司祭の言葉 11/7

年間第32主日B年

 エルサレム神殿は縦300メートル横500メートルの城壁があり、その中に建てられた石作りの四角い建物です。異邦人の庭。婦人の庭があり、神殿に入れるのは男子だけ、さらに司祭だけが入れる生贄の祭壇と香をたく場所、その奥に大祭司だけが入れる至聖所があり契約の箱が置かれていました。

 「賽銭箱」というのは、日本の神社の前にあるような四角い木箱ではなく、ラッパ形の容器で、神殿の「婦人の庭」に十三個が置かれていたと伝えられています。各々特別な目的のためで、供えの穀物のため、油のためなど、神殿の費用のためでした。
 具体的にどんなかたちであったのかは分かりませんが、恐らく口が大きく開いていて、お金を賽銭箱に入れた時には音が大きく拡大されて響いていたのではないかと考えられます。
 ついで、やもめについても、理解しておく必要があります。女性の働く職場と言うものがなかったこの時代、独り身になった女性が生きてゆくのは大変でした。旧約聖書のルツ記にも、落ち穂を拾わせてもらって生活するやもめの姿が描かれています。

 ある日のエレサレム神殿です。お金持ちの夫人たちはジャランジャランと銀貨をたくさん入れていました。当時は高額貨幣も硬貨でしたから、重さに比例して音も派手だったかも知れません。やもめが入れたこの時、賽銭箱に響いた音は、正直、ささやかな音だったのではないかと思います。レプタは薄いものと言う意味でした。

当時のパレスチナにはイスラエル固有の貨幣であるシケルの他に、ギリシャ貨幣やローマ貨幣が入り乱れて流通していましたから、ローマ貨幣に馴染んでいる読者のためにこのような説明が必要になったのでしょう。レプトン銅貨は労働者の一日の賃金1デナリオンの128分の一とありますから、Ⅰデナリオンを1万円とすると、今でいえば、やもめが入れたのは160円ほどになります。

 しかし、その音を聞いたイエス様はその光景を見のがしませんでした。おそらく、とりわけ質素な身なりをしていたのだと思います。イエス様の目がいつも貧しい人々に向いていた証拠です。

 レプトン二枚はささやかな金額ですが、やもめにとっては、その日の食べ物を買うための最後の二枚、すなわち生活費の全部だったとイエス様は見抜いています。

その日暮らしのやもめでした。しかも、一枚を自分のためにとっておくこともできたのに、二枚とも投げ入れたところに、このやもめの心が表れています。

 ここでこイエス様が問題にするのは、贈り物の額ではなく、贈り物に伴う犠牲の大きさです。神様が喜ばれるのは私たちの犠牲の大きさなのです。
 そしてさらに目を止めるべきなのは彼女の信仰です。生活費のすべてをと言うことは、自分のすべてを神の手にゆだねたということになります。

 今日のイエス様の言葉を自分に向けた言葉として聞いて、神への応えとして、何か一つ決意をいたしましょう。