司祭の言葉 10/4

年間第27主日A年 2020/10/04

邪悪な農夫

                             司祭 鈴木 三蛙
 皆様お元気ですか? ようやく司教様から出されていた年齢制限が解除され、今日から、高齢者の方もミサに参加できることになりました。でも、ご心配な方は今まで通り家の中でお祈り下さいとのことです。

 今日の福音はマタイによる福音です。同じ譬え(たとえ)はマルコもルカも記しているのですが、このイエスの「ブドウ園のたとえ話」を、マタイ福音書は寓喩的(ぐうゆてき)に紹介しています。寓喩とは、ある事柄を直接的に表現するのではなく、他の事物によって暗示的に表現する方法とされています。
 イエスが最初語った時の聴衆は祭司や民の長老たちでしたが、教会が誕生し、聞き手が信徒に替わることによって、信徒たちの置かれた現状に合わせ、次第に寓喩的に解釈、伝承されるようになったと考えられています。

 今日の福音では、最初につかわされた者たちの一人を袋叩きにし、一人を殺し、一人を石で撃ち殺したとあります。また他の僕たちを前よりも多く送りましたが、農夫たちは同じような目に合わせています。この僕たちは旧約の預言者たちで、聖書学者は、先に送られた者たちは捕囚前の預言者たち、後に送られた者たちは捕囚後の預言者たちであると見ています。そして、最後に送られた息子はブドウ園の外で殺されていますで、イエスのエルサレム城外での十字架刑を示していると考えています。
 今日の第一朗読のイザヤの預言がこの話の根底にありますので、ブドウ園はイスラエルの家、主が楽しんで植えられたのはユダの人々としますと、農夫たちはイスラエルの指導者たちを指すことになります。マタイはこの話の中に、イスラエルの指導者がキリストを拒否した結果、救いが異邦人に及んだ歴史を見ているのです。

 このたとえ話は、「邪悪(じゃあく)な農夫のたとえ話」ともいわれています。土地を手に入れるために地主の息子を殺してしまうとは、何とも乱暴な話ですが、この譬えはあり得る話なのでしょうか、たんなる作り話なのでしょうか、皆さんはどう思われますか? 息子を殺せば相続権が手に入ると言う農夫たちの考えは、ばかばかしく思われます。

 ヨアヒム・エレミアスと言う聖書学者は、このたとえ話は外国の農園主に対するガリラヤの農民たちの姿勢を記したもので、その行動はガリラヤに本拠を置く熱心等によって引き起こされたと述べています。(イエスのたとえ話の再発見p87)
 ガリラヤ湖の北岸と北西岸、そしてガリラヤ山岳地帯の大部分は、当時外国人の所有者で、地主が外国に暮らしていたので、地主が外国に暮らしている限り借地人たちは使者に対して好き勝手なことをしました。また、特定の条件下では、遺産は主人のいない財産とみなされ、誰でも自分のものだと主張でき、最初に専有獲得したものが優先権を得ることが出来たのだ・・と言うことです。
 この場合、息子がやってきたのは、土地の所有者が死に、息子がその遺産を取りに来たのだと考え、もし息子を殺せばブドウ園は主人のいない財産となり、自分たちが最初のものとしてその場所を占有できると考えたということです。そしてイエスが一人息子を登場人物に取り入れたのは「神の子」としてのメシアと言うことではなく、この物語の本来の筋として、ブドウ園主の息子を殺すことで、最後に決定的な神の使信(ししん/メッセージ)が拒否されることを示しているということです。日常生活からとられた話としては、あまりにも残酷ではないかと思われるのですが、この物語は借地人の邪悪さを強調し、聴衆が聞き漏らさないようにする必要があったと考えます。

そして、もう一つの見方があります。
この譬えはマルコとルカにも記されています。マルコでは使わされる僕(しもべ)は一人ずつで、一人目は袋叩きにされ、二人目は頭を殴られ侮辱されます。三人目は殺されます。他にも送られましたが同様にされ、息子なら敬ってくれるだろうと送られた息子はブドウ園の中で殺されたのちブドウ園の外に放り出されます。
 ルカでは三人目は傷を負わせて放り出します。そのあとに送られた息子はブドウ園の外に放り出されて殺されます。
 また、偽福音書として知られるトマスによる福音書にも、この話は記されています。グノーシス派に属するこの書物の編集者は、たとえ話を確実に寓喩的感覚で理解するのを常としていたのですが、トマスによる福音書のたとえ話には寓喩的特徴がみられないのです。「彼は僕を送った。ブドウ園の収穫をださせるためである。彼らは僕を捕まえて袋叩きにし、ほとんど殺すばかりにした。僕は帰ってそれを主人に言った。『多分彼らは彼を知らなかったのだ。』主人は他の僕を送った。農夫たちは彼をも袋叩きにした。そこで主人は自分の子を送った。」
 そして、マルコもルカもマタイより話の筋が単純なので、こちらの方がイエスの言われた実際の言葉に近いと考えられるといいます。

そこで、寓喩的見方を取り除きますと、もともとイエスが言わんとしたのは、
あなた方ブドウ園の借り手たちである「人々の指導者たち」は、これまで何度も神に逆らい、預言者たちに聴こうとしなかった。今もまた神の遣わした最後の使者を拒絶している。もはや限界だ。したがって神のブドウ園は「他の人たち」に与えられる・・ということでした。

 そしてヨアヒム・エレミアスは、マルコもルカも「他の人たち」がだれを指すか、何も明らかにしていないので、関連するイエスの説教から類推して、他の人たちとは「貧しい人々」を指していると考えねばならない・・・と結論して、
 本来は「祭司長たちや民の長老たちよりも、神から遠いとされている取税人や遊女たちの方が神の国に入る」とおっしゃったのだ、と読み解きます。(マタイ5の5山上の垂訓)

イエスのたとえ話の多くは、取税人や罪びとたちとともに食事をしているのを非難する、パリサイ人や律法学者たちに対するイエスの弁明で、「かたくなな祭司長たちや民の長老たちよりも、悔い改めた取税人や遊女たちの方が神の国にふさわしい」と、福音の正しさを言明するために語られているということです。