司祭の言葉 9/13

※20200913 年間第24主日A年

許しの限界

                   司祭 鈴木 三蛙
今日のテーマは許しの限界についてです。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回許すべきでしょうか。7回までですか?」イエスにこの質問をしたとき、ペトロはお褒めの言葉を大いに期待していたと思います。

日本のことわざにも「仏の顔も三度まで」というのがあります。どんなに温和な人でも顔を撫でられて気持ちのいいはずがありません。やめてよ‥というでしょう。コロナの今の時代ならなおさらです。それを三度も撫でられたら、どんなに温和な人も怒り出すというわけです。

ユダヤのラビの言葉にも、次のように言われているそうです。「ラビのヨセ・ベン・ハニナは言った。隣人から許しを3回以上乞うことはできない。」ですから、ペトロは自分を寛大な人間だと思っていたことでしょう。ラビの許しの倍許し、さらにもう一回加えているのですから。でもイエスの言葉は7の70倍許しなさいというものでした。それは際限なくということです。そしてたとえをもってその根拠が示されます。一万タラントンを許された者が100デナリンオンの負債のある仲間を許さなかった・・。1デナリオンを労働者の日当1万円と仮定するなら、1万タラントンはその同僚の負債の60万倍でしたから、6000億円にあたります。べらぼうな額です。

このたとえが示すのは、私たちは神の子の命というべらぼうな額によってあがなわれているということです。贖われている‥それはキリストによって買い取られ、その所有とされたということです。キリストの所有となったのですから、私のすべてはキリストのものであり、キリストの聖心に沿って行動することが求められているという事です。

パウロがローマの教会への手紙の中で、「生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです」といっているのは、まさにこのことです。「私たちは主の僕であり、主の聖心を生きるのだということです。「私たちの中には誰一人自分のために生きるものはなく、誰一人自分のために死ぬ人もいません。」借金を帳消しにしてもらった家来は、王の心を生きるべきだったのです。

私たちが人を許さないのは、自分がべらぼうな値によってあがなわれたものであるということを意識していないことによります。自分はキリストの命によってあがなわれ、キリストの僕となったのです。だからキリストの思いを自分の思いとして生きる・・・そのことを改めて黙想してはいかがでしょうか。