語ったとうけ留めますか?ゆっくり黙想してみましょう。
註:ヨアヒム・エレミアス ドイツの歴史考古学者・聖書学者・神学者 1900~1979
彼はイエスの複雑な歴史的環境を再構築し、イエスの人生と教えをより深く理解できるようにした。