司祭の言葉 7/21

年間第16主日 マルコ6:30-34

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」

これは、使徒たちが主イエスから派遣された後、ふたたび「イエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」、その後のことです。しかし、これは一体、どういうことなのでしょうか。

主イエスは、十二人使徒を派遣されるに先立ち、ご自身で「町や村を残らず回」られた上でわたしたちが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」(マタイ9:35、36)、使徒たちを「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」わたしたちの魂の牧者として、魂の配慮・霊性の司牧のために派遣されました。このことは、先の主日にお聞きしたはずです。

しかし今日、マルコが語るのは、その後の人々の様子なのです。使徒たちがすでに宣教に遣わされたにもかかわらず、その後、「イエスは・・・、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」

あらためて、これは一体、どういうことなのでしょうか。わたしたちに対する使徒たちの魂の配慮・霊性の司牧が不十分だったのでしょうか。あるいは、問題はわたしたちの側で、わたしたちが主と使徒たちに期待していたのは、わたしたちへの魂の配慮と霊性の司牧ということではなく、何か別の「御利益」だったのでしょうか。

わたしたち信仰者の霊性のしるしとは何でしょうか?日本にカトリックが伝えられた475年前の1549年から数十年の間に、カトリックの人口は、その当時の日本の総人口500万中約50万人に達したとさえ言われます。現在の日本の総人口1億2千万中カトリック信者約40万と比べれば、けた違いです。何が、これほどに当時の日本人をカトリック(キリシタン)の信仰、キリストとの出会いの感動がとらえたのか?それは、日本人が初めて得た魂の自由であったという指摘があります。

「もし、わたしたちが、まことにして唯一の神を畏れるならば、神ならぬ一切のものに対する恐れから自由である。しかし、もしまことにして唯一の神を畏れないならば、神ならぬ一切のものを恐れて生きるほかはない」。これは、第2次大戦中、ナチの軍靴の響きの中でカール・バルトというスイス人の神学者によって語られた、実に勇気のある言葉です。そして、これは、いつの時代においても真実であると思います。

16世紀の多くの日本人にとって、主イエスとの出会いは、まさに、この「まことにして唯一の神」との出会いの体験であったはずです。唯一の神をのみ畏れ、神ならぬ一切のものに対する全く無用な恐れや、人や権威に対する「忖度」から解放された魂の自由。それは彼らに始めて経験され、自覚された霊性の発露と、主に在ってのその霊性の成長・成熟の予感に魂が打ち震えた時であったのではないでしょうか。

確かに、その後日本のカトリック信者方は長期に亘る厳しい禁教政策と弾圧を経験いたしました。しかし、明治初期の再宣教からすでに150年余の時が経過していることも事実です。先の主日、故岡田大司教さまが、さいたま教区管理者時代の司牧書簡から、さいたま教区の第一の課題は、司牧者および信者すべての霊的成長であるとの厳しいご指摘を再度思い起こしました。これは、第一にわたしたち司祭の責任です。主イエスに派遣された司牧者の第一の務めは、信者の皆さんの霊性の司牧、すなわち、皆さんの魂の配慮と霊性の司牧に奉仕することだからです。

もし、主イエスが、今、わたしたちを再度お訪ねになられたとしたならば、主がご覧になるのはいかなるわたしたちでしょうか。現在のわたしたちは、霊性の司牧のために主から遣わされた司牧者からていねいな魂の配慮を受け、秘跡、とりわけご聖体の秘跡であるミサを通して、主のみことばとご聖体に養われ、いただいた聖霊の恵みとそのお働きによって、健やかに、かつ豊かに整えられ、魂の全き自由の内に、十分に霊的に成長した、日本の誰にとっても魅力ある「主の民」でしょうか。

あるいは、未だ「飼い主のいない羊のような」「群衆」なのでしょうか。主イエスが司牧者を遣わされたのに、今なお、真実のご聖体の秘跡であるミサにおける聖霊の体験、すなわちご聖体の主イエスの内に、確実に力強く働かれる聖霊による魂の癒しと霊的成長の恵み、まさに魂の自由が体験されていないままのわたしたちでしょうか。そのようなわたしたちであれば、日本の誰に対しても魅力はありません。

「聖霊、来てください。」ご聖体の主イエスの内に、聖霊が、日本の教会、司牧者と信者の皆さんすべてに強く豊かに働いてくださり、主ご自身が、今なお「飼い主のいない羊」のようなわたしたちの真の魂・霊性の牧者となってくださいますように。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 7/14

年間第15主日 マルコ6:7-13

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスは、十二使徒たちをわたしたちに派遣してくださいます。それが、今日の福音です。しかし、なぜでしょうか?

ところで、マタイによる福音は、十二使徒の派遣に先だって、主イエスが、ご自身ですでになさった大切なこと、を伝えてくれていました。すなわち、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(マタイ9:35) 

ただしその際、主イエスは、残らず回られたすべての町や村で、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。(マタイ9:36) わたしたちのこの現実に対して、主は、十二使徒たちを派遣されます。

主イエスは十二使徒たちを、決して見ず知らずの土地の、見たことも聞いたこともないわたしたちのために派遣されるのではないのです。主が使徒たちを派遣されるのは、すでに主ご自身が「残らず回られた町や村」であり、そこで主ご自身が「深く憐れまれた」、他でも無い、わたしたちのためなのです。

そうであれば、主イエスが十二使徒を派遣される目的は極めて明快です。主は使徒たちを、「飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれている」わたしたちの魂の牧者として、わたしたちの霊性の回復と司牧のために派遣されるのです。

だからこそ、今日のマルコによる福音は、主イエスは、十二人使徒のわたしたちへの派遣に際し、「汚れた霊に対する権能を授け」られたと伝えます。汚れた霊に打ち勝つ権能とは、聖い霊の権威と力、すなわち「聖霊の権能」に他なりません。

主イエスは十二使徒の派遣に際して、彼らに聖霊を託された、すなわち主ご自身を、主の活けるいのちを託されたのです。主は、わたしたちの傷ついた魂の配慮と、わたしたちの魂・霊性の回復とその司牧に、ご自身のいのちをかけておられます

十二使徒の後継者は、司教方です。わたしども司祭は、この司教の代理者として、主イエスから各小教区に派遣されています。したがって、小教区担当司祭は、Vicar、すなわち(司教の)代理者」と呼ばれます。同時に、司祭は、主から託された「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人々の魂の司牧というべき任務から、Curate、すなわち(魂を)癒す者」・「(魂の)牧者」とも呼ばれます。

わたしたちの「魂の司牧」。それは、主イエスご自身の霊・聖霊にのみよることであり、叙階の秘跡を通して、司祭に特別に主から託された奉仕です。そしてそれは何よりも聖霊のみ業である秘跡において、とりわけご聖体の秘跡であるミサにおいてなされるべきことです。ミサこそ、主ご自身がわたしたち司祭を用いて、皆さんひとり一人にご聖体において聖霊をお与えくださる、まさにその時だからです。

主イエスご自身の霊・聖霊こそ、真のCurate、「癒し主」ご自身です。聖霊は、わたしたちの魂を癒してくださる、すなわち真の意味での魂の配慮をしてくださるのみならず、わたしたちを主の似姿へと霊的に成長させてくださいます。

故岡田大司教さまは、さいたま教区管理者時代の司牧書簡の中で、教区のすべての司牧者および信者の霊性の回復霊的成長こそ、教区第一の課題とご指摘になっておられました。霊性の成熟は、聖霊の働きの実りとして受ける以外に道はありません。したがって、「聖霊来てくださいVeni Sancte Spiritusと聖霊を求めてひたすら祈り、聖霊の恵みとご保護の内にミサにより深く与ることこそが、この課題の解決であることをわたしたちは今日の福音から確認させていただきたいのです。

あらためて、ご復活の主イエスと十二使徒の頭ペトロの対話を想い起こします。主は、三度ペトロに問われました。「わたしを愛しているか。」「主よ、わたしはあなたを愛しています」と、ペトロが三度主にお応えするたびに、主は彼にくり返し、ただ一つのことをお命じになられました。「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15-19)

なぜなら、主イエスは、ご自身ですでにわたしたちすべてを訪ねて、わたしたちが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」ことを熟知しておられるからです。主はこれほどまでに主の羊であるわたしたちの傷ついた魂のことを、その回復を、さらに魂、すなわち霊性の成熟を心にかけてくださっておられます。

だからこそ主イエスは、十二使徒たちの後継者である司教方、小教区におけるその代理者である司祭を派遣し、皆さんを主の聖霊の秘跡・ミサに招いておられます。この切ないまでの主のわたしたちへの思いの内に、今、ミサに与っています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 7/7

年間第14主日 マルコ6:1-6

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ルカによる福音は、主イエスが少年時代・青年時代を過されたナザレでのご様子を、「両親に仕えてお暮しになった」と、短く美しいことばで伝えています。神の子キリスト。ヨゼフさまから仕事を学ばれ、また母マリアさまを助けて、おふたりとともに汗を流して働いておられた主のお姿が瞼に浮かぶようです。

しかし、主イエスが、ナザレを後にされる時が来ます。洗礼者ヨハネから洗礼を受け、聖霊に満たされて、宣教のご生涯をお始めになられるためです。その後、カファルナウムを中心にガリラヤ地方で、「神の国の福音」を宣べ伝えてしばらくの時を経られた主イエス。主は、福音を携えて、故郷ナザレの村をお訪ねになります。それが、今日の福音です。

ナザレには、彼の訪問を待ち兼ねていたに違いない母マリアさま。さらに、かつては主イエスと村での生活をともにし、主と一緒に働いたであろう村人たちが、おそらくは期待といささかの戸惑いとともに、ある時、突然村を後にした彼を迎えます。

さて、ナザレでの安息日のこと。村の会堂にお入りになられた主イエスは、ガリラヤの他の村々でと同じように、故郷の人々に「神の国の福音」を宣べ伝えます。ところで、マタイによる福音は、先に、ガリラヤ湖畔で主の福音の宣教、いわゆる『山上の説教』を聞いた人々の様子を、次のように伝えていました。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」

人々は、主イエスに、律法学者には無い「権威」を認めました。「権威」とは聖書の言葉で、「存在そのもの、すなわち主ご自身から出で来たる力」、ないし「存在、つまり主ご自身を切り裂いて(犠牲にして)与えられるもの」を意味し、それは聖霊に他なりません。人々が主に「権威」を認めたという時、それは彼らが、主イエスの内に、主を通して人々に働く聖霊のみ力を認め、主を、ご自身の内に聖霊の働かれる方、すなわち彼らの主なる神・救い主キリストとして受け入れたということです。

このガリラヤ湖畔の人々のように、主イエスの故郷ナザレの人々も、「多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か』」と、当初は主のみことばとみ業に驚き、深く心を動かされます。

しかし彼らは、「待てよ」と、思い直します。そして、「『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、(ナザレの)人々はイエスに躓いた」、とマルコによる福音は伝えます。

主イエスに「躓いた」。彼らは、彼らの理解を超えた主を受け入れられず、したがって、彼に、キリストとしての権威を認めることができませんでした。すなわち、主の内に働かれる聖霊を認めることができず、主を、彼らの救い主・神なる主キリストとして、受け入れることができませんでした。

その時、主イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と仰せになられ、「そして、人々の不信仰に驚かれた」と、マルコによる福音は、主の故郷ナザレの村での体験を結んでいます。

ただし、これはナザレの人々だけの問題ではないでしょう。わたしたちも、同じ主イエスの前に、わたしたち自身が、さらにわたしたちの信仰が、問われていると思います。わたしたちも、主イエスにまことの「権威」を認めることができるか否か。言いかえれば、主の内に働かれる聖霊のみ力を認め、したがって主を、ご自身の内に聖霊の働かれる方、すなわち神なる主・救い主キリストとして受け入れることができるか否か。それが、今、このわたしに、問われています。

ナザレの人々が、主イエスにまことの権威を認めることを拒んだ時、彼らは主から聖霊を受けることを拒んだのです。それを、主は不信仰と言われます。なぜなら、信仰とは、主イエス・キリストから聖霊、すなわちわたしたちにご自身を裂いてお与えくださる主ご自身のいのち、をいただくこと以外の何ものでもないからです。

主イエスの権威を認め、主から聖霊を受けさせていただく。その時、聖霊がわたしたちの内に働き、わたしたちを主ご自身の似姿に変えていってくださる。信仰とは、主なる神キリストからいただく聖霊によるわたしたちの新しい命の創造です。

主イエスはその聖霊をわたしたちにご聖体においてくださる。それがごミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 6/30

年間第13主日 マルコ5:21-43

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「(わたしの)娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

今日の福音は、主イエスと二人の女性との出会いを伝えていました。一人は、ユダヤの会堂の責任者ヤイロの娘であり、もう一人は、「十二年間も出血の止まらなかった女」と、福音が伝える女性です。ただし、なぜ、「長血を患っていた女性」の物語が、ヤイロの娘の物語の中で、入れ子のように語られるのでしょうか。

ヤイロの娘の物語は、明らかに死と復活の物語です。一度は死んだヤイロの娘に、主イエスがふたたび命を与えられたという主のみ業を語ります。そうであれば、この物語に包み込まれるように語られる「長血の女性」の物語も、たんなる病気の癒しの物語ではないのではないか。この女性も死んでいたのに、主によってふたたび命を与えられた、と福音は伝えようとしているのではないでしょうか。

この女性に限らず、主イエスがわたしたちにお会いくださる。それは誰にとっても、主におけるわたしたち自身の死と復活の体験ではないでしょうか。死んでいたわたしに、主が新しい命をお与えくださった。それが主との出会いではないでしょうか。

ところで、「長血の女性」の物語はこの女性の名前を伝えていません。12年も苦しみ続けてきたこの女性を、彼女の町のだれも気にかけなかったのでしょうか。他者に対してこれ程までに冷淡で無関心な町の人々が、主イエスを取り巻いています。その彼らをかき分けるようにして、主の後ろから主のみ衣の裾に触れたこの女性。その時、主の弟子たちの中にさえ彼女を気に留めた者はいませんでした。

しかし、主イエスは違います。彼女を気に留められただけではありません。彼女に「お会いにな」られたのです。苦しみ抜いた12年もの間、だれからも気にかけられることのなかったこの女性に、主イエスは、「わたしの娘よ」と呼びかけておられます。

実は、主イエスは、かつてそのようにわたしたちにもお会いくださっていたのではなかったでしょうか。周りのだれからも気に留められることもなく、またわたしたち自身さえ名の無い群衆の中に自分を見失ってしまっていたような生活の中で、主のみ名を聞き、せめて主のみ衣の裾にでも触れさせていただきたいと主に心が動いた時、主に、「わたしの娘よ」、と呼びかけられたのではなかったでしょうか。

この長血の女性が、主イエスを求めた直接の動機は、病気を癒して欲しいということだったでしょう。しかし、主によって癒された時、彼女は「自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、(主のみ前に)震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのままに話した」と、福音は伝えていました。

病を癒されたこの女性は、彼女の身に起こった奇跡を喜んだというのではないのです。病を癒してくださった主イエスを「畏れた」と福音は伝えます。この時彼女は、病の癒しを得た以上に、主イエスにおいて、彼女を「わたしの娘よ」と呼んでくださる父なる神にお会いしたのです。

彼女の過去には、神に願い、神を求め続けた長い時があったはずです。しかし、彼女はこの時、初めて神を畏れたのです。神が彼女の主であられることを、その身にはっきりと知ったからです。同時にその時、その主なる神が、彼女に父なる神としてお会いくださった。それが、主イエスにお会いするということです。

一時の必要として神を求めることと、神をわたしたちの生涯の主として受け入れることは、まったく違います。神をわたしたちの主である、と畏れをもって受け入れる。その時、神はわたしたちに父としてお会いくださる。それを「信仰」と言うのです。主イエスは、主を畏れたこの女性に、まことの神・まことの父として、「わたしの娘よ」と、呼びかけられたのです。そして、(わたしの)娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

この女性は、主イエスにおいて神にお会いしたのです。主イエスにおいて、神が彼女に、彼女の主、彼女の父としてお会いくださったのです。それが、「あなたの信仰」です。そして、「あなたの信仰があなたを救った」のです。わたしたちは、神がわたしたちの必要に応えてくださることによってではなく、神をわたしたちの命の主とさせていただくこと、神が父となってくださることによって、救われるからです。

主イエスにおいて神にお会いさせていただく。主から「わたしの娘よ」と呼んでいただく。その時、主はわたしたちにも、「安心して行きなさい」と、語りかけてくださるに違いありません。そして、「安心(平安)」こそ、わたしたちにお会いくださった主イエスが聖霊によってわたしたちの内に結んでくださる確かな信仰の実りです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 6/23

年間第12主日 マルコ4:35-41

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の主日、わたしたちは主イエスの「神の国のたとえ」からお聞きいたしました。

聖書の「神の国のたとえ」は、わたしたちが「神の国」の主イエスに招かれて、主ととともにすでに体験している「神の国」の事実と、その事実の内に隠された真実と力にわたしたちの目を開かせてくれるものです。

わたしたちは、すでに過去となった神の創造のみ業の結果の中に住んでいるのではなく、「聖霊」による新しい神の創造のみ業の内に、主イエスによって、今、生かされてあるのです。それが、主によってわたしたちが「神の国」に招かれているということであり、「神の国」の主がわたしたちとともにいてくださるということです。

このことは、決して形而上学的真理と言うようなものではありません。驚くべき出来事としてわたしたちに体験される事実です。例えば、今日の福音の物語のように。

主イエスが、弟子たちとともに、一日の「神の国」の宣教の働きを終えられて、ガリラヤの湖を舟で向こう岸に渡って行こうとしておられた時のことでした。「激しい突風が起こり、船は波をかぶって、水浸しになるほどであった」と、今日の福音は、その時の様子を伝えていました。

「しかし」、と福音は続けます。「イエスは、艫の方で枕をして眠っておられた。」

弟子たちは、たまったものではありません。死の恐怖にかられた「弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』」と、主イエスに詰め寄ります。これに対して、

「イエスは起き上って、風を叱り、湖に、『黙れ、静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。」

主イエスによる「しるし」の出来事の物語です。わたしたちは、福音の伝えるこの出来事が事実であったことを、疑う理由は何もありません。今日の福音を伝えたマルコは、この出来事の当事者であった使徒ペトロの直弟子だからです。

ただし、マルコが、今日の福音の出来事を、あえて、主イエスの「神の国のたとえ」の直後に伝えるのには理由があると思います。マルコは、「神の国のたとえ」を受けて、その「たとえ」の示す真実、すなわち「神の国」の主イエスが、天地の創造主であり、かつ支配者であられるということを、今日の福音の物語を通して証ししようとしているのではないでしょうか。

実際、マルコは今日の福音で、主イエスが、「起き上って、風を叱り、湖に、『黙れ、静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」と伝えた後で、「弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った」と、物語を結んでいました。

主イエスの「しるし」の出来事は、この時弟子たちに「助かった」と言う安堵以上に、「風と海を支配するこの方は、いったい誰か」との問いを引き出しています。ただし、弟子たちは、その答えをすでに知っていたはずです。風と海(湖)を支配することがおできになるのは神以外にはおられないからです。旧約聖書『創世記』の冒頭の、創造主である神の物語は、次のように語り始められていました。

「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた、『光あれ。』こうして光があった。」

ここで、主イエスの話されたユダヤの言葉では、「湖」、「水」、「海」、「深淵」は同義語です。また、「風」と「霊」はまったく同じ言葉です。したがって、事柄な明確です。マルコが、主が「風と湖」を支配されたことを伝える時、マルコにとってそのことは、主こそ、天地の創造主・支配者である神であられる、と言う明らかな宣言以外の何ものでもありません。つまり、主イエスこそ、神である。同時に、それが、「「風と湖」を支配されるこの方は誰か」との弟子たちの問いへの、そしてわたしたちすべてへの、マルコの答えです。

加えて、船の中で眠っておられた主イエスが、起き上って「風と湖」を「叱られた」(「支配された」)と、マルコが伝える時、そこには、死から復活された主のお姿が鮮やかです。「復活する」と訳された言葉は、ユダヤの言葉でも福音書のギリシャ語でも、「倒れている者を抱き起こす」、あるいは、「病む者を介抱する」と言う意味だからです。マルコが今日の福音の物語に続けて、主イエスによる「病む人の癒し」の物語を二つ語り続けることにも、実は、十分な理由があるのです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン

司祭の言葉 6/16

年間第11主日 マルコ4:26-34

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスは、「神の国」をお語りになられる時、「たとえ」で語られます。なぜなのでしょうか。「神の国」を「たとえで語る」とは、どのようなことなのでしょうか。

「たとえで語る」と訳されますが、ギリシャ語の元来の言葉パラ・バロないしスン・バロの意味は、「一緒に(ともに)飛び込む」という意味です。つまり、主イエスがわたしたちに「神の国をたとえで語る」というのは、主からわたしたちへの、「神の国に一緒に飛び込もう」、あるいは「神の国にともに生きよう」との招きなのです。

つまり、主イエスが「神の国」を「たとえで語る」とは、聞くわたしたちに「神の国」というものを説明し想像させることではありません。実際、その必要もありません。なぜなら語られる主ご自身が「神の国の主であり王」であり、その方のもとに「神の国」は「すでに来ている」つまり「すでに始められている」からです。それが、「神の国の主であり王であるキリスト」がわたしたちのもとに来てくださったということです。

そうであれば、「神の国の主であり王であるキリスト」から「神の国」の「たとえを聞く」とは、わたしたちが、今、主イエスに在って体験している事実、つまり主とともにわたしたちのただ中で、すでに始まっている現実、わたしたちがすでに招き入れられている「神の国」と、その真実とその力に、わたしたちの目が開かれ、その真実の世界、つまり「神の国」に「神の国の民」として自覚的に生かされていくことです。

主イエスにおいて「神の国」が来ている。このことは、主によって今日唐突に語られたことではありません。主は、「神の国」の宣教のはじめから仰せでした。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

ただし、「神の国は、近づいた」と訳された元の文章は現在完了形で、「神の国は、すでに来ている」ないし「すでに始まっている」という意味になります。しかし、それはどこに? もちろん、「神の国の主であり王であるキリスト」のもとにです。

ただし、主イエスが、招き入れてくださったご自身の「神の国」に、わたしたちが生かされるためには、どのようにしたら良いのでしょうか。主は、続けて仰せでした。「悔い改めよ」と。文字通りには、「(主イエスと)心を合わせなさい」ないし「(主と)思いを重ねなさい」という意味です。さらに同じことが、「福音を信じなさい」という主イエスのことばによって念を押されます。

「福音」とは、主イエスご自身であり、その主を「信じる」とは、主にわたしたちを委ねることでです。つまり、「主と心を合わせ、主と思いを重ねさせていただく」ことに他なりません。そしてこのことこそ、わたしたちにとって主とともに「神の国」に生きるということ、「神の国」の真実とその力に生かされるということです。

ただし、わたしたちは罪のままでは聖なる主イエスのみ心を知る由もなく、主と「心を合わせ、思いを重ねる」こともできません。つまりわたしたちは罪のままで「神の国」に生きることはできません。わたしたちは、主から聖霊を求め、聖霊による罪のゆるしと聖化を願うべきです。主ご自身との「神の国」の食卓であるごミサの冒頭で、わたしたちが聖霊による罪のゆるしを求めるのはこのためです。

実は、ルカによる福音では、主イエスが「神の国のたとえ」を語られるに先だち、わたしたちに、「目を覚まして、神の時を見分ける目をもつ」ようにと仰せでした(ルカ12-13章参照)。主は「神の国」の宣教の最初に、「時は満ちた」と仰せでしたが、「時(カイロス)」とは「神の定められた時」です。わたしたちに「神の時」むしろ「時を定められる神」を「見分ける目」がなければ、主において「神の国」が「すでに来ている」という事実にも、わたしたちの「目が覚め」ないでしょう。

ただし、「目を覚まして、神の時を見分ける目をもつこと」は、主なる神からの罪のゆるしの中でしか求め得ません。「神の時を見分けること」を妨げているのは、神に目を閉ざすわたしたちの罪だからです。しかし、罪ゆるされてわたしたちの目が開かれる時、主イエスにおいてすでに始められている「神の国」の事実とその力は、かつて罪に曇ったわたしたちの目に映っていた停滞し混乱したこの世の姿とは、まったく別ものです。わたしたちは、すでに過去となった神の創造のみ業の結果の中に住んでいるのではありません。「聖霊」による新しい神の創造のみ業の内に、「神の国」に、今、生かされてあるのです。そのことを、主は次のように仰せです。

「(神の国は、)からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 6/9

年間第10主日 マルコ3:20-35

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

福音にお聞きしつつ、主イエスの宣教の旅に伴わせていただいています。主は、すでにペトロを始めとする十二使徒たちをお選びになっておられました。マルコによる福音は、この12人に対し、「主ご自身の望む人たち」であった、と伝えていました。しかし、大切なことは、主は彼らに何を「お望み」になられたのかということです。

マルコはそのことも明快に伝えてくれていました。二つのことです。第一に、「この

12人をご自分とともにおらせる」ことであり、さらに、彼らに「悪霊を追い出す権能を授けて宣教に遣わされる」ことであったと。

第一に、ご自分とともにおらせることをこそ、主イエスは彼らにお望みになられた。このことは、現在のわたしたちにとっても極めて大切です。またこのことは、主の十字架の死の後も、同様でした。事実、主は、十字架の後は「ご復活の主」として、ご昇天後には「聖霊なる主」として、使徒たちが、さらには彼らに続くわたしたちも、主といつもともにおらせてくださっておられます。マタイによる福音全体は、ご復活の主イエスによる彼らへの次のおことばによって、結ばれています。

「わたしは天においても地においても、すべての権能が与えられている。だから、あなたがたは行って、すべての国に人を弟子にしなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいるのである。」

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいる。」ご復活の主イエスのご昇天の後も、同じ主が「聖霊なる主」として使徒たちと、さらにわたしたちとも世の終わりまでいつもともにいてくださる。それは、使徒たちが、続いてわたしたち教会が、歴史を貫いて経験してきた事実です。福音書に続く使徒たちの宣教の記録である『使徒言行録』が、古来『聖霊言行録』とも呼ばれてきたのはこのゆえです。

第二に、主イエスは、「聖霊」なる主として時と場所を超えていつもわたしたちとともにいてくださるゆえに、使徒たちの内に、またわたしたちの内に働かれ、さらにわたしたちを通して働いてくださり、主ご自身の権威とみ力により、わたしたちと多くの人々から「悪霊を追い出す」ことがお出来になる。

「聖霊なる主イエス」が「悪霊を追い出」される。この事実には、二つの意味があります。第一に、「聖霊なる主」は、わたしたちの内に、またわたしたちを通して多くの人々に働き、わたしたちと人々の罪の赦すことがおできになる、という事実です。

福音記者ヨハネが伝えるように、洗礼者ヨハネは、彼から洗礼を受けようとされる主イエスを指さし「見よ、神の子羊」と告白しました。その時同時に、ヨハネは「神の子羊」・主イエス・キリストを、「世の罪を取り除かれる方」と証ししています。御子キリストの罪を赦す権威が、「聖霊なる主」において働かれる。それは、聖霊なる主がわたしたちの内に働き、さらにわたしたちを用いて働き、わたしたちや多くの人々から「悪霊を追い出」してくださるということです。「悪霊」とは、あらゆる形で、わたしたちを神から引き離す力であり、働きです。そして、神から離れることが、罪です。

さらにヨハネは、その「神の子羊キリスト」こそ「神の子」であり、わたしたちに「聖霊によって洗礼を授ける方」、つまり主イエスは、「聖霊なる主として」わたしたちの罪を赦し、わたしたちをご自身のものとしてくださる方であることをも証しします。

従って第二に、聖霊なる主イエスによって罪赦されたわたしたちは、同時に、聖霊なる主によって聖くされ、神への捧げものとされて、神に帰ることさえ赦されます。

これは驚くべき恵みです。「聖霊なる主イエス」は、わたしたちの罪を赦してくださるのみならず、わたしたちを聖めて、神への捧げものといて、ご自身の許にお返しくださる。だからこそ、今日の福音の始めに、主は、この「聖霊(なる主)を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と、警告しておられたのです。  

主イエスは、「神のみ心を行う人こそ、わたしの母、わたしの兄弟・姉妹である」と仰せでした。「神のみ心を行う」。それはわたしたちの知恵や力によってではありえず、神のみ心を唯一知る「聖霊なる主」のお助けによってのみ、わたしたちに可能とされることです。従って、「神のみ心を行う」者とされるために、わたしたちは、聖霊なる主によるわたしたちの罪の赦しと聖化を求めさせていただく他ありません。その時、聖霊なる主は、先にご自身の母マリアさまと兄弟たちを招かれた「神のみ心」に生かされる者たちの交わりへと、わたしたちをも喜んでお招きくださいます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 6/2

キリストの聖体の主日 マルコ14:12-16,22-26

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

マルコによる福音は、主イエスと十二人の弟子たちとの「最後の晩餐」の様子を、目に見えるように鮮やかに、そして端的に伝えてくれています。

その中でも圧巻は、主イエスご自身が、みことばと行為をもって、ペトロたちに、「ご聖体の秘跡」すなわちごミサを制定してくださったことを伝える場面です。これは、後にルカおよびマタイによる福音、さらには初代教会の貴重なごミサの記録でもある使徒パウロのコリントの教会への手紙によっても一致して証言されます。

しかし、なぜ、主イエスは十字架とご復活に先立つ「最後の晩餐」で、「ご聖体の秘跡」つまりごミサを制定してくださったのでしょうか。

主イエスは、「最後の晩餐」に続くご自身の十字架とご復活によって、わたしたち罪人の救いのために「主の過越の神秘」を完成・成就してくださいました。その恵みに、使徒たちのみならず、後のわたしたちすべてが、一人も漏れることなく確実に与ることができるように、主は、「これをわたしの記念として行いなさい」と、「ご聖体の秘跡」を制定してくださったのです。

実はそのおことばで、主イエスが制定してくださったのは、ご聖体の秘跡・ごミサだけではありません。同時に司祭の叙階の秘跡をも制定してくださいました。この二つの秘跡は「同時制定の二秘跡」と呼ばれます。ご聖体の秘跡に仕える司祭の叙階の秘跡を欠いては、ご聖体の秘跡の正しい執行を教会は保証できないからです。

したがってご聖体の秘跡・ごミサで、司祭は、「これをわたしの記念として行いなさい」との「最後の晩餐」での主イエスの十二使徒へのご命令に忠実に、主ご自身がなさったように、皆さんから捧げられたパンを手に取り、「奉献文」の感謝の祈りの内に聖霊の注ぎを求めつつ、主ご自身の次の制定のおことばを繰り返します。

「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される、わたしのからだである。」(マルコによる福音では、「取りなさい。これはわたしのからだである。」

続けて、司祭はブドウの杯を手にとり、主イエスの次のおことばを、繰り返します。

「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。」(マルコによる福音では、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

司祭を用いて、十字架とご復活の主イエス・キリストご自身が、みことばと行為によって聖別されたご聖体の内に、聖霊によって現存されます。数えきれない信者・殉教者たちが、ご聖体の内に聖霊によって現存される主ご自身に、彼らの生涯を託し、最後には彼らの命を捧げ、唯一人たりとも裏切られたことの無い、これがカトリックの信仰です。この信仰には、東・西の教会の違いはまったくありません。

ご聖体においてご復活の主イエスのいのちを受けた、聖アウグスティヌスは語ります。「主イエス・キリストのご聖体を拝領する時、わたしたちは、主をわたしたちの体へと消化するのではありません。ご聖体を受けたわたしたちの方が、主によって消化されるのです。その時、わたしたちの罪なる身体が、キリストの栄光のからだへと変えられます。それゆえ、驚嘆し、かつ喜んでください。皆さんは、ただキリスト者とされるのではありません。ご聖体によって、キリストのからだとされるのです。

わたしたちの内にまで来てくださって、「わたしたちの罪なる体を、キリストの栄光のからだに変えてくださる」ことがおできになるのは、ただ「聖霊なる神」お一人です。したがって聖アウグスティヌスは、ごミサでわたしたちが受けるご聖体の内にキリストの霊・「聖霊」が、現に生きて働かれる、と明確に教えてくれているのです。

「福音とご聖体において活けるご復活のキリストにお会いさせていただくのです」と先のベネディクト十六世教皇は繰り返し教えてくださいました。聖アウグスティヌスが教えるように、ご聖体においてわたしたちが受けるのは、「聖霊」です。そして、じつは「聖霊」こそ、目に見えないけれども活けるご復活の主イエスご自身です。

ご聖体の祭日。今、ここに、ご聖体の内に聖霊によって現存されるご復活の主イエスご自身が、わたしたちにお会いくださいます。ご復活の主は、「聖霊」において、自らをご聖体としてわたしたちにお与えくださいます。まさに「驚嘆」すべき主の遜(へりくだ)りの事実。さらに、ご聖体の主をいただくわたしたちは、聖霊において、罪なる身体から主のからだへと変えられます。じつに「喜ぶ」べきわたしたちの光栄。わたしたちがごミサで記念し祝うのは、聖霊において働き、わたしたちをご自身のからだとしてくださるご聖体のキリストの、この大いなる恵みの奇跡です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 5/26

三位一体の主日(年間第8週)マタイ28:16-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「聖霊降臨の主日」に続く今日は「三位一体の主日」。集会祈願で、「唯一の神を礼拝するわたしたちが、三位の栄光をたたえることができますように」と祈りました。

唯一の神を、父・子・聖霊の三つの位格を以てお呼びさせていただく。これは、ご復活の主イエスご自身がなさっておられることです。主は、仰せになられました。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名(「名」は単数)によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

先の「聖霊降臨」の主日の福音で、ご復活の主イエスは、天の父なる神のみ許からわたしたちに遣わされる「聖霊」を「弁護者」と呼んでおられました。ただし、日本語で「弁護者」と訳されたギリシャ語パラクレートスは、元来「(人を助けるために)傍らに呼ばれた方」という意味の言葉です。そうであれば、「聖霊」は、日本語で「復活する」と訳された元来のギリシャ語の意味する「倒れている者を抱き起こし、病む者を介抱してくださる」、つまりご復活の主イエスのお姿と、確実に重なります。

このように、「聖霊」において、ご復活の主イエスご自身がご昇天後も変わることなくわたしたちと共にいてくださる、むしろ「聖霊」こそ「ご復活の主イエス」ご自身であられることを、主は今日の福音でわたしたちに確信させてくださいます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

同時に、「聖霊」としてわたしたちと共にいてくださるご復活の主イエスが、ご昇天という出来事を通して、全能の天の父なる神と一つであられることも明らかにされました。主は仰せです。「わたしは天と地との一切の権能を授かっている。」

マルコによる福音は、この真実を、さらにつぎのように具体的な事実を以って語っています。(ご復活の)主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、(父なる)神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコ16:19-20)

父なる神と一つに「天と地との一切の権能」を行使なさるご復活の御子なる主イエス。ご復活の主は、ご昇天の後の今、「ご復活の主の霊」である「聖霊」によって、地上のわたしたちといつも共にあり、さらに共に働いてさえくださっておられます。

それにしても、なぜ、唯一の神が、父・子・聖霊の三つの位格によって働かれると言われるのでしょうか。あるいは、わたしたちは、なぜ、「唯一」の神を、父なる神・子なる神・聖霊なる神の「三位」、つまり各々異なったお働き(存在の違いではなく、存在の仕方の違い)ゆえに、三つの異なった位格でお呼びさせていただくのでしょうか。

それは、わたしたちの救いのためです。罪なるわたしたち一人ひとりのために、神ご自身がわたしたちと共に在り、さらにわたしたちすべての内にまで来てくださって、わたしたちの内から救いのみ業を全うしてくださるためには、唯一なる神が、父なる神、子なる神、そして聖霊なる神として働いてくださる他ないからです。

わたしたちの救いのために、天の父なる神は、全知全能の力の座である天を離れること無く、御子キリストとして地のわたしたちの許に来てくださり、わたしたちの罪の贖いために、ご自身を十字架につけてくださいました。さらに、主イエスは復活され、そのご復活の主は、ご昇天の後にわたしたちにご自身の霊である「聖霊」を与えくださり、わたしたちの内に働き、またわたしたちと共に働いて、わたしたちのみならず、わたしたちを通してすべての人々の救いの業を完成してくださいます。

神がわたしたち一人ひとりの救いのためにしてくださった具体的な事実、その手続きの一つひとつを指折り数えるように、わたしたちは心からの懺悔と感謝をこめて、唯一の主なる神を、父・子・聖霊と、三位の位格でお呼びさせていただくのです。ただしそれは、神が難解で複雑な方だということではありません。わたしたちの罪が、わたしたちを救ってくださるための神の救いの手続きを複雑にしたのです。

したがって、わたしたちにとって、唯一の神を「三位」の位格でお呼びする「三位一体」の信仰は、単なる教理ではありません。わたしたち自身の心からの懺悔と感謝による信仰の告白です。罪なるわたしたちを救い取ってくださった神のご懇切なるみ業を思い起こす時、わたしたちは唯一の神を、父なる神、子なる神、聖霊なる神と、懺悔と感謝を以てていねいにお呼びされていただく他無いからです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 5/19

聖霊降臨の主日 ヨハネ15:26-27,16:12-15

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」

先に、主イエスのご昇天の証人とされたわたしたちは、今日、主の約束された聖霊の降臨を祝い、またその証人とされるべく、再び、主のみ前に集められました。

ここでわたしたちは、弟子たちとの最後の晩餐での主イエスの説教のおことばを、もう一度想い起こすようにと求められています。それが、今日の福音です。

最後の晩餐の間中、主イエスは、弟子たちとの晩餐に続くご自身の十字架をはっきりと見つめておられたはずです。しかしその時でさえ、否、その時こそ、主のお心を占めておられたのは、十字架の後に残されるわたしたち弟子たちの事だけです。

そのわたしたちに、主イエスはご自身の十字架とご復活、さらにご昇天の後、「真理の霊」を送ってくださること、そして「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と、約束してくださいました。

ここで、主イエスがお送りくださる「真理の霊」。今日の福音では、主はそのお方のことを「弁護者」とお呼びになっておられました。

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をなさるはずである。」

「真理の霊」、すなわち「弁護者」が、わたしたちのために主イエスご自身の十字架の死の犠牲と引き換えに与えられることは、主の次のおことばからも明らかです。

「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたたちのところに送る。」

それにしても、主イエスは、ここで、「真理の霊」つまり「聖霊」のことを、なぜ「弁護者」とお呼びになっておられるのでしょうか。

「弁護者」。じつは、これはギリシャ語で、元来「(人を助けるために)傍らに呼ばれた人」を意味する言葉です。従って、助け手、介護者、保護者とも訳されて来ました。

先にわたしは、「復活」すると訳されている言葉は、『福音書』のギリシャ語、さらにその背後に考えられるユダヤの言葉でも、傷ついた人を介抱する、あるいは、倒れた人を抱き起こすと言う意味で、日常使われる言葉でもあると申し上げました。

主イエスのご復活。そこには、傷ついたわたしたちを介抱してくださる主、倒れ、あるいは死んでさえいたわたしたちを抱き起こしてくださる主が、立っておられます。

このご復活の主イエスのお姿。それは、今日の福音で、主が十字架の後に、ご自身の十字架の死と引き換えにわたしたちにお与えくださる「弁護者」、むしろ「助け手」、「介護者」、「保護者」のお姿と、明らかに重なり合っています。

そして、「弁護者」とも呼ばれるその方こそ「聖霊」なる主であられることは、最後の晩餐の説教の中で、主イエスご自身が繰り返し明らかにしておられる通りです。

しかし、この「弁護者」である「聖霊」が、主イエスから遣わされて来られる時、そこにはどのようなわたしたちの姿があるのでしょうか。それは、傷つき、倒れ、あるいは、主のみ前に命を失ってさえいるわたしたち、ご復活の主に抱き起こされることを、ひたすら待ち望んでいるわたしたちの姿ではないでしょうか。

「真理の霊」は、そのわたしたちを「導いて、真理をことごとく悟らせてくださる。」「真理の霊」が、「聖霊」つまり「ご復活のキリストの霊」に他ならない以上、「真理の霊」がわたしたちを導く「真理」とは、ご復活の主イエスご自身に他なりません。

「聖霊降臨」の今日、ご昇天の主イエスがお遣わしくださる「真理の霊」・「聖霊」は、わたしたちをご復活の主へとお導きくださいます。「弁護者」なる「聖霊」は、わたしたち一人ひとり、主のみ前に倒れ、死んでさえいるわたしたちを確実に抱き起こし、命へと回復してくださるご復活の主のみ腕の内に確実に導き入れてくださいます。

「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」「聖霊」が遣わされるところ、そこには、わたしたちの前にご復活の主イエスが確実にお立ちになっておられます。そして、ごミサこそまさにその主イエスとの出会いの時です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。