受難の主日 (ルカ23章1-49節)
皆さんおはようございます。ウクライナの戦争はまだ先が見えません。一日も早い終結を願いながら今日のミサを捧げましょう。
式は、始めにイエス様のエルサレム入場が記念され、ミサの中ではピラトによる裁判の場面とイエス様が十字架にかけられる場面が朗読されます。
今日黙想すべき最大のポイントは、イエス様に対する群衆の態度です。それは私たちもまた同じであるとの、深い反省を呼び起こします。イエス様を歓呼のうちに迎えた群衆は、その舌の根も乾かぬうちに、イエス様を十字架につけよと叫んでいるのです。エルサレム入場について入祭唱は、過ぎ越し祭の六日前と言っています。聖土曜日が過ぎ越し祭に当たりますから、万歳万歳と言ってイエス様を迎えた5日後には十字架に着けよと叫んでいる事になります。
受難の朗読前半では「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」というピラトの宣言が、繰り返されています。4節、14-15節、22節。しかしかれは群衆を恐れ、祭司長の言うがままになってしまうのです。
十字架の道行きの中に印象深く取り上げられていますが、イエス様のために泣く女性たちの場面があります。 イエス様はご自分のために泣いているエルサレムの女性たちを逆に慰め、これから起こる大きな災いを予告します。 その災いは、子どもがいれば、自分の苦しみだけでなく、自分の子どもについても苦しまなければならないから、子どもがいないほうがましだ、と思わせるほどのものです。それはエルサレム滅亡の時の様子を語っているものと思われますが、今回のロシアによるウクライナ侵攻とも重なり、今の時代にもまさに起こっている問題として、深い憂慮を覚えます。
次にルカだけが伝える祈りがあります。
「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです』」
この箇所は、新共同訳聖書ではでは〔 〕の中に入れられています。その理由は重要な写本に欠落しているからです。
聖書学者たちはその理由を、写本を書き写した誰かが、「イエスを十字架につけた人々の罪だけは絶対にゆるされない」と考えて省いてしまったため・・と考えています。十字架の上にあってなお、父なる神に許しを願うイエス様がそこにいるのです。
ルカだけが伝えるもう一つの話は、一緒に十字架につけられた犯罪人のうち、一人が回心してイエス様に救いを願う話・・・です。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには私を思い出してください」
この言葉はこの人が、イエス様を神が油注がれた王として認めていることを示しています。
イエス様はこれにこたえ、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束します。
イエス様が救いを宣言した唯一の人です。
ルカが伝えるイエス様の最後の言葉、「父よ、わたしの霊を御手(みて)にゆだねます」
これもルカ福音書だけが伝える言葉です。
ルカは、これらのエピソードを記述しながら、イエス様が最後の最後まで人々を愛し続け、神に信頼し続けた姿を伝えようとしています。
無差別の殺人事件などで、被害者が加害者の死刑を願う厳罰を望む姿がよく放映されます。今回のロシアによるウクライナ侵攻も不条理としか言いようがありません。そのために430万人もの避難民が生み出されているのです。無実の罪で死刑になる、そのような不条理なことがあれば、ただ怒りや憎しみ・恨みに支配されてしまい、絶望して、神を呪い、人を呪うのが普通かもしれません。
しかし、十字架のイエス様はそうではなかったのです。
私たちは戦争反対の意思表示をするのをためらっているかも知れません。でも、イエス様はあるとき、私に反対しないものは味方であると言われました。これを今回の戦争に置き換えるなら、ロシアの侵攻に反対しないものはロシアの味方であるということができます。何らかの形で反対の意思表示をしてはいかがでしょうか。
イエス様を訴える事に反対した議員方もおられたと聖書は述べています。でもその声は小さく、かき消されてしまったのです。