四旬節第5主日B年 (ヨハネ12章20-33節)
過越祭のときで、ギリシア語を話す異邦人がイエスに会いたいとやってきます。頼まれたフィリポは、アンデレと一緒にイエスのところに行ってそれを伝えました。するとイエスは「人の子が栄光を受ける時が来た・・・」とおっしゃったとあります。この個所はイエス誕生の時に東方の博士たちがやってきたことを想起させます。
イエスのエルサレム入城に出会い、人々がメシアだと叫んでいるのを聞いた彼らは、真理を求めていた人たちなのでしょう。ギリシャ人は古代からソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者を輩出し真理を探究していました。会いに来た彼らも、イエスに真理とはなにか尋ねたかったのかもしれません。
イエスは彼らの到来に「時が来た」ことを感じ取ります。カナの婚礼の時ブドウ酒がつきたことを知らせた母に向かってイエスは「わたしの時は未だ来ていません」(2の4)と語り、イエスの兄弟達が仮庵の祭りが近づいているからエルサレムに行ってあなたの力ある業を公に示したらどうかとそそのかしたときにも同じ言葉で答えたイエスは(7の6)
・・今、「人の子が栄光を受ける時が来た」と明確に告知します。それは十字架の時です。
そしてイエスは一粒の麦の話をします。
そろそろジャガイモの植時です。今植えれば夏には収穫を迎えます。
畑でジャガイモ掘りをした時沢山の子芋にまじって茎のところに変色した種芋の姿がありました。触るとくしゃっとつぶれてしいます。全ての養分を与えて役目を終えた芋姿です・・。
多くの母親は子どもに全てを与え尽くし、小さくなって行きます。
たはむれに 母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず 石川啄木
今、杉戸近辺の麦畑には青々とした緑が広がっています。その根元には役目を終えた種もみの殻があるに違いありません。そして5月末には豊かな収穫の時を迎えるはずです。
イエスのいのちはまさにそのような命でした。
イエスは生かすために命を与え、父なる神に豊かな実りをもたらす・・・そのような命であったことを示しています。
最近のニュースは自分の主張を通すために、他人の命を奪って平然としている人たちの多いことに慄然とします。ミャンマーでも軍部が自分たちの主張を通すためにクーデターを起こし、多くの市民の命が犠牲になっています。1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件から26年になりますが、この事件でも多くの人の命が奪われ、今なお後遺症で苦しんでいる人たちがいます。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(1ヨハネ4章9節)
とヨハネは語ります。イエスの十字架の時は、イエスが究極の愛を示すことによって、「神が愛である」ことを完全に現す時なのです。 ヨハネは十字架のみじめさや悲惨さには目を止めません。ヨハネが私たちに指し示したいのは、そこに現れる「神の愛」なのです。
こうしてイエスは神の栄光をあらわしました。私たちもまたこのイエスに従ってゆくとき、共に神の栄光をあらわすことになります。