司祭の言葉 5/25

復活節第六主日 ヨハネ14:23-29

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。」

主イエスが、「最後の晩餐」で弟子たちにお語りになられたおことばです。実は、このおことばに続けて主は、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せです。主がお与えくださる「平和」とは、いかなるものなのでしょうか。

冒頭の主イエスのおことばの直前に、主はわたしたちに、「弁護者、すなわち父がわたしの名によって遣わされる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と、十字架を間近に控えて、ご自身の死の後、「主の名によって遣わされる聖霊」が、主に代って、主が約束された一切のことを成就してくださると、仰せになっておられました。

そうであれば、「主イエスがわたしたちにお与えくださる平和」とは、「主の名によって遣わされる聖霊によってわたしたちに成就される平和」に他なりません。しかし、ここでは、なぜ、「聖霊」のことを、ことさらに「弁護者」と呼ばれたのでしょうか。

「弁護者」。新約聖書のこの言葉は、「(人を助けるために)傍らに呼ばれた方」と言う意味から、助け主、介添人、介護者、保護者とも訳されてきました。興味深いことに、聖書で「復活する」という言葉は、主イエスご自身、さらに初代の教会の言葉、つまりユダヤの言葉やギリシャの言葉では、「起き上がる」ないし「立ち上がる」と言う自動詞よりも、「倒れた人を抱き起こす」、「弱った人を助け起こす」さらに「傷ついた人を介抱する」と言う他動詞として、日常使われていた言葉でもありました。

十字架の主イエスのご復活。その日、主のみ前のわたしたちは、弱り果て、傷つき倒れ、死んでさえいたのではなかったでしょうか。そのわたしたちのみ前に、ご復活の主は、傷つき倒れていたわたしたちを助け、介抱してくださる方として、さらに主のみ前に命を失ってさえいたわたしたちを大切に抱き起こし、いのちを与えてくださるただ一人の「助け主」として、お立ちくださったのではなかったでしょうか。

この「助け主」としてのご復活の主キリストのお姿。それは、主イエスが十字架の後にわたしたちに、主の名によって遣わされる「弁護者」すなわち「助け主」である「聖霊」のお姿とそのお働きと、明らかに一つです。むしろこの「助け主」なる「聖霊」こそ、時と所を越えてつねにわたしたちとともにいてくださり、わたしたちの真実の「助け主」であり続けてくださる「ご復活の主キリストご自身」ではないでしょうか。

先に見たように、「主イエスがお与えくださる平和」は、「聖霊による平和」です。その際、「聖霊」こそ、目に見えない「ご復活の主ご自身」です。したがって、「聖霊による平和」とは、「ご復活の主からの平和」に他なりません。ここで、改めて、その「平和」あるいは「平安」とはいかなることなのでしょうか。

「平和」ないし「平安」と訳されている言葉は、主イエスの話されたユダヤの言葉では「シャローム」、ギリシャの言葉では「エイレネー」です。皆さんお気づきのように、実は、このおことばこそ、ご復活の主ご自身が、最初から、かつ常に、そしてくり返し弟子たちに語りかけられたおことば以外の何ものでもありません。

ご復活の主キリストは、「シャローム」(エイレネー)と弟子たちに語りかけられた上で、「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」。「シャローム」(エイレネー)とは「大丈夫」、「わたしがいるから大丈夫」との意味です。このおことばこそ、ご復活の主を疑い、怯えさえしていた弟子たちへの主の深い慰めのおことばです。

ミサ。それは、主イエスから、ご聖体において「聖霊」を受けさせていただく時。今、わたしたちの前には、「助け主」である「聖霊」によって、「助け主」・ご復活の主キリストご自身が、お立ちくださっておられます。わたしたちに両手を広げて、わたしたち一人ひとりをご自身の胸に抱きしめてくださるために。その御手には十字架の傷跡。その御胸には十字架の槍の跡。わたしたち一人ひとりのための。

わたしたちをご自身の胸に抱きしめ、「シャローム(エイレネー)、わたしがいるから大丈夫だ」と仰ってくださるご復活の主キリストが今、わたしたちの前にお立ちです。

「わたしはあなたがたに平和を残し、わたしの平和を与える」との主イエスの約束のおことばを、わたしたちはミサにおいて、「主の祈り」に続く「教会に平和を願う祈り」の中で、ご聖体を拝領する前にいつもお聞きしています。わたしたちはミサの度に、主のこのおことばにひたすら頼って、ご聖体を拝領していると言っても過言ではありません。主のこの赦しと励ましのおことば無しに、ご聖体において主のいのちである「聖霊」をいただくことは、わたしたちにはできないからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 5/18

復活節第五主日 ヨハネ13:31-33a、34-35

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「互いに愛し合いなさい」と主イエスは仰せです。主は続けて「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」「わたしがあなたがたを愛したように」と、愛はつねに具体的です。主の愛は、わたしたちに体験されている事実です。ただし、そのことを福音はどのように語っているのでしょうか。

復活節も第五の主日を迎えました。教会がご復活の主イエスとともに、間近に迫った主のご昇天、さらには聖霊降臨の祝いへと歩みを進めているこの時、今日の主日の福音は、あらためてわたしたちに主の十字架を想い起こさせます。

今日の福音は、「さて、ユダが(晩餐の広間から)出て行くと」と語り始めていました。実は主イエスは、「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(ヨハネ13:21)と、すでにユダの裏切りを予告しておられました。そして、今日の福音に続きます。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。』」(ヨハネ13:31)

ユダの裏切りによって、主イエスご自身が、さらに主において父なる神が「栄光」をお受けになると主は仰せでした。「栄光」とは、いかなることなのでしょうか。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる」とのおことばに続けて、(今日の福音朗読では省略されていましたが、)実は、主は次のように仰せです。「あなたがたはわたしを捜すだろう。(しかし、)『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない。』」(ヨハネ13:33b) ここで主は、ご自身の「栄光」を、ユダの裏切り、むしろその神的帰結である主の十字架の死にはっきりと結びつけておられます。

十字架において現わされる「栄光」。ふたたび、「栄光」とはいかなるものなのでしょうか。「栄光」。それは、「聖なる神の輝き」です。ただ、主イエスが話しておられたユダヤの言葉では、日本語で「栄光」と訳された言葉は、古くは「重さ」と言う意味であり、したがって「重いもの」を意味する言葉でもありました。

そうであれば、この時、十字架の死を間近に控えておられた主イエスにとって、父なる神からお受けになるべき「栄光」つまり「重いもの」とは、十字架以外には考えられません。

ただし、それだけではないと思います。先の主日の福音の内に、主イエスは「わたしの父がわたしにくださったもの(つまり、わたしたち)は、すべてのものより偉大であり(価値がある、すなわち「重い」)、だれも父の手から奪うことはできない」(ヨハネ10:29)と仰せになっておられました。さらに、主は、エルサレム入城直後の神殿での説教を、次のように結んでおられました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32)

父なる神が御子キリストによって現わされる「栄光」。それは主イエスの十字架の後、復活された主のご昇天の際に、父なる神が、ご昇天の御子とともに天に引き上げてくださる皆さん一人ひとりの「いのちの重さ」、皆さんに本来神から与えられ、主の十字架とご復活よって回復された「いのちの重さ」です。さらには、「聖霊」によって再び聖(きよ)められる皆さん一人ひとりの「いのちの重さ」でもあります。

「神の栄光」。それは、わたしたちのために主イエスが負い抜いてくださる十字架の重さです。同時に、主が十字架の死とご復活により回復してくださり、さらに昇天された主による天の父なるもとからの聖霊の注ぎによって聖(きよ)められ、ご復活とともに生かされるわたしたちの新しい、永遠のいのち輝きと重さでもあります。

「神の栄光。」 主イエスは、今日の福音を、次のおことばで結んでおられました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

主イエスは、聖霊によってわたしたちのいのちが「愛」で満たされることを願っておられます。「愛」とは、抽象的なものではありません。主のわたしたちに対する「愛」は、具体的な事実でした。主は、わたしたちの重い十字架を負い抜いてくださり、わたしたちに神から与えられた本来のいのちの重さを回復してくださいました。

主イエスがわたしたち一人ひとりにしてくださったように、わたしたちもわたしたちの隣人の重い十字架をともに負い、隣人の命の重さを敬い、ともにいのちの与え主であられる神に感謝する。主がわたしたちを愛してくださったように、わたしたちも互いに愛し合うとは、このことではないでしょうか。ただしそれは、聖霊の助けなしには成し得ないことです。しかし、聖霊を求める所、そこには必ず愛が成就します。愛こそ「聖霊」の結ぶ実だからです。そして、聖霊を求める所。それがミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 5/11

復活節第四主日 ヨハネ10:27-30

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠のいのちを与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

ヨハネによる福音は、この主イエスのみことばが、エルサレム神殿奉献記念祭に、神殿で主の弟子たちとユダヤ人たちに語られたことを伝えていました。「そのころエルサレムで神殿奉献記念祭が行われた」、そして、その時は「冬であった」、と。

ユダヤではハヌカと呼ばれるこの祭りは、紀元前2世紀の始め、当時の大国シリアの王によって蹂躙され汚されたエルサレム神殿を、紀元前164年のキスレイの月に、ユダ・マカバイが再び聖別し、新たに神に奉献したことを記念し、毎年同月に8日間にわたってエルサレムで盛大に祝われていました。ユダヤ月キスレイは、現在の11月から12月に当たり、「冬」の季節の祭りです。しかし今日の福音が、福音の語るこの時を事更に「冬であった」と語るのには理由があるはずです。

実は、ヨハネによる福音は、主イエスが、この祭りの最中に、はっきりとユダヤ人たちに拒絶され、主に対する彼らの殺意が露わになったことを伝えています。事実、この後福音は、エルサレム郊外のベタニヤで、主がマルタとマリアの兄弟ラザロを死から命へとよみがえらせてくださったことを伝えた後、直ちに、過越祭の最中にエルサレムで起こった、主ご自身の死と復活へと語り継ぎます。

福音が語るように、確かに時は「冬であった」と言うべきです。信じがたいことに、神の聖名の置かれた神の宮エルサレム神殿の再聖別と再奉献が記念されている最中に、しかもその「神殿の境内」で、「神殿の主・神なるキリストご自身」が、彼の民によって拒絶され、死へと定められました。この時、「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。」主イエスとわたしたちすべてに対して、「冬」を耐えがたいまでに厳しくするのは、明らかにわたしたちの罪です。

今日の福音の直前に、主イエスは、彼をメシア・キリストとして受け入れないファリサイ派の人々に対して、すでに次のように仰せでした。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証している。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」

その上で、主イエスは、「主の羊」、すなわち主を信じる者たちへの、今日の福音のおことばをお語りになられました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠のいのちを与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

続けて主イエスは、今日の福音を、次の驚くべきおことばによって結ばれます。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父は一つである。」フランシスコ会訳聖書では次のようです。「父がわたしにくださったものは、他の何ものよりも価値があり、だれもそれを父の手から奪い去ることはできない。わたしと父とは一つである。」

「父がわたしにくださったもの」とは、父なる神が、御子キリストに託された人々、つまり主を信じる者たちのことです。彼らを主イエスは、「他の何ものよりも価値がある。」それゆえ、彼らを「だれからも決して奪わせない」と仰せです。主は、大切な彼らをご自身のいのちに代えても守り抜いてくださるといわれるのです。

わたしたちは、その彼らがわたしたちのことであって欲しいと切に願います。主イエスに対する懺悔の心をもって。ただし、主にとって、彼らがわたしたちのことであれば、これは驚くべき主のみことばです。わたしたちは到底、主ご自身のいのちを賭してまで大切に守られるに値するものではないからです。しかし、もしそれが父なる神のみ旨であり、天の父なる神が御子キリストに求めておられることであれば、主はご自身を犠牲にしてでも、ご自身のいのちに代えて、このわたしたちを守ってくださる。なぜなら、「わたしと父は一つである」と主は言われる。事実、主イエスは、後にご自身の十字架において、わたしたちにその通りにしてくださいました。

実は、今日の福音に先立って、すでに主イエスはご自身を「羊飼い」、しかも「良い羊飼い」にたとえて、次のように仰せになっておられました。

「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる。」

わたしたちは、今このミサで、「良い羊飼い」・十字架のキリストを記念しています。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 5/4

復活節第三主日 ヨハネ21:1-19

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、ペトロ始め主イエスの弟子たちを、ご復活の主が「三度目」にお訪ねになられた次第を伝えていました。驚くべき事に、ご復活の主の「三度目」のご訪問にもかかわらず、ペトロたちは、最初、主を認めることができませんでした。

そのようなペトロたちに、復活の主イエスは、かつて彼らが、ガリラヤ湖畔で主から召し出しを受けた時(ルカ5章)とまったく同じように、この度も彼らに、夜通しの不漁にもかかわらず、夜明け方に主のご命令に従って再び網を打った時、網一杯の魚が与えられたと言う「湖の奇跡」を繰り返してくださいました。それで、ようやく、ペトロたちは、「だれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである』と、今日の福音は伝えています。

これは、いったいいかなることなのかと、首をかしげたくなるような事態です。改めて、ご復活の主イエスが、主のご復活を疑うトマスを、わざわざ訪ねてくださったことを伝えた、今日の福音に先行して語られた先の主日の福音を思い起こします。

トマスも、当初、主イエスのご復活を信じられませんでした。しかしご復活の主は、疑うトマスをそのままに放っては置かれませんでした。主のご復活から八日目、ご復活の主は、主のご復活を疑い続けるトマスのみ前に立ち、彼に仰せになりました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

このご復活の主イエスに、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」とお答えしました。この時トマスは、ご復活の主の前に、悔い崩折れる他なかったと思います。そのトマスを、ご復活の主は大切に抱き起こしてくださいました。十字架の釘跡の残る御腕で、槍で刺し貫かれた傷跡の残る主のみ胸の内に。それが、主のご復活です。

主イエスのご復活を、すぐには認められなかったのはトマスだけではありません。今日の福音が伝えるように、くり返しご復活の主のご訪問を受けながらも、主のご復活を確信できなかったペトロ始めすべての弟子たちをも、ご復活の主は忍耐強く、「三度」、すなわち、くり返し訪ねてくださいました。わたしたちすべてが、最早二度と主のご復活を疑い得なくされるまで。それが、今日の福音です。

今日のヨハネによる福音は、さらに続けて、ご復活の主イエスが、ペトロたちとの「三度目」の出会いの中で、「パンを取って弟子たちに与えられた」直後に、主がペトロに仰せになられた、大切なおことばを伝えていました。

「食事が終わると」と、福音は語り続けます。「イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です』と言うと、イエスは、『わたしの子羊を飼いなさい』と言われた。」

ちょうど、ご復活の主イエスが、ペトロを「三度」訪ねてくださったように、この時、主は、「わたしを愛しているか」というまったく同じ問いを、「三度」重ねてペトロに問われました。その時、「ペトロは、イエスが三度目も『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」とさえ、福音は伝えています。

しかし、「三度」訪ねて、ペトロをして主イエスのご復活をもはや疑い得ない者とされたご復活の主は、さらに、「三度」重ねてペトロに明らかにしておかなければことがありました。それは、ペトロにとって、「キリストを愛する」ことは、「キリストの子羊を飼うこと、主の羊の世話をする」ことである、と言うことです。

そして、ペトロにとってそのことは、彼の命をかけての主イエスと教会への奉仕を意味することでした。主は、ペトロへのおことばを、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現わすようになるかを示そう」とされて、次のように結んでおられます。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、・・・年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

「主イエス・キリストを愛する」とは、ペトロにとって、主と彼だけの内輪の関係に終始することではなく、「主の羊の世話をする」ことであり、愛ゆえに「主のためにいのちを捨てる」ことは、「主の教会のために自らの命を捧げる」こと。そのようにしてペトロは、主イエスによって「主の教会の礎」とされると言うことです。

「疑い深い」と言われたトマスに、ご復活の主イエスは、「わたしの神、わたしの主よ」との最も尊い信仰告白のことばをお与えくださいました。同じように、主のご復活を「三度」疑ったペトロが、主のご復活を二度と疑わなくなるまで「三度」重ねて訪問された上で、彼を「主の教会の礎」としてお立てになられたのです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 4/27

復活節第2主日 (神のいつくしみの主日) ヨハネ20:19-31

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしの主、わたしの神よ。」

主イエスの十二使徒の一人トマスが、ご復活の主日から八日目の当に今日、彼を訪れてくださったご復活の主イエス・キリストご自身に、深い懺悔、そして畏れと感謝をもって告白した、彼の信仰のことばです。彼のこの信仰のことばは、今に至るまで、すべての時代、全世界のキリスト者の信仰告白のことばであり続けています。

聖トマスは、「わが主よ、わが神よ」との彼の信仰のことばとともに、二千年の教会の歴史を通して記憶されてきました。しかし、トマスは最初から信仰者の模範というべき人であったという訳ではなかったようです。最初はむしろ逆であったともいえます。トマスは、弟子たちの間で、「ディディモ」と呼ばれていました。これには「双子」に加えて、「疑い深い」と言う意味もあるのです。それには、理由があります。

わたしたちは、先の主日を、主イエス・キリストのご復活の主日としてお祝いいたしました。主は十字架におつきになられる前に、弟子たちに三度、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」と仰せになっておられました。このおことば通り、主は十字架に死に、そして三日目に復活されました。

その復活の主日の後、昨日までの一週間、わたしたちは毎日の礼拝で、ご復活の主イエスが、最初にマグダラのマリアに、続けて十字架のもとにまで主に従い続けた婦人たちに、さらにペトロたち主の弟子たち一人ひとりにお会いくださった次第を、喜びと感動、そして畏れをもって、福音からていねいにお聞きし続けて参りました。

ただし、ご復活の主イエス・キリストは、今日までトマスにだけはお会いなっておられませんでした。なぜでしょうか。今日の福音が伝えているように、ご復活の日の夕方、主が他の弟子たちをお訪ねになられた時、トマスは、そして彼一人だけが、彼らと一緒にいなかったからです。トマスは、主イエスのご復活を疑っていたからです。

ペトロがトマスに、「わたしたちは、週の始めの日に、確かに主に、ご復活の主にお目に掛かった」と熱く語った時も、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とさえ応えていました。

さて、ご復活の日から丁度一週間後の今日、ペトロ始め主イエスの弟子たちは再び集まりました。トマスも今日は一緒でした。ご復活の主日と同様に、主は八日目の今日再び、弟子たちを訪ねてくださいました。ご復活の主イエスは、今日はとくにトマスにお会いくださるために来てくださいました。主はトマスに仰せになりました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

ご復活の主イエス・キリストのこのおことばに応えて、トマスの心の底から絞り出されるようにして語りだされた言葉こそ「わたしの主、わたしの神よ」でした。疑い深いトマスでした。主のご復活の約束を、さらにその事実をも疑っていました。しかし、トマスは、最早これ以上疑い続ける訳にはゆきませんご復活の主イエスご自身が、今、弟子たちのただ中に、そしてトマス自身の目の前に立っておられるからです。

その時、トマスは主イエスのみ前に悔い崩折れる他無かったと思います。今日まで疑いの内に自らを閉ざしていたトマス、主の十字架の下に蹲り続けていたトマスを、主は大切に抱きしめ、抱き起こしてくださいました。十字架の釘跡の残る主の両の御腕で。槍で刺し貫かれた傷跡の残る主のみ胸の内に。それが、主のご復活です。

「ディディモ」と呼ばれたトマスのように、主イエスを「疑う」こと、神の遣わされた主を信じ切ることができないことを、聖書では罪と言います。この罪の帰結は死以外にはありません。神を疑い続ける限り、人は真実に生きることはできないからです。神を疑う者は、結局は自分自身も疑い、誰をも信じることはできず、したがって、誰とも信頼しあい、愛しあい、望みをもって生きることはできないからです。すなわち、神を疑う者は、神と人とに対して死んだ者である他ないのです。

しかし疑うトマスを、主イエスはそのままにしてはおかれません。ご復活の主イエス・キリストは、彼を、神と人との前に決して死んだままにしてはおかれません。トマスだけではありません。実は、二度もご復活の主のご訪問を受けながら、なお主のご復活を疑ったペトロ始め主の弟子たちを、ご復活の主イエスは忍耐強く、「三度」訪ねてくださいました。わたしたちすべてが、最早二度と、主のご復活を疑い得なくされるまで、十字架のもとに蹲っていたわたしたちすべてが、主に抱き起こされ、主とともに主のご復活のいのちに歩み始める者とされるまで、主は忍耐強くわたしたちを訪ね続けてくださいます。それが今日の福音です。

「わたしの主、わたしの神よ」。 ご復活の主が、皆さんとともに。 アーメン。

司祭の言葉 4/20

復活の主日・日中のミサ ヨハネ20:1-9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエス・キリストのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアは、主のおからだが納められた墓を訪ねました。しかし、その墓の内に、主を見つけることは出来ませんでした。ヨハネによる福音は、そのように伝えています。

主イエスにもう一度お会いしたい。主への切ないほどのマグダラのマリアのこの一途な思い。しかし、訪ねた主の墓が空であった時のマリアの驚きと落胆。それは、皆さんもよくお分かりになると思います。

しかし、「その時」と、ヨハネによる福音は、続けて、マグダラのマリアとご復活の主イエスご自身との驚くべき出会いを伝えます。

マリアが「空の墓の外に立って泣いていた」「その時」、彼女は、「マリア」と彼女の名を呼ぶ声を聞いたのです。忘れもしないその声に、マリアは即座に、彼女の言葉で主イエスに、「ラボニ」と、お応えしました。「わたしの先生」と言う意味です。

「わたしの先生」。この短い言葉にマリアの逸る心を感じます。ふたたび見(まみ)えることができたご復活の主イエス・キリスト。主に縋りつきたい。しかしこの時、主はマリアに、「わたしに縋りつくのはよしなさい」と仰せになりました。なぜでしょうか。

マグダラのマリアだけでは無いと思います。実は、気付かないままにわたしたち一人ひとりも、「わたしの」思いの中に、「わたしの」小さな愛の中に、「わたしの」願いの中に、主イエスを求め続けて来たのではなかったでしょうか。

しかしご復活の主イエスは、逆にわたしたちが、「主の」内に、「主の」深い願いの内に、「主の」大きな愛の内にわたしたち自身を見つけることを求めておられます。

主イエスは、エルサレムに最後に入城された直後、神殿での説教で人々に、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と、仰せになっておられました。

このみことばで主イエスは、ご自身の十字架に続くご復活が、聖霊による主ご自身の新しいいのちの始めであるとともに、主の十字架によって主に結び合わされたわたしたち自身の復活のいのちの始めでもあることを、語り示しておられます。そしてそのことを、復活の主イエス・キリストの使徒パウロは次のように語っています。

「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。・・・あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1-4)

ご復活の主イエス・キリストが、マグダラのマリアに、「わたしに縋りつくのはよしなさい」と仰せになられた時、主は、続けて次のように念を押しておられました。「わたしは、まだ父のもとへ上っていないのだから。」(ヨハネ20:17)

ご復活の主イエスは、決してご自分だけが「天の父のもとに上っていないのだから」と仰っておられるのではないと思います。ご復活の主のいのちとともに、マリアの命も、まだ天の父のもとに高く上げられていないのだから、ということです。

しかし、ご復活の主イエスが天の父のもとに高く上られる時、必ずやマリアの命も主とともに、主によって天に高く抱き上げられ、主のご復活のいのちと一つとされます。ただしそれは、マリアが、ご復活の主に「縋りつく」ことによってではありません。ご復活の主キリストが、マリアを「抱き起こし、抱き上げる」ことによってです。

実は、主イエスがマリアと話された『聖書』の言葉では、「復活する」とは、死んだ者、倒れた者が、一人で立ち上がると言う意味の自動詞ではありません。(倒れた者、死んだ者を)抱き起こし、抱き上げる」という意味の他動詞です。主は復活された。それは、倒れ死んでいた主イエスが生き返ったと言うだけではありません。むしろ、倒れ死んでいたのはマリアの方です。そのマリアを、あるいは倒れているわたしたち一人ひとりを、主が抱き起こし、抱き上げてくださる。それが主の「復活」です。

わたしたちのために十字架につかれた主イエス・キリストは、主の十字架のもとに、なお蹲(うずくま)ってしまうわたしたちのために復活してくださるのです。主のみ前に倒れているわたしたちを、死に打ち勝った主の力強い御腕で抱き起こし、さらに高く抱き上げてくださるために。十字架の傷跡のある主の御腕で。

ご復活の主イエス・キリストが、皆さんとともに。  アーメン。

司祭の言葉 4/20

復活の聖なる徹夜祭 ルカ24:1-12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアと数人の婦人たちは、十字架の後に主のおからだが納められた墓に、香料を携えて訪ねました。彼女たちが墓に着いた時、神は「輝く衣を着た二人の人」を通して、彼女たちに声をかけてくださいました。マグダラのマリアたちが、「恐れて地に顔を伏せる」と、「二人の人」は、彼女たちに次のように告げました。

「なぜ、生きている方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

ルカによる福音は続けて、「二人の人」のこのことばを聞いたマグダラのマリアたちについて、次の二つのことを伝えています。「その時、婦人たちはイエスのことばを思い出した。」さらに、彼女たちは、「墓から帰って、十一人(の使徒たち)とほかの人皆に、一部始終を知らせた。」後に、彼女たちが「使徒たちへの使徒」と呼ばれるようになるのも、理由の無いことではありません。

さて同じ時の出来事を伝えるマタイによる福音は、マグダラのマリアたちに、主なる神は「主の天使」を通して、「恐れることはない」と告げられたと伝えています。

(マタイ28:1-10)

「恐れることはない」。マグダラのマリアたちは、この時、何を「恐れた」のか。主イエスが納められたはずの墓が空だったことでしょうか。主を失った後の彼女たちの生の不安でしょうか。ルカが伝えるように、「恐れて地に顔を伏せた」マリアたちは、彼女たちに、今、お会いくださっておられる神を「恐れた」のです。そのマリアたちに、それゆえ、神はおことばをおかけくださったのです。「恐れることはない」

しかし、このわたしは、どうなのか。「恐れて地に顔を伏せ」、神に「恐れることはない」と言っていただかなければならないほどに、神を「恐れて」いるでしょうか。果たしてそのように神を、そして神のみを、恐れて生きてきたといえるでしょうか。

第二次大戦中、スイスのある司牧者が、クリスマスの説教をいたしました。その題は『恐れることはない』。この題は、主イエスの誕生を予告する天使ガブリエルが、主の母とされるマリアさまに告げた「マリア、恐れることはない」ということばから取られました。これはドイツのナチの軍靴の響きの中で、恐怖と不安に心が動転している人々に向けて語られた説教でした。彼は、この説教を次の言葉で結んでいます。

「もし、わたしたちが真に神を、神のみを恐れるならば、わたしたちは神以外の一切のものに対する恐れから自由になる。しかし、もし神を、神のみを恐れることがないならば、わたしたちは、真の神以外の一切のものを恐れて生きるほかはない。」

もし、神から「恐れることはない」とのみことばを聞かせていただくことがなければ、「神を恐れる」と言うこと自体に、思いも及ばなかったようなわたしでした。その結果、「神を恐れる」という、人として最も大切なことを忘れたままに、神を信じるとは言いつつ、現実には、取りとめのない不安と神以外のあらゆるものに対する恐れの中で、生涯を空しく過すことになってしまったかもしれませんでした。

愛してやまなかった主イエス。頼りにし切っていた主の十字架の死。主のご復活の朝早く、神から「恐れることはない」とのみことばを聞かせていただくその時までは、あるいはマグダラのマリアたちの心を占めていたのも、神への恐れというよりも、彼女たちのこれからの生の不安と、さらには主を失った彼女たちを取り巻くすべてのものに対する恐れであったかも知れません。

しかし、今、神への恐れの内に、神以外の一切のものへの恐れから解き放たれたマリアたち。マタイによる福音は、「神を恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」彼女たちの「行く手に、ご復活の主イエスご自身が立っておられた」と伝えます。その時、「イエスの前に、恐れひれ伏した」マリアたちに、主は言われました、「恐れることはない」

神のみを「恐れる」者から、神は、神以外の一切のものへの恐れを取り除いてくださいます。そして、この神こそ、主イエスにおいて、すでにわたしたちに親しくお会いくださっておられた方。十字架に至るまで、わたしたちを愛し抜いてくださった方です。この方が、今、わたしたちの前に立っておられる。それが、主の復活です。

「マリア、恐れることはない。」マグダラのマリアだけではありません。これは皆さんお一人おひとりへのご復活のキリストからの愛と慰めと励ましのおことばです。

「恐れることはない。」 ご復活の主が、皆さんとともに。 

司祭の言葉 4/18

聖金曜日・主の受難 ヨハネ18:1-19:42

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

昨晩のミサで、わたしたちは主イエスと十二弟子たちとの「過越の食卓」「最後の晩餐」を記念いたしました。続く今日、わたしたちは、十字架におつきになられた主のもとに集まり、「信仰の神秘」を記念します。しかしなぜ、「信仰は、神秘すなわち秘跡」なのか。信仰とはわたしたちの心の問題ではないのでしょうか。

ところで、「最後の晩餐」の時のことです。主イエスはペトロに、「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」と仰せになりました。ペテロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためには命を捨てます」と、主にお応えしました。その時のペトロの気持ちに偽りはなかったと思います。しかし、このペテロに主は、「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と、冷淡とも言えるおことばを返しておられました。

わたしたちは神を信じるという時、何を思うでしょうか。聖書において、「神を信じる」とは、極めて重い言葉です。それは、神に自分自身を委ね切ってしまうこと、さらには、神に自分自身を一切明け渡してしまうこと、捧げつくしてしまうことです。すなわち、「信仰」とは、わたしたち自身を神に「奉献」することです。つまり、聖書において「神を信じる」とは、近代人が考えるように、神の存在を知的に承認するというようなわたしたちの心の問題などではなくわたしたちの身を神に捧げること、です。

ペテロは主イエスに、「主よ、あなたのために命を捨てます」と申し上げました。それが、「主よ、あなたを信じます」ということなのです。事実、ペテロは後に主のために命を捨てます。ペテロの主への「信仰」は、彼の心の内の確信ではなく、彼の殉教によって成就します。ただし、それは主のご復活の後、聖霊の導きによってです。

しかし、「主の受難日」の今日、わたしたちが目撃するペテロの姿はどうでしょうか。今日に限って言えば、ペテロは、自分を主イエスに委ね切って、主とともに十字架につくことはできませんでした。そのように主を信じきることはできませんでした。しかし、そこには命はありません。主を離れて、命はないからです。主イエスが、主とともに十字架につけられた一人の人に「神の国」を約束されたように、主とともに十字架につけば、じつに、そこに永遠のいのちがある、神の国があるのです。

しかし、受難日の今日、わたしたちが目撃した事実とは、驚くべき事に、ペテロではなく、じつに主イエスの方が、ペテロのためにご自身のいのちを捨てられた、そのように主がペテロを信じた、という事実ではなかったでしょうか。

主イエスを信じきれず、主に自分の命を差し出し切れない今日のペテロ。そのペトロに対して、主の方がペテロにご自身のいのちを捧げ切ってくださった。そのようにして、主の方が、ペテロを「信じ切って」くださったのです。信仰とは、奉献であると申しました。実に、わたしたちが自らを主に捧げきれない中で、先に主イエスの方がわたしたちにご自身を捧げきってくださったのです。わたしたちが主を信じる前に、主がわたしたちを信じてくださったのです。それが、主の十字架です。

「主の受難日」の今日、これが、福音が伝える主イエスとペトロの間に起こった事実です。「信仰の神秘」。福音において明らかにされた「信仰」とは、「神秘つまり秘跡」・神の自己奉献のみわざとして神がわたしたちに成就してくださった神の事実です。今日、主の十字架のもとで記念するのは、この驚くべき神の恵みの事実です。

「信仰の神秘」。「神秘すなわち秘跡」。それは、わたしたちの思いを超えた神のみ業です。それは、理屈ではありません。今日のペトロのように、主イエスを信じ切れずに疑い、従って主のために命を差し出しきれないわたしたち。主のために死に切れないわたしたち。そのわたしたちのために、主の方が十字架の上でご自身の御血の最後の一滴に至るまで注ぎ尽くしてくださった。そのようにしてまで主はご自身を捧げつくしてくださった。十字架の死に至るまで。それが、信仰の神秘です。驚くべきことです。しかし、これは神が、事実なさってくださったことです。また、ご聖体の秘跡として、ミサの度ごとに神がわたしたちになさってくださる事実です。

「信仰の神秘」「秘跡である信仰」とは、わたしたちが頭で神の存在を確信すると言うような事でも、心の内に主の十字架を偲ぶというようなことでもありません。信仰とは、わたしたちの力を越えた主イエスの事実です。信仰とは、救い主キリストが十字架において、わたしたちにご自身を捧げてくださった恵みの事実です。

この主イエスに、わたしたちは感謝を以ってわたしたち自身を捧げさせていただく。これ以外に、主にお応えする道はありません。それがわたしたちの「信仰」、神へのわたしたち自身の「奉献」です。主イエスの方がわたしたちに先立ち、わたしたちにご自身を、ご自身の御からだと御血を、捧げ尽くしてくださったからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/17

主の晩餐の夕べのミサ ヨハネ13:1-15

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

聖木曜日。主の晩餐の夕べのミサを祝う度に、かつて、わたしが英国で、ユダヤ人の友人の家庭の春の「過越の祭」の食卓に招かれた時のことを思い出します。

ユダヤの人々は、古い仕来りのままにユダヤ暦ニサンの月の14日の過越の晩、家族ごとに食卓に集います。家長のブドウの盃による祝福によって過越の祭儀は開始され、詩編の朗詠に続き、今日お聞きしたのと同じ出エジプトの物語が朗読されます。続いて、家長はパンを取り、感謝の祈りを捧げた後、パンを裂き、一同に配ります。その後、食事の終わりに、再度、家長からのブドウの杯による祝福を以て、過越の祭の食卓は閉じられます。ルカによる福音が正確に伝えている通りの順序です。

ユダヤ人の友の家庭で過越の祭の食卓に加えていただき、福音書の伝える主イエスと十二人の弟子たちの過越の祭の食卓、「最後の晩餐」の様子を心に思い浮かべていた時、ふと、わたしたちが囲んでいる家庭の過越の食卓の、いちばん大切と思われる席が空席であることに気付きました。ユダヤ人の友によれば、それは、待ち望んでいるメシア・キリストのために、大切に空けてある席だとのことでした。

それを聞いて、ああ、ここには主イエス・キリストがいらっしゃらないのだなと、それまでの感動に代えて、突然一切が虚ろにさえ感じられた事を覚えています。

しかし、今、わたしたちが祝っているこのミサは、違います。わたしたちの過越の食卓の主は、メシア・キリストご自身です。ただし、それは決して自明のことではないのです。これは、ユダヤの人々にとっては、今なお待ち望んでいる出来事なのです。

主イエスご自身が、ご自身の過越の食卓にわたしたちをお招きくださった。この驚くべき出来事を、ヨハネによる福音は、食事の前に主ご自身が弟子たちの足を一人ひとり洗ってさえくださったというさらに驚嘆すべき事実をもって語り始めます。

ミサ、すなわち主の過越の祭りの食卓は、そのようにして始められたのです。

それだけではありません。主イエスの過越の食卓で、わたしたちのために裂かれるパンとわたしたちのために注がれるブドウ酒。それは、主イエスご自身です。じつに主ご自身の御からだと御血です。マルコによる福音は、次のように伝えます。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしのからだである。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」

これが、主イエスと弟子たちの過越の食事。これが、主とわたしたちのミサです。

ユダヤの人々のみならず、わたしたちも悩みや苦労の多い人生で、救い主キリストをひたすら待ち望んできた日々があったのではないでしょうか。救い主のために食卓を整えて待っていても、いつもその席が空席のままのような、長く虚ろな時間に疲れてしまったことが、かつての皆さんにもあったのではないでしょうか。

しかし今日は違います。このミサは、主イエスご自身がわたしたちのために整えてくださった食卓。ルカの福音によれば、「イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過ぎ越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた』。」 

食事の前に、一人ひとりの足をご自身で洗ってくださるほどに、救い主キリストご自身が切に願ってくださっておられた、主ご自身とわたしたちとの過越の祝い

長い間、わたしたちは自分の願いの中に救い主を求めて来ました。しかし今、このミサでは、主イエスご自身の切なる願いの中にわたしたちが招かれています。

主イエスのわたしたちへの切なる願い。それは、ご自身のすべてを、ご自身の御からだ、ご自身の御血の最後の一滴に至るまで、わたしたちにくださること。それは、わたしたちを神の国の食卓に招き、ご自身のいのちに生かしてくださるためです。

救い主キリストを待ち望んできたわたしたちの願いに先立ち、わたしたちをご自身の愛の内に、ご自身のみ国に招き入れたいとの主イエスの切なる願いが、すでにわたしたちに向けられていたのです。そして今、わたしたちはこのミサで主ご自身の限りなく深い願いの中に、強く、優しく、また確実に抱きしめられてよいのです。

救い主キリストのわたしたちへの切なる願いに抱かれて、今、わたしたちは、このミサ、メシア・キリストご自身の食卓で、「神の国への過越」を祝っています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/13

受難の主日(枝の主日)ルカ23:1-49

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

灰の水曜日から受難の主日までの間、福音にお聞きしながら四旬節を歩んで参りました。それは、ちょうど、主イエスに伴い、主とともに、福音に語られた多くの人々との出会いを重ねた旅のようでもありました。

主イエスの出会われた一人ひとりの辿ってきた人生は異なっていました。その中には、主に出会い、主を信じ、主に自分たちを委ねていった多くの人々がいました。しかし、主のみことばを聞き、主のみ業に与りながらも、なお主を疑い、主を神の子キリストとして受け入れることができなかった人々もいました。

あるいは、今日のルカによる福音23章の語るエルサレムの群衆のように、一度は主を救い主キリストと歓喜の声を以って迎えたにもかかわらず、その同じ週の内に、その同じ主イエスを、十字架につけよ、と叫び出した人々もいました。

これらの人々の内、いったい誰がこのわたしなのでしょうか。じつのところ、その一人ひとりすべてがわたしである、ないしわたしであった、というべきかもしれません。

ご復活の主イエスの使徒パウロは、「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であると信じることはできない」(一コリント12:3)と告白しています。その通りだと思います。わたしたちが、主を信じさせていただいているというのであれば、それはひとえに、聖霊なる神の恵みであり、聖霊の御導きに他ならないと思います。

たとえば、わたしは、仏門に生まれ、若い時に仏教の修行をさせていただいた者です。キリスト教とは縁もゆかりもなく生まれ育ったわたしが、手探りのような歩みの末、今、現に主イエスを神なる主キリストと信じさせていただいているということは、これは神の聖霊による導きによるとしか言いようのないことです。

実際、主イエスを疑わず信じさせていただくことは、わたしたちにはとても重い事です。聖書においては、主なる神を疑うことを罪といいます。神なる主キリストを疑うのは、主を心底から信じることができないからです。言い換えれば、主なる神キリストに自分を委ね切ることができないと言うことです。アダムとエヴァのごとく、いつでも逃げられるように神と自分との間に距離を置く。それが、罪です。

主イエスの時代のファリサイ派の人々が、そうでした。彼らは、旧約の時代を通して約束されていた救い主キリストを、熱心に待ち望んでいた人々です。しかし、彼らは主にお会いした時に、彼を神の子キリストと受け入れることができませんでした。主を信じ、自分たちを主に委ねることができませんでした。主を疑ったからです。それを、罪というのです。主は、それを本当に悲しまれたに違いありません。

そのようなわたしたちのただ中で、わたしたちのために黙々と十字架を負って歩まれる主イエス。四旬節の間中、主とともに、福音の語るたくさんの人々に出会い続けてきた中で、わたしたちは、じつはわたしたち自身に、同時に主ご自身に、出会わせていただいて来たのではないでしょうか。主を信じ切れず、主を疑うわたし。主に自分自身を委ね切れないわたし。そのようなわたしのために、わたしの罪、わたしの惨めさを一身にご自身の十字架として背負い抜いてくださる主イエス・キリスト。

主イエスを信じきれず、したがって主に捧げる何物も用意できなかったわたしでした。しかし、主は、そのわたしのために、十字架の死に至るまで、ご自身の一切を、ご自身の御からだとその御血の最後の一滴に至るまで与え尽くしてくださいました。十字架の主こそ、わたしの疑いの罪を破り、信仰をお与えくださった唯一の神です。

信仰の神秘。それは、主イエスご自身が、罪なるわたしに信仰をお与えくださった、主ご自身がわたしの「信仰」となってくださったということです。神を信じきれず、神を疑うわたしが、神を信じさせていただくには、それしかなかったのです。主の十字架。ここに初めて、かつ最終的に、わたしたちの神への疑いが破られ、神を信じ、わたしたち自身を神に委ね切る、神に自己を捧げて生きる新しい命が、わたしたちの身の事実とされた。「信仰の神秘」。「神秘」すなわち「秘跡」とは、神のみ業です。

ミサでいただくのは、わたしたちの「信仰の神秘・秘跡」である主イエス・キリスト、十字架においてご自身を父なる神とわたしたちに捧げかつ与え尽くしてくださった主の御からだと主の御血。「聖霊なる神」活ける主によらなければ、誰も「信仰」をいただくことはできないとパウロは教えていました。聖霊は、十字架の死を経て甦られた主ご自身のいのち、わたしたちを信仰に活かすご復活の主のいのちの息吹。

十字架とご復活の主イエス・キリストは、疑いの罪からわたしたちを解放し、自らを主に委ね切って主の内に真実に安らぐことをゆるす「信仰」を、聖霊の結ぶ実としてお与えくださいます。ご聖体において。「信仰の神秘・秘跡」。それが、ミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。