年間21主日B年
先週のお話の続きです。イエスはユダヤ人に私の肉を食べ私の血を飲まなければあなた方に命はないと言われました。イエスにとっては「血は自分の命であるからこそ、この血を飲ませ、命を与える」とおっしゃるのです。
でも、レビ記17章の11節には次のような言葉があります。
「わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。」
律法ではこのように血を食べることは禁じられていましたから、「実にひどい話だ」とユダヤ人と多くのの弟子はイエスの言葉に躓きます。でも、十二弟子達はイエスを体験し、奇跡を間近に見てイエスに対する信頼を深めていましたので、イエスの言葉を今はよく理解できませんでしたが、イエスに信頼を置き続けたのでした。
もう21年も前になります。2000年の8月、岡田司教と浦和教区司祭信徒との、最後の旅行となるモンゴル訪問をしました。それは、1995年から始まった、フィリピンに始まり、韓国、ベトナム、台湾と続いた、戦時中のカトリック教会の戦争協力、ないし積極的に戦争に異を唱えなかったことに対する謝罪と和解の旅でした。
モンゴルはノモンハン事件によって有名です。旧満州国の西北、外モンゴルに近いハルハ河畔の地で、昭和14年5月から9月中頃まで日ソ両軍の国境紛争で交戦、日本軍が大敗、2万人が戦死しています。
2000年のモンゴル訪問は一連の和解の旅の一環として、岡田司教が浦和教区にいるうちに、モンゴルにも行きましょうと急遽計画された旅でした。
モンゴルのウランバートルでは町全体に給湯管が配管されています。当時、その給湯管の通る暖かいマンホールに寝起きする、マンホールチルドレンといわれる子供達が2000人ほどいました。その子供達を200人ばかり引き取って養育しているサレジオ会の施設を訪問し、浦和教区として和解と償いのため、モンゴルに対して何が出来るのかを考えるのが主な目的でした。
モンゴルに行く前には一冊の本を手に入れました。「地球の歩き方」。モンゴルに関する情報が一杯でした。しかし、頭の中に入れた知識と現実の体験とでは大きな違いがあります。行ってみて、そこに入ってみて初めて体験することがあります。
モンゴルは都市全体が集中暖房となっています。でも、8月のモンゴルではお湯が出るのは10時から4時まで。その後は水だけです。その間にお湯を使わないと、風呂にも入れません。司祭達はバチカン大使館に泊まりました。信徒達はホテルです。ホテルは一日中お湯が出たそうですから、事このことに関しては、大使館より良かったのです。
モンゴルの道は悪路だとは聞いていました。でも、有料道路が穴だらけでドライバーがその穴をよけるようにして運転しなければならないほどだとは思いも寄りませんでした。
電気事情が悪いので懐中電灯を持ってくるように言われました。ウランバートルは70万人が住む大都市です。停電はありませんでした。
たまたま大使館の秘書の方の家に馬乳酒を試しに行くことになりました。
町中なので懐中電灯を持って行きませんでした。しかし間違いでした。6階ほどにある彼女の家まで階段は真っ暗闇。手すりにつかまり踊り場近くに来ると足探りで歩かなければなりませんでした。町全体が暗いのは、踊り場の電気など、公の場所に明かりが無かったからかも知れません。
ただ頭で知るのと、試してみるのとでは大きな違いがあります。ヘブライ人は体験するときにのみ「知る」という言葉を使いました。
キリスト教の信仰もイエスについて知ることではなく、イエスを知ることにあります。イエスについて書いている沢山の本を読むよりも、イエスに出会い、その声に耳を傾けることが必要なのです。
イエスは私たちひとりひとりに、あなたは私を誰だと思うか?・・という問いかけをしてきます。 その答えはイエスとの出会いの中でしか出てきません。
イエスの言葉に耳を傾け、その教えを生きることによって、私たちと共に居られ、人々の中に活きるイエスと出会います。
強いて50歩歩かされたら100歩歩きなさい。・・・私たちは文句を言うのでは無いでしょうか 右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい・・・試したことがありますか? 祈りはもちろん大事です。でも祈るだけではだめなんですよ。キリストに倣わなければ。
そして、人々のうちに生きるイエスに出会い、その復活のいのちにふれたとき始めて、自分の体験としてイエスを語る事が出来るようになります。そしてその時こそ、どのような危機に遭っても、ペトロのように「あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」ということができるでしょう。
皆様の上に主の平和を祈ります。