司祭の言葉 11/14

年間33主日

 教会の典礼暦年は終わりに近づいてきました。朗読は週末について考えるように求めています。今日の箇所はエルサレムに入城し壮麗な神殿に感嘆している弟子たちに対して、エルサレム滅亡を語ったお話です。

 このような苦難の後とは、・・聖書と典礼の解説に述べられていますが、今日の朗読箇所の前13の5から23には、戦争や迫害、天変地異や偽メシアの出現など、終わりの日に起こる苦難のことが語られています。
 その後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる・・
とありますが、この表現は当時の人々が用いていた終末的表現で、イエス様もそれをそのまま用いて、人々の目を終末に向けようとしています。
 主なる神は言われる、「その日には、わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くし、
アモスの預言8の9

 地は彼らの前におののき、天はふるい、日も月も暗くなり、星はその光を失う。
ヨエルの預言2の10

 わたしはあなたを滅ぼす時、空をおおい、星を暗くし、雲で日をおおい、月に光を放たせない。                         エゼキエルの預言32の7

 そしてその時とは、再臨の時であることが示されます。
「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」

 イエス様はイチジクの木を譬えにして、キリストの再臨の確かさについて語っています。イチジクは冬になると葉を落とし、夏の近づきとともに葉を茂らせます。そして人々は、それを見て季節の変化を感じ取ります。

 戸口に近づいていると言う表現は、終末はすぐそこにきている事を示します。それは、
天地が滅びても私の言葉は決して滅びない・・・というほど確かな事なのです。

しかし、確かで近いその日は、父の他は誰も知り得ません。
子も知らないというものをわたしたちが詮索するのはむだなことであると示されます。
必要なことは、いつも目覚めていることです。

 終末は救いの時なのですから、不安のうちに待つのではなく、熱心に待ち望みながら ・・ (御国が来ますように)今日の一日を目覚めて生きる事が必要なのです。
 わたしたちは、先のこともわからないのにずーと先のことまで考えていますが、人は無意識のうちにも、永遠に生きると言うことを自覚しているとも言えます。

 施設におりますと3年ほどに一度、県の監査がはいります。その時には、入居者の記録を丹念に読んで行きます。ですから、毎日の記録はきちんとつける必要があります。そして一人一人のケアサービス計画が立てられているか、半年に一度は、その見直しがなされているか、一人一人の大目標、小目標の設定、支援計画の見直しがなされているかなどをチェックして行きます。ですから毎年いつ監査が来ても大丈夫なように備えています。

人類滅亡などと、そんな大それた事を考えなくても、私にとってのこの世の終わりは必ず来ます。まずは、自分の死によって・・。 私たちの死亡率は100%ですから。

 私たちの大目標とは何でしょうか → 必ず、神の国にはいることです。
その為の小目標は設定されているのでしょうか。 いろいろあると思いますが、その一つは・・・常に神を大切にし、神に感謝することです。
 忙しい、たのしい、あるいは、つらい一日が終わり床につく前に、
 悔いも色々あるけど、今日も一日有り難うございました・・とつぶやけば感謝の祈りとなります。まずは日々感謝することです。

 さらに必要な小目標は、イエスが愛したように隣人を愛するように努めることです。イエス様が命をかけて贖った隣人を大切にすることです。どんなに許せない相手でもイエス様が許したのですから・・・。

 神の助けによって、頑張りましょう。

司祭の言葉 11/7

年間第32主日B年

 エルサレム神殿は縦300メートル横500メートルの城壁があり、その中に建てられた石作りの四角い建物です。異邦人の庭。婦人の庭があり、神殿に入れるのは男子だけ、さらに司祭だけが入れる生贄の祭壇と香をたく場所、その奥に大祭司だけが入れる至聖所があり契約の箱が置かれていました。

 「賽銭箱」というのは、日本の神社の前にあるような四角い木箱ではなく、ラッパ形の容器で、神殿の「婦人の庭」に十三個が置かれていたと伝えられています。各々特別な目的のためで、供えの穀物のため、油のためなど、神殿の費用のためでした。
 具体的にどんなかたちであったのかは分かりませんが、恐らく口が大きく開いていて、お金を賽銭箱に入れた時には音が大きく拡大されて響いていたのではないかと考えられます。
 ついで、やもめについても、理解しておく必要があります。女性の働く職場と言うものがなかったこの時代、独り身になった女性が生きてゆくのは大変でした。旧約聖書のルツ記にも、落ち穂を拾わせてもらって生活するやもめの姿が描かれています。

 ある日のエレサレム神殿です。お金持ちの夫人たちはジャランジャランと銀貨をたくさん入れていました。当時は高額貨幣も硬貨でしたから、重さに比例して音も派手だったかも知れません。やもめが入れたこの時、賽銭箱に響いた音は、正直、ささやかな音だったのではないかと思います。レプタは薄いものと言う意味でした。

当時のパレスチナにはイスラエル固有の貨幣であるシケルの他に、ギリシャ貨幣やローマ貨幣が入り乱れて流通していましたから、ローマ貨幣に馴染んでいる読者のためにこのような説明が必要になったのでしょう。レプトン銅貨は労働者の一日の賃金1デナリオンの128分の一とありますから、Ⅰデナリオンを1万円とすると、今でいえば、やもめが入れたのは160円ほどになります。

 しかし、その音を聞いたイエス様はその光景を見のがしませんでした。おそらく、とりわけ質素な身なりをしていたのだと思います。イエス様の目がいつも貧しい人々に向いていた証拠です。

 レプトン二枚はささやかな金額ですが、やもめにとっては、その日の食べ物を買うための最後の二枚、すなわち生活費の全部だったとイエス様は見抜いています。

その日暮らしのやもめでした。しかも、一枚を自分のためにとっておくこともできたのに、二枚とも投げ入れたところに、このやもめの心が表れています。

 ここでこイエス様が問題にするのは、贈り物の額ではなく、贈り物に伴う犠牲の大きさです。神様が喜ばれるのは私たちの犠牲の大きさなのです。
 そしてさらに目を止めるべきなのは彼女の信仰です。生活費のすべてをと言うことは、自分のすべてを神の手にゆだねたということになります。

 今日のイエス様の言葉を自分に向けた言葉として聞いて、神への応えとして、何か一つ決意をいたしましょう。