司祭の言葉 9/20

※20200920 年間第25主日A年

デナリオン・信仰の恵み

                      司祭 鈴木 三蛙
日本国内でも、とくに新型コロナウイルスによる打撃は激しく、健康で働きたくても仕事がなく働けないという現実があります。多くの方が派遣切りにあい、8月初め、失業者は265万人、戦後最悪の6%台になり、隠れ失業者517万人を含めると11%台になるそうです。さらにこれは世界中の傾向で、米国などでの失業者は、20%を超えるともいわれています。現実に、春日部教会でもこども食堂を行っていましたが、現在は部屋に招いて食事を提供することが難しく、母子家庭などではお母さんの失業や休職で、食べるものにも事欠く事態に陥っています。

マタイ20の1~16の今日の福音のたとえは、全ての人に働く権利があること、また働く者はその働きに対して生活できる賃金を得る権利がある事をも、示唆しています。

今日のたとえ話でぶどう園の労働者に支払われた賃金は、私たちの社会の基準で考えれば、同じ現場で同じ労働をしていた労働者の時給が10倍近く違うのですから、これは明らかに不当な行為だろうと思います。 でもイエスさまは「あなたに不当なことはしていない」のだから「自分の分を受け取って」それで満足しなさいとおっしゃっています。

1デナリオンは本当にわずかなお金です。家族みんなのパンがやっと買える程度のお金だったのです。このお金がなければ家族は今日一日ひもじい思いをすることになります。 たとえ話で語られる労働者は「9時ごろ」「12時ごろと3時ごろ」に雇われた人たちも、「5時ごろ」に雇われた人たちも「何もしないで1日中ここに立っている」ので雇われたのですが、彼らは「誰も雇ってくれない」のでしかたく、声をかけられるチャンスを逃さないために、働くチャンスを逃さないために、「何もしないで広場に立って」いたのです。逆に同じ賃金であったことに抗議をした最初に雇われた者たちは、あとから雇われても同じ賃金なのであれば、自分たちも五時ごろに雇われれば良かった、つまり朝から働かないほうが良かったという思いがにじみ出ています。

ここで語られているのは社会正義ではなく神の憐れみなのです。1デナリオン、この神から与えられるものは、信仰の恵だということが大切な点です。この労働者が神から与えられるのは賃金ではなく贈り物であり、報酬ではなく恵なのです。パウロは言います。「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ロマ4の4)

わたしたちはみな神から恵みを受ける資格を持ちません。自分で自分を義とする事のできる人は一人もいないからです。もし、人が義とされるのなら、それは、ただ、神のあわれみによるのであって、イエスがわたしたちのかわりに贖いをされた事によるのです。

ラビの言葉に、「ある者は1時間で神の国に入り、ある者は一生かかってやっと入る」と言うのがあるそうですが、今日の福音は、神は全ての人を神の国へと招いておられ、信仰に後先はないことを物語っています。

司祭の言葉 9/13

※20200913 年間第24主日A年

許しの限界

                   司祭 鈴木 三蛙
今日のテーマは許しの限界についてです。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回許すべきでしょうか。7回までですか?」イエスにこの質問をしたとき、ペトロはお褒めの言葉を大いに期待していたと思います。

日本のことわざにも「仏の顔も三度まで」というのがあります。どんなに温和な人でも顔を撫でられて気持ちのいいはずがありません。やめてよ‥というでしょう。コロナの今の時代ならなおさらです。それを三度も撫でられたら、どんなに温和な人も怒り出すというわけです。

ユダヤのラビの言葉にも、次のように言われているそうです。「ラビのヨセ・ベン・ハニナは言った。隣人から許しを3回以上乞うことはできない。」ですから、ペトロは自分を寛大な人間だと思っていたことでしょう。ラビの許しの倍許し、さらにもう一回加えているのですから。でもイエスの言葉は7の70倍許しなさいというものでした。それは際限なくということです。そしてたとえをもってその根拠が示されます。一万タラントンを許された者が100デナリンオンの負債のある仲間を許さなかった・・。1デナリオンを労働者の日当1万円と仮定するなら、1万タラントンはその同僚の負債の60万倍でしたから、6000億円にあたります。べらぼうな額です。

このたとえが示すのは、私たちは神の子の命というべらぼうな額によってあがなわれているということです。贖われている‥それはキリストによって買い取られ、その所有とされたということです。キリストの所有となったのですから、私のすべてはキリストのものであり、キリストの聖心に沿って行動することが求められているという事です。

パウロがローマの教会への手紙の中で、「生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです」といっているのは、まさにこのことです。「私たちは主の僕であり、主の聖心を生きるのだということです。「私たちの中には誰一人自分のために生きるものはなく、誰一人自分のために死ぬ人もいません。」借金を帳消しにしてもらった家来は、王の心を生きるべきだったのです。

私たちが人を許さないのは、自分がべらぼうな値によってあがなわれたものであるということを意識していないことによります。自分はキリストの命によってあがなわれ、キリストの僕となったのです。だからキリストの思いを自分の思いとして生きる・・・そのことを改めて黙想してはいかがでしょうか。

司祭の言葉9/6

※20200906年間23主日(A年)

         困難な問題の解決


                   司祭 鈴木 三蛙
 今日のカ所をお聞きになってどのように感じられましたか?・・・ 教会の誕生はペンテコステの後ですし、言われている内容も教会の規約のようで律法的です。取税人や異邦人について言われていることも疑問に感じると思います。
 イエス様自身、「徴税人や罪人の仲間」と言われたほどですし、この後の21章の31節では祭司長や民の長老たちに向かって「徴税人や娼婦たちの方が貴方たちより先に神の国に入るだろう」と言っているのですから。さらに疑問を大きくするのは、赦しには限度があるかのように言われていることです。今日のお話の後に、7の70倍まで許しなさいと言われたイエスさまが、このようなことを言うはずがないのです。ではこの個所はどう理解したらよいのでしょうか。様々な理由から、ここに記されているとおりの言葉はイエスさまが実際に言ったのではなく、後年、教会が、懲戒処分を規約に盛らなければいけなくなった時に、イエスさまが言われた何かの言葉を適用したのだろう・・というのが、神学者たちの理解です。イエスの言葉を正確に記録したとは言えないでしょうが、イエスの発言に由来していると考えられるというのです。
 一昔前になりますが、神奈川県のある施設で職員と園長の間に溝が生じました。2年後、神奈川県独自に付いていた補助金2000万がカットされるというのです。それは人件費4〜5名分にあたります。それで園長は、「今後、園の行事計画などは、勤務時間内で処理するようにしてほしい。残業手当は出せなくなるから」と言いました。職員は説明してほしいと思いましたが、園長は相手が判ってくれるだろうと思いました。
 説明が足りずボタンの掛け違いでずっと来たため、職員たちは組合に入りました。説明不足で行動すると、誤解が生じやすくなります。その時両者の間に入って、溝の原因がどこにあるのか2回ほど、3人で話を聞きました。どちらかを裁くためではなく、こんがらかったヒモを解きほぐすために。
 だれかが自分に対して罪を犯した時には直接あって本人に話すべきですが、個人的に会っても目的が達成されない時には、和解を助けるため第三者を連れてゆく。それでもだめなら問題を教会の、祈りと愛の交わりに持ってゆく。それでも実らなかった場合には異邦人か徴税人のようにみなす。・・ここはよく見なければなりません。救われる望みが無いかのように取られますから。
 イエスさまがそんな事を言うはずはありません。今日のパンフレットは「新しい神の民に属していない人」と言う意味であると述べています。それは、その人の心を愛をもって勝ちとるように、宣教の対象と考える・・と言う意味になります。
 この言葉を言いながら反省しています。私にとっては説教しにくいテーマです。自分に資格がないと感じますから。杉戸で14年来挨拶が返ってこない人がいました。じりつ村の設立当初の、反対運動の急先鋒だった方です。私の努力不足もあって、時間だけがたってゆきました。しかしあるとき、ご主人が亡くなって、弔問に行ってから、その方の態度が変わりました。挨拶が返ってくるようになったのです。時が解決したとも言えますが、教会の中ではどうでしょうか。
 教会の中でもいろいろな人間関係で悩むことがあると思います。でもその問題をできるだけ当人に直接話して、誤解を解き、早急に解決することが求められているのだと思います。
 さらに大切な言葉が記されています。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」イエス様はそうおっしゃいます。一人ではだめなのです。少なくとも二人いれば、そこには教会が存在するのです。そして、先に、私たちのために取り次いで祈っていて下さっている弁護者イエスが、ともに、そこにおられると言うのです。だから、困難と思える問題もイエス様とともに解決に向かう、そう信じることが出来ます。
 ここには聖体とみ言葉に加えて、もう一つの、キリストの現存の真理が語られています。


※2020.09.06 23th Sunday in Ordinary Time(A)
In the face of hard troubles
Fr. Suzuki, Michael Kunihiro
How do you feel about today’s Bible? The birth of the church was after Pentecost. Besides, this is legal matters just like rules inside our church. You may have doubt about what Jesus says on tax collector and foreigners. Jesus, in fact, was called “tax collectors or sinner’s companion”. He even says to the head of the priests or the elders of people “tax collectors and prostitute will enter into the kingdom of God earlier.” Moreover, what increases our doubts is his remark that his forgiveness of sins has a limit. It is impossible for Jesus to say that because he told us to forgive as many as 7 multiplied by 70 times. How should we understand this contradiction? Some theologist believe that when the church needed to introduce some disciplinary measures into the Covenant, they used some language. They say that part is rooted from what Jesus had actually spoken even though they are not accurately recorded.

A decade ago, a conflict occurred between the principal and the staff at an institution in Kanagawa prefecture. Kanagawa prefectural government informed they will cut their subsidy. The amount equals to labor cost of 4 or 5 stuffs. Then, he asked, “Finish preparing activity by the end of business hours from now on. We will not be able to provide overtime payment”. While the staff wanted to him to explain more, he thought they will understand. Because the explanation was not enough, they were still left misunderstanding him and joined labor union. If things are promoted with insufficient explanation, we cannot understand in the right way. I entered between the two to find what caused the trouble. Not to judge one of them but to untie a tangled knot.

When someone sins against you, you need to see and talk. If it fails, go to a third party for help. If it fails, bring the trouble to the church, communion of prayer and love. If it fails, treat them as if he is a gentile or a tax collector. We need to examine carefully here. It might give you the impression that he cannot be forgiven. Jesus cannot say that. According to today’s brochure it means they has not yet belonged to new God’s people. Therefore, we need to try to win his heart with our love in our faith in the Lord, Jesus Christ.

This is not a theme I can easily preach as I still feel sorry and criticize myself over a trouble. I confess that there was a faithful who would not answer to my greetings for fourteen years. He was the leader of opposition movement against founding Jiritu-mura, or independence village literally, from its foundation. I cannot say I made an enough effort in the long time that had already passed. I once made a call to express condolence after her husband passed away. One day, she changed her attitude and gave me a greeting back. It can be said the time has settled. I guess it is the same in church. We sometime are bothered with human relationship also here. We need to talk over the issue face to face, resolve our misunderstanding, and solve it as soon as possible.

Here are other essential words, “if two or three are gathered together in my name, there am I in the midst of them”. Jesus says he cannot be alone, a church will be among us if more than one of us is there. And we say that Jesus, the council will be there with us praying for us and interceding us. For this reason, we can believe even the problems looking difficult will be settled in Him. This is the truth of Christ’s presence as well as the Eucharist and words of the Lord.
(Translation: TK)

司祭の言葉 8/30

※2020年8月30日年間22主日A年(mt16:21~27)

聖ペテロ


                        司祭 鈴木 三蛙
 皆さんはペトロをどのような方とみているでしょうか。黒いひげを蓄えた、頭は少し薄くなり始めた、がっしりとした体格の、日焼けした浅黒い、朴訥なガリラヤの漁師。大漁に驚いてひれ伏し、湖上のイエスに驚きおびえどこまでもついてゆくと言いながら三度もイエスの弟子であることを隠す、しかし誰よりも早くイエスをメシアと公言した弟子。
 イエスはエルサレムを目指しています。そこは大王の都。メシアの君臨する場所。ペトロの夢は大きく膨らんでいたことでしょう。 「貴方はメシアいける神の子です」そう言いましたが、そのメシア像はユダヤ人たちが抱いていたメシア像そのものでした。そしてイエスとともに歩くうちにひそかに心に思うことがありました。イエスがメシアなら来るべき王国で、特別な地位につくことが出来るかもしれない。ガリラヤの漁師が、王の側近になる・・・。権力の中枢に立つ。
 その時受けたイエスの受難の予告。慌てたに違いありません。大きな声をあげ、イエスの言葉を遮り、わきへ引っ張ってゆき、それ以上語らせまいとしたのでしょう。
 そして受けた「サタン、引き下がれ」と言うイエスの、これまた激しい叱責。 ヒパゲー オピソー ムー サターナ Vade post me Satana。  「去りなさいサタンよ」  この言葉は荒野の誘惑のときの悪魔に、イエスが語った言葉でもあります。しかし、ペトロには悪魔のときとは違って「私の後ろに」が付け加えられています。
 イエスは漁師のペトロと最初に出会ったとき、「私についてきなさい」といっています。直訳では、「来なさいわたしのうしろに」です。弟子であるペトロはサタンのようにイエスの前に立ちはだからずに、イエスの後ろに回って従うべきだということでしょう。
 十字架に登るメシアを理解できずに、それは「とんでもないことだ」とのべたペトロは、イエスにとってサタンの誘惑なのです。荒れ野で石をパンに変えるようにとイエスにささやいたサタンは、今ペトロの口を通して、再び誘惑したのでした。
 当時のユダヤ人が待ち望んでいたメシアは十字架のもとに、むなしく殺されるような無力な敗北者ではありませんでした。 イエスをいさめるペトロも、ユダヤ人の常識や「人間の思い」から自由ではありませんでした。そのペトロはイエスをいさめ、「あなたはわたしの邪魔をするもの」としかられてしまいます。原文ではスカンダロンscandalum「つまづき」と言う言葉が使われています。
 ペトロが天の父のものとなって発言するときには「幸いだ」と祝福され、人間の思いにとらわれたときには、「つまづき」とされ、「サタンひきさがれ」と叱られます。 人間的な栄光を求めるとき、サタンの誘惑に陥ってしまいます。ペトロは弟子のあるべき場所「イエスの後ろ」に立ち、十字架に向かって、前を行くイエスに従うべきなのです。

司祭の言葉 8/23

※2020年8月23日春日部年間第21主日A年 
(→English)

名前のこと


                     司祭 鈴木 三蛙
 NHKが去年から放映していた日本人のお名前と言う番組があります。名前のルーツ由来を探るもので多くの方がご覧になっていると思います。ちなみにスズキの名前の由来は、和歌山の方言で、稲わらを保存するわら塚(スズキ)だとか。
 聖書を読みますと神との出会いの中でアブラムはアブラハムと呼ばれるようになり、ヤコブはイスラエルと名前を変えています。またイエスとの出会いの中で、シモンはペトロ、サウロはパウロと名前を変えています。これらにあやかってでしょうか、カトリックでは洗礼を受けると、洗礼名をもらいます。新しい名前をいただくことによって、その洗礼名の聖人の、信仰に習うものとなるように・・・という意味があります。キリスト教の国では、ヨーロッパだけではなくロシアにおいても、洗礼名の聖人の祝日を盛大に祝います。また、修道院でも誕生日はお祝いせず、洗礼名の祝日をお祝いします。春日部教会の守護の聖人は聖テモテです。その祝日はいつかご存知ですか?シモンがペトロと呼ばれるようになったように、皆さんの洗礼名についても意味があると思います。そして、その祝日はいつでしょう。 
 今日の聖書のみ言葉は、ペトロの信仰告白について語ります。ペトロはガリラヤ出身で、シモンともケファともシメオンとも呼ばれています。シメオンが本来のへブル的な形で、エルサレムの教会ではこの名で呼ばれています。シモンは、シメオンがギリシャ化した名前で、多くの場所では親しみを込めて、このシモンという呼び名が使われています。ヨハネの福音書では、その召し出しのときすでに、「あなたはヨハネの子シモンであるが、これからはケファと呼ぶことにする」・・・とおっしゃっています。ケファは当時の話し言葉アラム語で、岩という意味です。ギリシャ語ではペトロとなります。当時の人は自国語とギリシャ語と両方を話しましたから、このあとは、新旧の名前をいっしょにし、ヨハネではシモン・ペトロとつづけて呼ばれることが多くなります。 
 面白いのは今日のマタイ福音書では、ヨハネの子ではなく、バルヨナ・・すなわち「ヨナの子」と呼ばれていることです。ヨハネは「主は恵み深い」という意味ですが、ヨナは「鳩」といういみです。ペトロは嵐の中に現れたイエス様を見て水の上を歩いて行こうとしますが、強い風が吹くと慌ててしまい、沈みかけてイエス様に助けを求めます。また、モーセとエリヤがイエス様に現れたのを見た時には、ここに三つの幕屋を建てましょう・・などと、訳も分からず口走ったりします。また、最後の晩餐の夜には、捕まるのを恐れ、イエス様を知らないと三回否むことになります。そこでイエス様は、ペトロがいつも鳩のようにおくびょうで、いつもばたばたしているのを見て、ヨナの子とおっしゃったのかもしれません。そして、これからは岩のように動じない信仰の持ち主になりなさい、そうおっしゃりたくて岩という名前をくださったのではないでしょうか。 
 さて今日のみ言葉のうちとても大切な質問に目を向けてみましょう。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」 
 この質問のあとには、互いに顔を見合わせ、一瞬沈黙が続いたことでしょう。
 そのときペトロが口を切り、偉大な告白をしました。そして十字架に向かうイエスは今、少なくとも弟子のひとりが、ご自分を、メシア、神の油注がれたもの、生ける神の子として認めていることを知ることができました。 
 ここで注意すべきことは、イエスの質問はあなたに向けられ、あなたはわたしをどう思うかと問われているということです。ピラトがイエスに、【あなたはユダヤ人の王か】と尋ねたとき「あなたがそういうのは、自分の考えからか、それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」と答えられました。 
 人は、今日までイエスに対して述べられた教えをことごとく知り、イエスに対する偉大な思想家神学者の意見をことごとく理解したとしても、それでキリスト信者とはいえません。キリスト教の信仰は、イエスについて知ることではなく、イエスを知ることです。 
 イエスの「あなたはわたしを何者だというのか」と問いかけは、私たちの、一人一人に向けられているのです。あなたはどうこたえるのでしょうか。 

※2020.08.23 21th Sunday in Ordinary Time(A)
      Names
               by Rev. Fr. Suzuki, Michael Kunihiro
There is a program A name of a Japanese that NHK has been broadcasting since last year. I think that many people watched this program which follow the origin of their name. The name Suzuki, for instance, is derived from the Wakayama dialect, which means Suzuki, a mall which store rice straws.

When we read the Bible, Abram came to be called Abraham in the encounter with God, and Jacob was renamed Israel. In the meeting with Jesus, Simon changed his name to Peter and Saul changed his name to Paul. Perhaps because of these, Catholics receive a baptismal name when they are baptized. A new name is given in the prayer of learn from a saint’s faith. In Christian countries, not only in Europe but also in Russia, what is celebrated is the day of their saint’s holidays. Also, in the monastery, we do not celebrate holiday of each but celebrate the holidays of the baptismal name given. The patron saint of Kasukabe Church is Saint Timothy. Did you know its holiday? Just as Simon came to be called Peter, the baptismal name is meaningful. And when is his holiday?

Today’s Bible words speaks of Peter’s confession of faith. Peter is from Galilee and is also known as Simon, Kefa and Simeon. Simeon, in its original Hebrew form, is known as the name in the Church of Jerusalem. Simon is the Greek name of Simeon, and in many places the name Simon is used affectionately. The Gospel of John already said at the time of the calling, “You are Simon son of John, but from now on I will call you Kefah.” Kefa is the spoken language of the time in Aramaic and means rock. In Greek, it is Peter. Since people at that time spoke both their native and Greek languages, the old and new names were often used together in John, like Simon Peter.

What is interesting is that in today’s Gospel of Matthew he is not called “son of John” but called “Baryona”, or “the son of Jonah”. John means “the Lord is gracious,” but Jonah means a “dove.” Peter tries to walk on the water when he sees Jesus appearing in the storm, but when the strong wind blows, he panicked, be drowned and asked Jesus for help. Also, when we see Moses and Elijah appear to Jesus, he confessed and said “we will build up three tabernacles here…” Also, on the night when they had the last supper, He got afraid to be caught and he refused three times to confess that he knows Jesus. So, Jesus may have said he was the son of Jonah as he saw Peter always fluttering like a pigeon and flapping. I believe Jesus gave him the name “rock” in the hope that Peter have a firm belief and be strong as rock.

Now let us turn to the particularly important question in today’s Word. “So, what do you say I am?”

After this question, there would have been a moment of silence, looking at each other.
Then, Peter broke and made a great confession. And Jesus, who will go to the cross, now knows that at least one of his disciples knows himself as the Messiah, the anointed of God, the Son of the Living God.

The point to note here is that Jesus’ questions are addressed to you and you are asked “who do you say I am”. When Pilate asked Jesus, “Are you the King of the Jews?” he answered, “Did you say that from your thoughts, or did other people tell you about me?” 

Even if one knows all the teachings they learned about Jesus to this day and all the views of the great thinker or theologian studying Jesus, it is not enough. Christian faith is not about knowing about Jesus, but about knowing Jesus.

Jesus’ question, “Who do you say I am?” is asked to each of us. What do you confess to him?
(Translation:TK)

司祭の言葉 8/16

※2020年8月16日 年間第20主日A年
(→English)

カナンの女と子犬


                   司祭  鈴木 三蛙
 今日のみ言葉は、カナンの女のおはなしです。イエスがティルスとシドンの地方に行ったとき、女はイエスが来たと知ると、「ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめいられています。」と叫びます。でも、「イエスは何もお答えにならなかった」とあります。「何で?」と思いませんか? そして弟子たちはと言えば、うるさいからと追い払おうとするのです。これまた薄情だと思いますよね。さらに引っかかるのは「子供たちのパンをとって子犬にやってはいけない」ということば。犬呼ばわりですよ。これがイエス様の言葉・?と思ってしましませんか。
 まず、カナンに来たいきさつから見てみましょう。今日の個所は21節からですが、15章の初めには、エルサレムから来たパリサイ人と律法学士たちが、イエスの弟子たちが先祖からの言い伝えを守らないことについて、論争を仕掛けています。その前の章ではパンの奇跡と、休むために対岸に行かせたが嵐にあったというお話でした。
 イエスの弟子たちもイエスもかなり疲れていて、本当に休みが必要で、パリサイ人、律法学者たちの偽善に辟易して、足の塵を払うような形で、ユダヤから離れたところでした。
既成宗教に対して足の塵を払ったイエスは、私たちの教会に対しても、もし辟易したら、足の塵を払われるかもしれません。
 ここで一つの言葉に注目したいと思います。「子犬」です。相手を犬呼ばわりするときには、そこに強い侮蔑の意味がこめられます。でも、この子犬という言葉には優しさと愛情が含まれているのです。
 指小辞(ししょうじ)‥という言葉をご存知でしょうか。ある言葉につけて、小さい、かわいい、という意味をあらわす言葉です。今、セウイの台所のわきに野良猫が子猫を生んでいて、時々姿を見つけるそうです。かつて、やはり物置に野良猫が子供を産んだことがありますが、子猫はすばしっこく、決してつかまりませんでした。犬も野良犬は恐ろしいし、その子犬も歯をむき出して威嚇してくるでしょう。人間を犬と呼ぶのは致命的な侮辱でした。そのような犬呼ばわりは、犬はごみをあさる不潔な動物という印象でしたが、ここに出てくるのは、そのような犬ではないのです。ギリシャ語で犬はキュノスですが、ここではこの指小辞が使われていて、キュナリオンなっています。飼い主のところに愛情込めて飼われている子犬という感じです。イエス様は、いわば、愛情込めて「子犬ちゃん」と呼んでいるいうところでしょうか。
 訪れた異邦人の地、あるいはそこに信仰を見出そうとしたのでしょうか。イエスはカナンの女の信仰を試します。イエスの厳しい言葉にも彼女は耐え、娘をいやすことのできる方はこの方を置いてはいない・・その確信をもって、「子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」とこたえます。
 カナンの女は、はじめイエスをダビデの子と呼んでいます。世俗的な呼びかけですが、あとからは信仰をもって「主よ」と呼び掛けています。
そしてイエスは彼女の信仰に応え、娘の病気をいやしたのです。

※2020.08.16 20th Sunday in Ordinary Time(A)
      Canaan woman and puppy
                     by Rev. Fr. Suzuki, Michael Kunihiro
Today’s scripture is the story of a Canaan woman. When Jesus went to the provinces of Tyre and Sidon, the woman found that Jesus had come and shouted, “Children of David, have mercy on me. My daughter is terribly suffering from evil spirits.” But, “Jesus did not answer anything.” Don’t you think “Why?” The disciples even try to get rid of her because she asked much. Isn’t it merciless? There is another part that catch our attention. “Don’t take children’s bread and give it to a puppy.” A puppy? Is this the word of Jesus? 

First, let us look at how He came to Canaan. Today’s story starts from chapter 15, verse 21, but at the beginning of chapter 15, the Pharisees and teachers of the law from Jerusalem challenged that Jesus did not keep the traditions of their ancestors. In the previous chapter, I told you about the miracle of bread and that He was sent to the opposite bank to take a rest, but there was a storm.

Both Jesus’ disciples and Jesus were very tired, they really needed a break, and were away from Judah. Because they were so sick of the hypocrisy of the Pharisees and the scribes that they dust their feet.

Jesus, who dusted and left the established religion, might do so our church if he was tired of us. Anyway,I would like to focus on one word here. “Puppy”. When you call your opponent a dog, there is a strong sense of contempt. But the word puppy includes kindness and affection.
Do you know the word syshoji diminutive suffix? This is a word attached to a word to mean small and cute. Stray cats lay beside Sewi’s kitchen, and we sometimes find them around. In the past, a stray cat had given birth to a child in the storeroom, but the kitten was quick and never caught. Dogs and stray dogs might be terrifying, and the puppies would be barking and threatening. It was a fatal insult to call a human a dog. It gives me the impression that a dog is a dirty animal that scavenges garbage, but it is not such a dog I told now. In Greek, the dog is Kynos, but this sishoji is used here to become a Kunarion. That sounds like a puppy who is loved by the owner. Jesus is lovingly calling him “puppy” isn’t it?

Did He try to find faith in the land of the Gentiles He visited? Jesus tests the faith of the Canaan woman. She endures Jesus’ harsh words, and no one can heal her daughter… With that assurance, “a puppy will eat breadcrumbs falling from her master’s table,” she replied.

The woman of Canaan first called Jesus the Son of David. It is a secular way of calling, but afterwards she called Him “Lord” with faith.

And in response to her faith, Jesus healed her daughter’s illness.

司祭の言葉 8/9

※2020年8月09日 年間第19主日A年

「私だ エゴ、エイミ」

                     司祭  鈴木 三蛙
 ウイズコロナと言われている今日、三密を避け、何とかミサを行っていますが、お年寄りは教会にもこれません。命を守る行動が求められていて、お盆の帰省の時期ですがお年寄りに移さないように、帰省も控えねばなりません。心細い今こそ子供たちにそばに来てほしいと思いますし、お孫さんたちもじいじ、ばあばのところへ遊びに行きたいとおもっている。だから、孫を連れて行って喜ぶ親の顔が見たいけど、万が一うつしてしまったら・・そう思うと帰省できないとの決断をします。今年はどれほど多くの人がそのような決断をしたことでしょう。

 今日の福音をお聞きになって、どこが一番気になるでしょうか。イエス様が水の上を歩いたことでしょうか?そしてどのような現象なのだろうと考えたりしませんか?今の時代はすべてを科学的に分析して、納得いく答えを見つけようとします。未知のものに出会うと、それをとことん研究して、納得して、安心するのです。そのような試みは、水の上を歩くイエスについて、いくつかの答えを出しています。でも今日は、イエス様の一つの言葉に注意を向けたいと思います。

 今日取り上げたいのは、「私だ」という言葉です。弟子たちはイエスに促されて対岸を目指し、湖に漕ぎ出しました。でも、この湖特有の突風にいなってそのような弟子たちのところへイエスが近づき、いるはずのないイエスの姿を湖上に見つけ幽霊だとおびえます。
 そのときイエスは「私だ」といい、弟子たちは胸をなでおろすのです。この言葉は、出エジプト記の芝の章で、モーセにご自分をあらわされた主が、その御名の啓示として言われた言葉と同じ言葉です。その時主は「わたしは在るというものだ」とおっしゃったのですが、それはギリシャ語で「エゴ、エイミ」ということばです。そこには二つの意味があって、私は誰からも創られず存在する・・という意味と、私はいつもあなたたちと共に在る・・という二つの意味があるのです。神の救いの歴史はまさに、「私はあなたたちと共に在る」ということを具体的に示してきた歴史でした。そして今恐れおののく弟子たちに、「私だ」といったとき、主が語られた言葉は「エゴ、エイミ」でした。「私はあなたとともに在る、恐れるな」と語りかけたのです。
 いま私たちは弟子たちのように、得体のしれないコロナによる恐れのただなかにいるのではないでしょうか。コロナは目に見えず、薬も治験の途中でまだ出来上がっていません。でも、恐れる私たちにも主は「私だ」私はあなたと共に在る・・とおっしゃって下さるのです。
 エゴ、エイミ この言葉を心にとめ、この難局を乗り切ってゆきましょう。共に主を大きな声で賛美できる日を待ち望みながら。

司祭の言葉 5/10

※5月10日(日)復活節第5主日

私は道 司祭 鈴木 國弘 

 福音はヨハネによる福音の14章1節から12節。イエスが弟子たちに「あなた方のために場所を用意しに行く、その道をあなた方は知っている」と言い、トマスが「どうしてその道を知ることが出来るでしょうか」尋ねる箇所です。このときイエスは「私は道だ」とおっしゃいます。

教会にいると時々、教会までの道順を尋ねられることがあります。

春日部駅からですと、西口に出て駅を背にして藤通りをまっすぐに歩いて、右手にジョナサン、左手に歯医者さんのある信号のない十字路を左折。そのまままっすぐ歩いてくると左手に「たいらや」と言うスーパーが見えたら、その手前右側が教会です。そう説明すればたどり着けるでしょう。

 しかし、「道を聞いてそのとおり歩いたけど目的地にたどり着けなかった」と言う経験もおありだとおもいます。

 皆さんの中に歩いているときに道を聞かれ、ただ教えるだけではなく道案内をして連れて行ってあげたことのある人はおられますか?

 最近は家電売り場など大きな店が多くなりました。どこに何があるのか探すのに苦労しますが、でも、場所を聞いたときに、その場所まで案内してくれる店も多くなりました。そんな時はとてもうれしいですね。

 もし道を尋ねられた人が「わたしがご案内いたしましょう」と言うなら、その場合案内をしてくれる人はわたしにとって道であり、わたしが道に迷うことはありえません。これが、イエスがわたしたちにしてくださったことなのです。

 イエスは単にわたしたちに助言や、指示や、忠告を与えるのではありません。イエスは手ずからわたしたちを導き、わたしたちと主にあゆみ、そしてわたしたちを個人的に日ごとに強めてくださるのです。イエスは道について語りはしない。イエス自身が道なのです。私たちも同じようにできたらいいですね。

 皆様の上に、主の祝福がありますように。アーメン、アレルヤ

司祭の言葉 5/17

※5月17日(日)復活節第6主日A年(ヨハネ14章15-21節)

司祭  鈴木 國弘

 主の平和!! 皆さんいかがお過ごしでしょうか? 三密にならないようにするために、小さいお子さんをお持ちのご家庭は、とくにご苦労なさっていることと思います。14日さいたま教区の中で、茨城、栃木、群馬は新型コロナウイルス感染予防のための緊急事態宣言が解除されましたが、埼玉県はいまだその最中にあります。

先週間違って31日までと書いてしまったのですが、教区が公開ミサを禁止しているのは5月30日までです。間違いをお詫びします。緊急事態宣言がそれまでに埼玉県も解除されれば、公開ミサ禁止の延長はなくなり、31日には聖霊降臨のミサが出来るかもしれません。その時には密にならないような工夫が必要になるでしょう。特に春日部教会は信徒数が多いので、ミサに集中しないようにするためには分散しなければなりません。小生は、そのためにはもう一回ミサを増やすしかないと考えています。皆さんのお知恵を拝借したいと思います。

2011年、東日本大震災の後川越少年刑務所へ行きましたときに、受刑者たちの中から「神様がいるなら、どうして今回の大震災と大津波のような出来事がおこるのですか・・・」と言う質問がありました。 「なぜ?」・・その疑問に対する答えはすぐには見つかりません。今回の新型コロナウイルスの世界的流行もそうですが、きっとわたしたちがこの困難を克服したときに、答えが見えてくるのではないでしょうか。

今回のコロナウイルスによる被害は世界中を震撼させています。テレビには、街から人影の消えた世界中の様子が日々放映され、その恐ろしさを共有していますが、でも心強いのは、世界中が知恵を尽くし、この未曽有の災害を克服すべく立ち上がっていることです。行政もそうですが、特にお医者さんや看護師、医療関係者の皆さんは、死と隣り合わせの中で命を守るために懸命に戦っています。

わたしたちはこの世界をどのように感じているでしょうか。 わたしたちは自分の人生の中で、愛に反する現実をたくさん経験してきています。暴力、裏切り、無関心などなど。しかし、わたしたちの人生はそれらに覆い尽くされているわけではありません。愛の体験も必ずあるはずです。今回の新型コロナウイルスのパンデミックを通じても、見えてくるものがたくさんあると思います。企業も自営業の方々も、自粛の要請に応え、倒産失業の恐怖に耐えながら、感染者を広げないために、命を守るために、ぎりぎりのところで頑張っています。多くのボランティアもその愛のすばらしさを見せています。

 さて、今日の福音の中心にあるのは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(18節)という力強い約束です。そして、別の弁護者が約束されています。

神の名は YHWH(わたしはある)と言う名でモーセに示されましたが、ここに

三位一体の神の役割分担が見えます。「わたしはある」・・と言われた神は、私たちを創造し、あがない、永遠にともにおられる・・のです。

聖霊は「別の弁護者」と呼ばれています。ヨハネの第一の手紙2章1節ではイエス様ご自身を「弁護者」と言っていますから、聖霊を「別の弁護者」と呼んでいるのです。 ヨハネ福音書が書かれた1世紀末、キリスト者は完全にユダヤ教から排斥され、ローマ帝国はキリスト教を激しく迫害していました。イエス様のこの約束の言葉が、人々を勇気づけていたことと思います。そして、ヨハネ3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉はとても深く心に響いたことと思います。イエス様と聖霊がともに弁護者として私たちを助けて下さるのですから、フィリッピの信徒へ宛てた聖パウロの言葉を思い起こしながら、勇気をもって共に困難に立ち向かってゆきましょう。

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリッピ人への手紙4章13節) 

皆様の上に神様の祝福がありますように。

司祭の言葉 5/24

※2020年5月24日(日)復活第7主日A年

主の昇天    司祭 鈴木 國弘

 春日部教会の皆さんお変わりありませんか? さいたま教区では司教様が次の対策を準備中です。25日に政府の発表がありますから、そのあとになると思いますが、発表され次第皆さんの手元にお届けいたします。ミサが開始されたらどのようにクラスター対策をするか、教会で考えをまとめておくことが大切です。どうぞ役員の皆さんにご意見をお寄せください。

24日は主の昇天の祝日です。

 NHKの番組ぽつんと一軒家では、空中から地球を眺め、森などの中にポツンと見える一軒家を尋ねてゆきますが、カメラはぐんぐん地表に近くなり、その家や周りの外観をとらえて、その場所を探しにゆきます。

ご昇天のイエス様の目から見ればその逆で弟子たちの姿はだんだん小さくなってゆくのでしょう。でも私たちの目から見るイエス様はどうなのでしょう。

皆さんは空を見上げるのはどのような時ですか?子供のころ縁日などで買ってもらったゴム風船が、大切に持っていたはずなのに、突然スーッと手を離れて空の方に登って言った経験。それをあーっと手を伸ばしても、ぐんぐん上の方に登って行ってしまったのを、ただ残念に思いながら見送った経験はありませんか?

 空を見上げていた弟子たちも、大切なものが傍を離れて行ってしまって、手が届かなくなり、ただ見送っていたと言う感じなのかもしれません。

ひとむらの雲がイエスを隠したとあるのは、神の「栄光」のうちに入られたことを雲という言葉で示しています。旧約聖書では神の栄光は雲の中に表現されています。そして、 天は「場所」ではないのです。だからでしょうね、「何故天を見つめて立っているのか」と言われたのは。聖書では 神の栄光・・・それは神の卓越性を示しています。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
わたしたちはその栄光を見た。

大切なのはイエスが去られたことではなく、イエスが神の栄光を示されたことです。そして神もまたイエスに栄光を与えたのです。その、神の栄光とは、神の愛そのもの。 

 神の栄光はエジプト脱出の時、もえる芝の中にあらわれ、シナイ山では、もえる炎の中から律法を書き記した板を頂きました。その火は神の栄光であり、その栄光は神のご自分の民に対する途方もなく大きな愛でした。そして、その愛は、新約に於いて、キリストの誕生と、十字架、復活を通して現れ、その昇天を持って完成するのです。
 その天に昇られた主は、わたしたちの中に住まわれます。教会だけが祈りの場所ではありません。一人一人はそれぞれ聖なる宮を携えているのです。わたしたちはそのことを、その宮に入ることを忘れてはいませんか? 今日はそのことをもう一度思い起こす日です。