復活節第3主日 (ヨハネ21・1-19)
世界平和のために祈りつつ今日のミサも捧げたいと思います。
共にお祈りください。
さて、ヨハネ福音書は本来20章(先週の福音)で終わっていたと考えられますので、21章は後に付け加えられた部分と考えられています。何故つけ加えられたのでしょうか、
一つには、顕現は幻ではなく確かな事実だったことを強調するためだったと思われます。
幻想でも、幻影でも、霊でもない。幻が実際に魚のいるところを、ほらほら右の方だ・・などと指示するだろうか、火を起こすだろうか、朝食の準備をするだろうか、という主張がここにあるのです。
もう一つは、復活したイエス様と出会った弟子たちは、20章21節で「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われていたのに、ここでまた漁師の仕事に戻っているのはちょっと理解できません。イエス様が十字架で死んでしまった後、失望し、故郷に帰り、以前の生活と仕事に戻っていった弟子たちがいたのかもしれませんが、その
子たちへの顕現と、話が重なっているのかも知れません。
この漁が岸近く90メートルほどしか離れていないところで行われていたことに注目します。 船の漁師には波が光って魚影は見えませんが、岸の方からはよく見えることがあり、岸近くの漁では岸から指図することがよくあるのだそうです。
153匹も象徴的な意味を持っていると言います。
当時のギリシャ人は魚の総種類を153と考えていたという説明があります。そしてこの魚の数は、全世界から召されて改宗者を示していると言います。
イエス様が3度ペトロに「わたしを愛しているか」と問いかけたのを聞いてどう感じましたか? しつこいとか、意地が悪い、と感じませんでしたか? そんな風に言われたらいやだなあ・・と。
別の訳を一つ聞いてください。「小さくされた人々のための福音」本田哲郎訳からです
「皆が食べ終わったとき,イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネのシモン、あなたはこの人たちよりも、わたしを大切にしているか』と言った。『はい、主よ、私があなたを心にかけていることは、あなたが分かっているはずです』と言うと、イエスは『わたしの子羊たちの面倒を見なさい』と言った。」
違いがお分かりになったでしょうか。「愛する」という言葉が使われていません。
3回のやり取りの中で「愛する」と訳された言葉は、ギリシア語では「アガパオーagapao」diligisと「フィレオーphileo」amasという2種類の言葉です。一般的に「アガパオー」は、「神の愛」というときに使われる「本当に相手を大切にする愛」であるのに対して、「フィレオー」はどちらかというと「人間的な愛着」を表すときに使う言葉です。
ここでは最初、イエス様はアガーパス メと「アガパオー」で問いかけますが、ペトロはフィロー セと「フィレオー」で答えます。2回目のやり取りも同じです。イエス様を否認したペトロが「アガパオー」での問い「あなたはわたしを大切に思っているか」に対して、「フィレオー」「わたしはあなたが好きです」という言葉でしか答えることができなかったのです。そして、イエス様は3度目にはフィレイス メと「フィレオー」で問いかけています。
「あなたを大切に思っています」と言い切ることができず、ただ「あなたのことが好きです」としか言うことのできないペトロを見て、イエス様はペトロのところまで降りてきて、「私を好いているか」とおっしゃったのです。このように考えると、この対話は罪の重荷に苦しむペトロにとって、イエス様の愛とゆるしを受け取る大きな体験だったと言えます。
そして、主の許しを胸に、人を漁る漁師として、殉教するに至ったのです。
主は、私たちに許しをもたらすためにこそ、十字架にかかられました。その主の復活を共に喜び祝いましょう