主の昇天
20220529春日部
主の昇天、おめでとうございます。
ちょっぴり感染者数が少なくなってきましたね。共にミサに参加できる日を待ち望みながら、今日のミサの中で皆様の上に主の恵みを祈ります。
山に行き、ゴンドラに乗った時、窓から見える景色はだんだん小さくなってゆきます。下から見ればだんだん小さくなって行くのはゴンドラです。
もし地上を離れて空に浮かぶ体験がしたければ、パラグライダーに乗れば体験できます。 空中に浮かび地上が遠ざかってゆく体験は感動的です。
御昇天とはどのような出来事でしょうか。
聖書は雲に覆われて彼らの目から見えなくなったと表現しています。
この表現に躓く人もいます。人間が宇宙に飛び出す時代ですから。
今では誰も神の国が大空の彼方の、ある場所だ等とは考えません。
神の国はわたしたちが神から永遠に離れることのない,祝福された状態にあることだと考えます。
しかしここに書かれていることはほとんど2000年も前に起こったのです。当時の人は誰でも賢者でさえ、地球は平らであり大空の向こうには天国と呼ばれる場所があると考えていました。
天は場所ではないのです。・・、だから
「なぜ天を見つめて立っているのか」と言われたのでしょう
福音は、雲という言葉で、神の栄光に入られたという事を示しています。
旧約において、神の栄光はエジプト脱出の時 もえる芝の中にあらわれ、シナイ山では、もえる炎の中から律法を書き記した板を頂きました。
その栄光とは神のご自分の民に対する途方もなく大きな「愛の炎」であったのです
新約において、その栄光はキリスト誕生と十字架 復活を通して現れ、その昇天 をもって完成します。
聖書のこの表現は、現在の人々にとっては躓きになりえます。でも、この表現は、地上を平らな面として理解していた時代の表現なのです。
ご昇天はいつも神秘として残ります → 言葉と叙述を超えるものを言い表そうとしているのです。
ご昇天の出来事は必要だったのでしょうか。
必要だったのです。今日の第一朗読がそのことを示しています。
使徒たちが集まってイエスに尋ねています。
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか?」
イエスがそばにいることによって弟子たちに強い依存心が生まれました。
みどり幼稚園では、お母さんたちにお願いしていることがあります。
入り口で子供を手渡したらすぐに立ち去るということです。
お母さんの中には、門のところでしがみつく子供を抱いて、子供と一緒に泣いてしまうお母さんもいますから。
忘れてならないのは別離の日がなければならなかったということです。
神学者バークレーは、ご昇天は明らかに三つのことを意味しているといいます。
- それは終わりでした。 一つの舞台が過ぎ、次が始まったのです。血肉を備えたイエス様信じていた時代は終わり、永遠に時間と空間から自由になったイエス様につながれたのです。
- 同時にそれは始まりでした。 弟子たちは意気消沈してその場を去ったのではありません。 非常な喜びをもってそこを去ったのです。 何故でしょうか? もはや何物も自分たちからイエス様を引き離すことができないことを知ったからです。
パウロは言います(ロマ8の38~39)
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
- さらにご昇天は弟子たちに、自分たちには地上にだけでなく天にも友人がいるという確信を与えました。 地上のイエス様と同じイエス様が天で我々を待っていてくれるという確信です。
中村神父が病床にあった時、司教様が見舞いに行くと「早く召されるように祈って欲しい」と言いました。次に教区会計の事務をしている黒木さんが行くと、「まだ召されない。司教の祈りは効き目がないな」・・と言ったそうです。中村神父は天に帰る日を待ち望んでいました。
そして彼らはエルサレムに戻り絶えず宮にいて神をほめたたえ、間もなく舞台は、ルカ福音書から、使徒言行録に移ってゆきます。
復活のロウソクの火は消されました。しかしその光は、今から私たちの中に灯されねばならない・・・そのことを心に刻みましょう。
主の祝福が皆様の上にありますように。
司祭、鈴木三蛙