司祭の言葉 12/13

待降節第3主日B年(2020/12/13)

喜びの主日

 今日は「喜びの主日」です。今日の入祭唱にガウデーテGaudete in Domino semper:主にあっていつも喜べ。重ねて言う喜べ。主は近づいておられる(フィリピ4:4-6)とあるからです。

 第一朗読のイザヤの預言も「私の魂は私の神にあって喜び躍る」とかたり、答唱詩編はマリアの賛歌「私の心は神の救いに喜び躍る」とうたい、第二朗読はパウロのテサロニケの教会への言葉、「いつもよろこんでいなさい」という言葉を取り上げています。
 教会で降誕日が統一してこの時期に祝われるようになったのは4世紀も半ばのことのようですが、この祝祭への準備期間として、復活祭の前に設けられている「40日」の半分の期間を宛てるようになりました。そして、第三主日に「ばら色」の蝋燭が灯されるのも、受難節の典礼から借りたものです。
 待降節の典礼は、4週の前半を終末の「王なるキリスト」の来臨を待ち望む主日、また後半の2週を「預言の成就」を待ち望む主日となっていて、前半の二週では預言者の声に従って神に立ち返るよう呼びかけ、後半の二週では、預言の成就にたいする期待が述べられてゆきます。

 今日の福音は、ヨハネの証が述べられていますが、洗礼者ヨハネがその到来を予告した救い主が、すぐ近くに来ておられる、という喜びの雰囲気の中でこの主日は祝われるのです。
 20節の「メシア」はヘブライ語ですが、ギリシア語では「クリストス=キリスト」です。どちらも神から「油を注がれた者」「王」「救い主」を意味します。メシアを待ち望んでいた人々に対して、ヨハネは「わたしよりも優れた方」が来ると予告しました。「履物のひもを解く」のはしもべの仕事で、「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」 自分は、光について証しするために来たもの、荒れ野で叫ぶ声だといいます。
荒れ野は人のいないところです。ヨハネはひとのすくないところで叫んでいたのですが、その声を聴いて多くの人が集まってきたのです。ヨハネの言葉の中に心に響くものがあったため、そこでは真実が語られていたからでしょうか。
 「証しする」という言葉ですが、ある事件の証人とはその出来事を確かに見たり経験したりした人を意味します。自分が「見たこと、経験したことを語る」のが「証言する」ということなのです。洗礼者ヨハネも神から「後から来られる方」を示されたからこそ、その方について証言したのでしょう。

 私たちにとっての証は何でしょうか。私たちが経験した事とは何でしょうか。
 使徒たちが証したものは、キリストの死と復活でした。私たちが受け継ぐ証もまさにここにあると思います。そこに人がいなくても、荒野であっても、見たこと経験したことを、喜びをもって証しすることが求められているのです。いや、証ししないではいられないというべきでしょう。ミサにあずかるということは、最後の晩餐の出来事を体験しているということ、見聞きしているということ、神の恵みの実体験なのですから。