司祭の言葉 3/23

四旬節第3主日 ルカ13:1-9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の主日は、福音の語る「主イエスの山上の変容」の出来事から、出エジプトの指導者モーセと預言者エリヤが、主ご自身と、「主がエルサレムで遂げようとしておられる最期について話し合っておられたことをお聞きしました。ただし、最期と訳されていた言葉は、元来は、主の「過越」を意味する言葉でした。

したがって、この時主イエスは、モーセとエリヤとともに、「主の過越」、すなわち主がご受難と十字架の死を経てご復活の栄光へと「過ぎ越し」て行かれる、主のエルサレムでの出来事の全体を、予め話し合っておられたと言うことです。

実は、この山上での出来事の直前、さらに直後にも、主イエスは、弟子たちに、「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活することになっている」と、エルサレムでの「ご自身の過越」の予告をなさっておられました。

そしてその度に、主イエスは弟子たちに、「目を覚ましていなさい」と警告されておられました。その上で、今日の福音で、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と、主は二度も重ねてわたしたちに悔い改めをお求めになっておられました。

確かに「悔い改め」は、わたしたちの信仰の死活問題です。しかし、それはいかなることなのでしょうか。目を閉じ、俯(うつむ)いて自問自答し、自らを責めることでしょうか。そうではありません。ユダヤの言葉で「悔い改める」とは、「わたしたちの顔を神に対して向けなおす」、「神に向けて目を開く」ことです。

大切なことがあります。ルカによる福音は、主イエスの「山上の変容」後、弟子たちを伴って最後にエルサレムに上られる途上、主は弟子たちに「祈るときには、こう祈りなさい」と、「主の祈り」をお授けくださった、と伝えていることです。改めて、「主の祈り」とは、いかなる祈りなのでしょうか。

「主の祈り」が、ミサの中で何時祈られるのかを思い出してください。それは、「奉献文」の奉唱後、すなわち「聖変化」の直後、主イエスが、わたしたちのただ中にご聖体のお姿で、ご自身の御現存をお現わしくださった直後です。

したがって、「主の祈り」とは、主イエスご自身が、わたしたちのただ中に在って、「わたしがここにいる。もう心配しなくていい。もう俯かなくていい。わたしに顔を向けてごらん。閉じた目を開いて、わたしを見つめてごらん。わたしと一緒に祈ろう」と、わたしたちをお招きくださっておられる祈りです。

確かに、「悔い改めなければ、滅びる」とは、その通りです。俯いて神から顔を背け、神に目と心を閉ざしてしまっては、救われません。しかし、わたしたちは、むしろ最も大切な時にこそ力を失ってしまうのではないでしょうか。その時、わたしたちは俯いて目を閉じてしまいます。主イエスはそのことをよくご存知です。わたしたちの人生の悩み、苦しみをご存知だからです。主に向かって顔を上げることができずに俯き、神と人生に目を閉じてしまう、わたしたちの弱さを。

「主イエスの時」・「主がエルサレムで遂げようとしておられる最期」・「主の過越」が近づく中で、主はくり返し、「悔い改める」、「目を開く」ことをわたしたちにお求めになっておられました。しかし、これは決して唐突なことではありません。主は福音の宣教の当初から、次のように仰せになっておられました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

「悔い改めて福音を信じること」「目を覚ましていること」それは、主イエスに「時が満ちる」中で、「主ご自身がエルサレムで遂げようとしておられる最期である「主の過越」、つまり主の十字架とご復活を、わたしたちがしっかりと見届けさせていただくためです。それのみがわたしたちの救いだからです。

福音の後半の「実のならないいちじくの木のたとえ」で、主イエスがご自身を「園丁」に喩えてお語りになっておられるように、「園の主人」・唯一の裁き主であられる父なる神のみ前に、ご自身を犠牲としてまで執り成してくださる主。

「悔い改め」「目を覚ましていること」。それは、時に重すぎる人生の苦しみの中で神に目と心を閉ざしてしまうわたしたちにとって、自分の力だけでできることではありません。主イエスはそれを良くご存知です。それ故「わたしと一緒に祈ろう」と、主はわたしたちを「主ご自身の祈り」へと切に招いてくださいます。

「時は満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」わたしたちを「主の祈り」へと招く主イエスは、エルサレムでの「過越」へと旅を進められます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 3/9

四旬節第1主日 ルカ4:1-13

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の水曜日、「灰の水曜日」から四旬節に入りました。四旬節の40日と言う数字は、主イエスが、荒れ野で「四十日間、汚れた霊・サタンから誘惑を受けられた」ことに因むものです。

主イエスの荒れ野での40日に先立ち、先にルカによる福音は、「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」と、伝えていました。ここで「聖霊」とは、言うまでもなく、主が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた際に、天から注がれた「父なる神の霊」です。

今日のルカによる福音は、さらに続けて、「そして、荒れ野の中を「霊」によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」、と伝えていました。これは、新共同訳聖書の訳です。ただしこの訳では、主を荒野に導いたのは、父なる神の霊・聖霊ではなく、汚れた霊・悪魔であるかのような印象を受けます。これは、無自覚の内に善悪二元論的思考に慣らされて来たわたしたちには、分かりやすい話のようにも聞こえますが、しかし、そもそも、汚れた霊・悪魔に、神の御子キリストに何事かを強いるような力と権威があるのでしょうか。

実は、同じ個所を、カトリック・フランシスコ会訳聖書は、「イエズスは、聖霊に満ちてヨルダン川から帰り」とした後、続けて、聖霊によって荒野に導かれ、四十日の間悪魔の試みにあわれた」、と明快に、かつ事柄を正確に訳しています。主イエスが洗礼に際して父なる神から受けた「聖霊」と、その直後に、主を荒野の試練に導き出されたのは、明らかに同じ「聖霊」すなわち「父なる神の霊」であった、ということです。

そうであれば、御子キリストを荒野に導かれ、汚れた霊・悪魔に対して、主イエスを荒野で誘惑し、主を試みることをお許しになられたのは、神の霊、すなわち父なる神ご自身と言うことになります。これは一体どういうことなのでしょうか。福音は、わたしたちに何を伝えようとしているのでしょうか。

加えて、それが父なる神のみ旨であったとするならば、主イエスを荒野に導かれ、そこで悪魔に主を試みることを許してまで、むしろそのことを通してのみ成就されるべき、わたしたち罪人のための父なる神の救いと言うことが、必ずやあるはずです。それは、一体、いかなることなのでしょうか。

「汚れた霊」「悪魔・サタン」とは、「わたしたちを神から引き離そうとするもの」、さらには「わたしたちが神とともにあることを、妨げようとする力」のことです。今日の福音で、主イエスが荒野でお受けになられた「悪魔からの試練」は、実はわたしたち自身も人生で繰り返し受ける「誘惑」ではないでしょうか。しかも、もしその「誘惑」に負けて、その結果、私たちが「神から離れて」しまうならば、わたしたちの人生を空しくしてしまうようなものではないでしょうか。

ここで、「聖い霊」、すなわち「聖霊」とその働きについて確認しておきたいのです。主イエスは、荒れ野での40日の後、聖霊において成就される福音(みことば)の宣教をお始めになりますが、福音書は、そのご様子を、主は「汚れた霊」に取り憑かれた多くの人々から、「汚れた霊を追い出された」と、くり返しわたしたちに語ります。主において働かれる「聖霊」・「聖い霊」とは、まさにわたしたちから「汚れた霊・サタン」を駆逐・勝利してくださる神の力です。

「天の父なる神の霊」「聖霊」に導かれての主イエスの荒れ野の40日の試練とは、「汚れた霊サタンの誘惑」の一切を、主がわたしたちに先んじて受け、わたしたちに代って味わい尽くしてくださるためであり、その上で、主がわたしたちのために、わたしたちに先行して、本来わたしたちの受けるべき一切の誘惑に、あらかじめ「聖霊」において勝利を収め取っておいてくださるためだったのです。

「聖霊」によって荒野に導かれた主イエスは、この時、「聖霊」・父なる神の聖い霊によって、わたしたちのために「汚れた霊」「悪魔」に予め打ち勝ってくださったのです。「悪魔」に対する主の勝利。これこそ、「悪霊の誘惑」の前に無力なわたしたちにとっての救いそのもの、わたしたちすべてにとっての力強い福音そのものです。主の、わたしたちのための悪魔からの誘惑に対する勝利なしには、わたしたちの人生が無に帰してしまうからです。

ただし、「聖い霊」・「聖霊」による「汚れた霊」・サタンに対する完全なる勝利は、主イエスご自身の尊い自己犠牲である主の十字架とご復活、すなわち「主の過越」を通してのみ、最終的かつ完全に勝ち取られるものであることを、四旬節の始めから、わたしたちは深く心に留めておきたいと思います。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 3/5

「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」

灰の水曜日の黙想
マタイ6:1-6、16-18

灰の水曜日をもって四旬節(レント)に入ります。灰の水曜日から、十字架の苦難と死を経てご復活の栄光に過ぎ越して行かれる、主イエス・キリストの「聖なる過越の三日間」を祝うまでの、日曜日を除く40日間を、カトリック教会は、紀元2世紀以来、慎みと懺悔の時として守り続けて来ました。

教会の古い伝統に従い、灰の水曜日のミサの中で、司祭は、昨年の「枝の主日」(「受難の主日」)に祝福を受けた棕櫚の枝を焼いて作った灰で、回心の証として皆

さんの額に十字架のしるしを致します(あるいは、皆さんの頭頂に灰を授けます)。

棕櫚の枝は、「枝の主日」に人々が主イエスを救い主キリストと歓呼の叫びを以てエルサレムにお迎えした時に、彼らが手にしていたものです。主は、その同じ人々によって、その週の内に十字架につけられました。わたしたちは、その棕櫚の枝から作った灰を受けて、主のみ前に心の定まらない、むしろ簡単に心変わりさえするわたしたちの罪の現実を強く心に留め、深く身に刻ませていただきます。

加えて、この灰を身に受けて始まる灰の水曜日からの40日の間、主イエスが宣教のご生涯の初めに体験された荒れ野の40日の試練を、さらに遡って、出エジプト後の神の民の荒野の40年を、同じく心に留めるのみならず、身に刻みます。

主イエスは荒れ野での40日間の汚れた霊・サタンからの試みに対し、聖霊によって勝利を収められました。イスラエルの民も荒野の40年の試練の時を、神の霊(聖霊)の助けによって耐え、主なる神の約束された地に導き入れられました。そのようにわたしたちもレント(四旬節)の間、聖霊の導きと御助けを切に祈ります。

灰の水曜日に読まれるマタイによる福音は、主イエスの「山上の説教」の一節です。この「山上の説教」の中心は、「全福音の要約」とさえいわれ、わたしたちがミサの度に祈る「主の祈り」です。その「主の祈り」の直前と直後に語られる施し、祈り、そして断食についての主の勧めが、今日、灰の水曜日の福音の内容です。

福音は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」との、主イエスのおことばに始まり、その後、主は、施し、祈り、そして断食についての各々の勧めを、「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」との同じおことばを三度くり返して、締め括っておられます。

主イエスがこのような勧めをなさるのも、わたしたちを主ご自身の祈りである「主の祈り」に招いてくださるためです。「主の祈り」。わたしたちが、主ご自身の祈りに加えられて、主のみ前に祈りの生活を整えさせていただく、その道が、当時のいい方で、施し、祈り、断食として、主によって勧められているのだと思います。

主イエスの祈りに加えられて、主と共に神のみ前に祈らせていただく。あるいは、主と共に神のみ前に、祈りを中心としての生活を整えさせていただく。四旬節を歩むわたしたちの願いは、実はこのことに尽きている、と言ってよいと思います。

ただしこのことは、わたしたちの祈りを導いてくださる唯一の方、つまり「隠れたことを見ておられるわたしたちの父」なる神の霊である聖霊の導きと御助けなしには、わたしたちには叶わないことではないでしょうか。

主イエスと共に祈りを奉げつつ、神のみ前に生きる。それは神の眼差しの内に生きることです。四旬節を歩むわたしたちの歩みが、「隠れたことを見ておられ、かつ報いてくださる」父なる神の眼差しの内に、常に守られ、導かれますようにと願います。

四旬節。それは、ご受難と十字架を通してご復活の栄光に過ぎ越された主イエスの、聖週間の「過越の秘義」に深く参入させていただくための大切な準備の時です。

この四旬節を、主イエスと共に祈る。主ご自身の祈りに加えられて生きる。「主の祈り」に導かれて、主と共に歩みを進める。聖霊の御助けによって、四旬節をそのように祈りと生活を整える時とさせていただけるようにと、わたしたちは切に願います。

来たる「主イエス・キリストの聖なる過越の三日間」への、皆さん自身の四旬節の備え、あるいは四旬節の間の皆さんの「施し、祈り、断食」は、何でしょうか。

実は、主日毎の、さらには日々のミサこそ、まさにそれではないでしょうか。ミサこそ、四旬節をご自身の過越によって成就される主イエスから、主ご自身の祈りにお招きいただける、まさにその恵みの時だからです。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 3/2

年間第8主日 ルカ6:39-45

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音のような主イエスのおことばの前に、わたしたちは祈る他なすすべがありません。しかし、祈るとは、わたしたちにとっていかなることなのでしょうか。

ルカによる福音において、わたしたちは後に、主イエスから、主ご自身の祈りである「主の祈り」(ルカ11:1-4)をいただきます。使徒パウロは、「祈り」について、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、「聖霊」自らが、言葉に表せないうめきをもって(わたしたちを神に)執り成してくださる」(ローマ8:26)と語っています。

そうであれば、主イエスからいただく「主の祈り」を祈ること、それは「うめきをもってわたしたちを神に執り成してくださる「聖霊」」を求めさせていただくことです。このことは、ミサにお集まりの皆さんは、すでに良くご存知ではないでしょうか。

「主の祈り」は、古来、とりわけミサの中で大切に祈られて来ました。しかも、「主の祈り」は『感謝の典礼』に続く、「ご聖体拝領」に極まる主イエスとの『交わりの儀』の冒頭に祈られてきました。明らかに「主の祈り」は、聖別の祈りを経て、ご聖体における「現存」の主のみ前に、「ご聖体の拝領」を目指して祈られています

ここで、「ご聖体」を拝領することは、ご復活の主のいのち・生ける主イエスご自身をわたしたちの命としていただくことです。それは、活ける主のいのちである「聖霊」を、わたしたちが受けることに他なりません。この「聖霊」を求める祈りとして、主のみことばに従って、ミサの中で「主の祈り」は祈られて来ました。

今、「主イエスのみことばに従って」と申しました。実は今日の福音で「主の祈り」をわたしたちにお与えくださった主ご自身がそのことをはっきりと仰せでした。

主イエスは、「わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ11:9-10)と仰せの上で、「主の祈り」を祈るわたしたちに次のように明確に約束されました。

「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:13)

「弟子の一人」が主イエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願った時には、彼は主から「祈り」の模範を求めていたのかもしれません。しかし、これに応えて、主が、わたしたちに「主の祈り」をお与えくださったのは、主ご自身にとって特別なことです。それは、主がわたしたちに天の父なる神に「聖霊」を求めることをお赦しくださったことだからです。ただしそれは、主ご自身にとって、さらにわたしたちにとって、いかなることなのでしょうか。

それは、父なる神にとっては、御独り子キリストのいのちをわたしたちにお与えくださることをよしとされたということです。「聖霊」とは、御父との活ける交わりにある御子キリストのいのちそのものだからです。事実、そして確かに、御父は、「主の祈り」を祈るわたしたちに、御子キリストのいのちをくださいます。十字架においてただ一度。しかし、ミサのご聖体拝領の度ごとに。

ミサのご聖体拝領を目指して祈られる「主の祈り」。主イエスからいただいた「主の祈り」で、わたしたちは第一に、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」と、「神の国」を祈ります。続けて、「わたしたちに必要な糧」を、そして最後に、「わたしたちの罪の赦し」「罪の誘惑からの護り」を祈ります。

ここには、わたしたちが「神の子」として生かされるための大切なことの一切が祈られています。しかもそのすべてが、すでに主イエスの内に完全に成就しています。そして、その一切を、わたしたち自身の恵みとしてくださる方こそ「聖霊」です。その「聖霊」を求めて良い、と主は仰せです。それが「主の祈り」です。その「祈り」に応えて、主は「聖霊」「わたしたちが目で見、よく見て、手で触れる」ことができる(ヨハネの手紙1:1)「ご聖体」においてお与えくださいます。それがミサです。

マタイによる福音は、主イエスの「主の祈り」を、ご自身の福音宣教の始めの「山上の説教」の中心に伝え、その際、主は弟子たちに、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。だから、こう祈りなさい」と言われた上で、「主の祈り」をお与えくださいます。

「主の祈り」とは、「聖霊」を求める「祈り」であり、「わたしたちに必要なものすべてをご存知の父なる神の霊」である「聖霊」に、わたしたち自身を委ねさせていただく祈りです。そのわたしたちに、父なる神は、御子キリストご自身をお与えくださいました。十字架に至るまで。わたしたちにご自身のいのちをくださるために。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 2/23

年間第7主日 ルカ 6:27-38

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

主イエスは、今日の福音の内にこのように仰せになっておられました。これを聞いて、皆さんはどのように思われたでしょうか。主は、端(はな)から不可能な要求をわたしたちにしておられるのでしょうか。

先の主日から、わたしたちは、ルカが伝える、主イエスの祝福のみことばに始まる説教からお聞きしています。これは、マタイによる福音の伝える主の「山上の説教」の並行箇所ですが、マタイは次のような主のおことばが伝えています。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)

ここで主イエスが「律法や預言者」と言われるのは、モーセと後の預言者たちを通して神がご自分の民に語られた「神のみことば」のことです。かつて、モーセは「神のみことば」をお聞きするために「山」に上りました。マタイの伝える主の「山上の説教」。主も、「山」に上られます。ただし、主はモーセと同じではありません。

人となられた「神のみことば」である主イエスは、ご自身わたしたちにおことばをくださいます。「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と主は仰せでした。主は「律法と預言者」つまり「神のみことば」を成就するために来てくださいました。どこに。わたしたちに。どのようにして。「神のみことば」であるご自身そのものを、わたしたちにお与えくださることによって。

そうであれば、主イエスの「みことば」にお聞きすることと律法学者の「教え」を聞くこととは、まったく別のことです。今日の福音で、主は次のように仰せでした。

「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。・・・求める者には与えなさい。・・・あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

これは、律法学者の「教え」を遥かに超えています。律法学者は、「隣人を愛し、敵を憎め」と「教え」ました。これに対し主イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と仰せです。ただし、注意したいことがあります。主が仰ったことは、すべて主が、すでにご自身でなさったことです。主ご自身の内に、すでに成就しておられることです。同じことを、わたしたちに成就させてくださるために。

そうであれば、わたしたちにとって主イエス(福音)に聞くことは、「神のみことばである主」ご自身を、感謝していただくことに他なりません。それがミサです。

「神のみことば」と申します。創造主なる神にとって、「みことばをお語りになられるる」ことと、「語られたことをその通りに創造される」ことは、全く同じことです。旧約の冒頭に、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」といわれています。

そして、「人となられた神のみことば」である主イエスは、この「神のみことば」そのものです。そうであれば、主に聞くとは、「神のみことばであられる主イエス」をいただいて、主にすでに成就しておられる「神のみことば」の通り、わたしたちが新しく創造され、造り変えられてゆくことです。ただし、それはどのように、でしょうか。

「神の子」である主イエス・キリストの似姿に。「主のみことば」をいただいて、わたしたちが「主の似姿」すなわち「主と同じ神の子」「主の兄弟姉妹」に、造り変えられてゆく。今日の福音で、主は仰せでした。主が、わたしたちにお語りくださるのは、わたしたちが「神の子となるためである」それがわたしたちの救いです。

「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

この主イエスのみことばを聞くわたしたちに、主がお求めになっておられることはただ一つです。「おことば通り、この身になりますように」と、主のみことば・主ご自身にわたしたちをお委ねさせていただくこと、すなわち聖母マリアさまの信仰です。聖母マリアさまのように、主のみことば・主ご自身をいただいて、主によって、主の似姿に造り変えられて行くわたし自身を、喜んで受け入れることです。

皆さんは、律法学者から教えを聞くように、主イエスから教訓を聞くためにミサに来られたのでしょうか。そうではありません。主のみことば、つまり主ご自身をいただいて「神の子」である主の似姿とされるために、ミサに来ておられるのです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 2/16

年間第6主日 ルカ 6:17,20-26

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、ルカが伝える主イエスの「説教」冒頭の主の祝福のおことばです。興味深いことに、マタイの並行箇所では、主は「山に登り」、祝福のおことばに始まる説教をされますが、ルカでは「山から下りて」とされています。

カトリック教会は、福音の伝える主イエスの祝福のおことばを(マタイの並行箇所から)、古来11月1日の「諸聖人の祭日」にお聞きしてきました。11世紀から、列聖された聖人方を11月1日、他の帰天されたすべての方々を11月2日に分けて記念する習慣になりましたが、古くは、列聖の有無を問わず、11月1日を「神のすべての聖人方の日」とし、この一日で帰天されたすべて信仰の先輩方を記念していました。

ここで、「神のすべての聖人方」という時の「聖」とは、いかなることなのでしょうか。聖書では、「聖」である方は、神お一人です。主イエスお一人です。このことははっきりしています。そうであれば、「聖人」とは、自ら生まれながらに聖い人というのではなく、主の「みことば」と「聖霊」を受け、神によって「聖くされた人」のことです。

「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。

今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。

今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。」

「貧しい人々は、幸いである」と、主イエスは仰せです。「貧しい人々」とは、主が「あなたがた」とよばれるように、主の他に頼る方が誰もいないわたしたち自身です。「神の国」を望んで、わたしたちは主の外には誰も頼ることができません。そのわたしたちに、主は、ご自身の「神の国」を約束されます。これが、主の祝福です。

「幸いである」との主イエスのおことばから明確に、主のおことばは、わたしたちへの主の祝福です。ご自身「聖」にして、わたしたちすべてを「聖とする」ことがおできになる神からの祝福です。わたしたちが「聖とされ、神の国を約束されること」。それが、わたしたちの真の幸いであり、主から祝福されるということです。

わたしたちが主イエスによって「聖とされ、神の国を約束される」。それは、わたしたちが「神の国の主・キリストのもの(キリスト者)とされる」ことです。それを使徒ヨハネは、「御子キリストに似た者となる」(1ヨハネ3:2)と教えていました。わたしたちが「聖とされ、神の国を約束される」、主から祝福されるとは「御子キリストに似た者とされる」こと。主に祝福され「聖くされた」方々こそ、「主に似た者とされた方々」

その祝福を、主イエスは「祝福のみことば」とその祝福をわたしたちの内に成就させてくださる「聖霊」によって、わたしたちにお与えくださいます。「聖霊」は、主の「みことば」とともに働いて、わたしたちに「イエスは主である」と告白させてくださいました。「みことばとともに働かれる聖霊」こそ、洗礼においてわたしたちを新たに生まれさせ、ミサで、わたしたちの捧げるパンとブドウ酒をご聖体に、すなわち主イエスご自身の御からだと御血・主ご自身のいのちに変えてくださる方です。

「みことばと聖霊」において、主イエスがわたしたちにくださるのは主ご自身です。主はご聖体においてご自身をお与えくださることによって、聖霊によってわたしたちを「聖」とし、「キリストに似た者」としてくださる。それが主の祝福です。主こそ、祝福そのものだからです。わたしたちの信仰の先輩方・神に仕えたすべての聖人方は、主ご自身を祝福として受け、「キリストの似姿に変えられた」方々です。

今、わたしたちもこのミサで、天に帰られた彼らがかつてそう祈り願ったように、「主よ、わたしたちにみことばをください」と、主イエスに願います。主は、わたしたちにも必ず「みことば」とともに「聖霊」を、すなわち主ご自身をくださいます。主はわたしたちにも、ご聖体において、主ご自身を祝福としてお与えくださいます「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたものである」と、主は仰せです。

わたしたちは、天に帰られた方々に比してはるかに劣る者かも知れません。しかし、主イエスがご聖体においてわたしたちにお与えくださる主ご自身は、かつて、信仰の先輩たちを聖(きよ)くされた主とまったく同じ方です。主は今も、いつも、代々に、一人なる同じ主であられるからです。わたしたちのような小さな者にさえ、ご自身そのものをお与えくださる主イエス・キリスト。その恵み故に、主を心から畏れます

天に帰られた聖人方は、今や天で主イエスとともに、地上でミサが先取りしていた「神の国の食卓」に着き、主のみ前に一心に主を褒め、主を称えていると信じられています。ご自身を祝福としてわたしたちにお与えくださった主への愛と感謝は、地上での制約されたわたしたちの思いを遥かに超えるでありましょう。天に帰られたすべての聖人方は、このことをいちばんよく知っておられるに違いありません。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 2/9

年間第5主日 ルカ5:1-11

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

主イエスは、このおことばをもって、ペトロをご自身の弟子とされました。

主イエスの福音宣教。わたしたちにとって、それはいかなる出来事なのでしょうか。主から、神の国についてお聞かせいただいたというような他人ごとではないはずです。主の福音宣教とは、主によってわたしたち一人ひとりが召し出しを受け、主とともに生き、さらに主に仕えて生きる者、すなわち主ご自身の弟子とされたという、わたしたち一人ひとりの現在の身の事実となっている出来事ではないでしょうか。

マルコによる福音は、主イエスの福音宣教とは、具体的に「十二使徒」たちの召し出しであり、それは「彼らを自分のそばに置くため」(3:14)であったと伝えています。

実はその後、主イエスは、ペトロたち十二弟子に加え、さらに72人を召し出され、彼らすべてを、「聖霊」によって養い、主ご自身を中心とした交わり、すなわち主のからだなる「主の教会」へと育てて行かれます。その主の教会が、やがて主の福音宣教を担うものとして用いられて行きます。マルコは、続けます。「また、(主は、彼らを)派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(3:14)

ところで、主イエスの福音宣教の始めに、主の最初の弟子とされたシモン・ペトロの召し出しを伝えていた今日のルカによる福音は、冒頭の、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」との主のおことばに応えて、ペトロは、彼の漁の仲間であったヤコブとヨハネとともに、「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」と、伝えていました。

ただし、主イエスがペトロにお会いになられたのは、この時が初めてではありませんでした。今日の福音の直前に、同じルカによる福音は、ペトロの召し出しに先立ち、すでに主はペトロの家を訪ねておられたことを伝えていたのです。それは、ペトロの姑(しゅうとめ)が高熱で生死の境をさまよっていた時のことでした。「会堂を立ち去り、シモンの家にお入りにな」られた主が、ペトロの姑の「枕元に立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。」

その時のペトロ自身の様子を、福音は特に伝えていません。しかし、この時ペトロは主イエスの傍らで、主がペトロの姑になさったことの一切を、主に対する驚きと畏れと身震いするような感動をもって見守っていたに違いありません。

同時に、福音が、主イエスによるペトロの姑の癒しに続けて語っていたように、ペトロは、主こそ常に「悪霊」に怯えて暮らしているような彼らの生活から「悪霊を追い出す」権威をお持ちになる唯一の方、すなわち主こそ父なる神が「聖霊」において働かれる方であられることをはっきりと認めたに違いありません。

加えて、その時の彼の姑の姿も、ペトロの目に焼き付いて離れなかったと思います。彼女は、主イエスによって癒された後、「すぐに起きあがって一同をもてなした。」主のご訪問を受けた者が、病と死から解き放たれるや、「主に仕えて」生き始めた。彼自身の家で、主に出会ったペトロはこの時、主の招きに応えて生きる、彼自身の新しいいのちの予感に胸が熱くなったのではないでしょうか。

今日の福音は、すでにペトロの家に彼の姑を訪れた主イエスが、ふたたび、しかし今度は、明らかにペトロ自身を訪ねてくださった時のことを伝えていました。ゲネサレト湖畔に集まった群衆に説教されるに際し、主は、ペトロに親しみを込めて、「シモンの持ち船に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みにな」られ、「話し終わった時、シモンに『沖に漕ぎ出し漁をしなさい』と言われた。」

彼の姑の癒しの後、主イエスに仕えて生きることこそ彼の心からの願いであることが、すでにペトロには明確であったはずです。そして今、主はその彼を、「湖の奇跡」をもって、主の弟子として生きる新しい命へと召し出されたのです。しかし、ここに深刻な問題が自覚されます。それは彼の罪です。ペトロは、主に召し出された時、「イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』」と、哀願せざるを得ませんでした。心から主に仕えて生きたいと願うペトロ。しかしそれに全くふさわしくない自分ゆえに、彼は主を心から畏れたのです。しかしだからこそ、主は、彼を弟子とされたのだと思います。

主イエスは、ペトロに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」ペトロは、この主に「すべてを捨てて従った」。ペトロの召し出し。これこそ、ペトロにとっての主の福音宣教です。そして、それはわたしたち一人ひとりにとってもまったく同様ではないでしょうか。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 2/2

「わたしはこの目で、あなたの救いを見た」
「主の奉献」の祭日の黙想 
ルカ2:22-40

「わたしはこの目で、あなたの救いを見た。」
エルサレムの神殿で、聖母マリアさまからゆるされて「幼子キリストを腕に抱き、神をたたえて言った」、老シメオンの言葉です。

ご降誕から40日後、幼子キリストは、マリアさまとヨセフさまによってエルサレムの神殿で、父なる神に捧げられました。彼らはそこで、老シメオンに会いました。シメオンは、「正しい人で信仰があつく、イスラエルが救われるのを待ち望んで」いました。また、「聖霊が彼の上にあり、主が遣わすメシア(キリスト)に会うまではけっして死なないとの聖霊のお告げを受けていた」と、ルカによる福音は伝えています。


目に見えない神の約束と聖霊の導きに一切を委ねて、従順に、かつ忍耐強く、生涯、救い主キリストを待ち望んできた老シメオン。 彼の目が閉じられる前に、約束通り、神は彼の目に神ご自身を見させてくださいました。それが、幼子キリストです。

「主よ、今こそ、あなたはおことばどおり、このしもべを安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目で、あなたの救いを見たからです。」

   
福音記者聖ヨハネが、後に彼の手紙に書き留めたように(1ヨハネ1:1,2)、シメオンにとって幼子キリストは、まさに「耳で聞き、目で見、よく見て、手で触れる」 ことさえゆるされた「いのちのことば」。彼にとって主イエスこそ、神ご自身から与えられた疑いようのない救いの事実。シメオンの神への賛美は続きます。

「この救いこそ、あなたが万民の前に備えられたもの、異邦人を照らすための光、あなたの民イスラエルの栄光です。」

神の救い、主イエス・キリスト。御子キリストこそ、父なる神が万民のために、すなわちわたしたち一人ひとりのために「備えてくださった救い」です。驚くべき事に、わたしたちがわたしたち自身を父なる神にお捧げさせていただく前に、父なる神が、御子キリストにおいて、ご自身をわたしたちにお与えくださいました。それが、ご降誕の幼子イエス・キリストです。


この同じ幼子キリストが、ご降誕から40日後のこの日、エルサレムの神殿で、この度は、マリアさまとヨセフさまの手で、「主の律法に従って」父なる神に奉献された、と福音は伝えていました。しかし、それはなぜでしょうか。

「主の律法」。主なる神は、ご自身の民イスラエルを奴隷の家エジプトから導き出される、その前夜に、「初めて生まれる男子はみな、主のために聖別される(捧げられる)」と、「初子の奉献」をお命じになりました。それによって、神が引き続いて成就される神と神の民の過越(すぎこし)、すなわち「主が力強い御手をもって神の民をエジプトの地から導き出された」ことが、神の民によって永遠に記念されるためです。

それにしてもなぜ、「神と神の民の過越」が「初子の奉献」(出エジプト13:1,2)によって永遠に記念されることを、神はわたしたちにお求めになられるのでしょうか。

それは、神と神の民の過越の奇跡の背後には、ご自身のいのちそのものであられる、初子にして御独り子なる主イエスをわたしたちにお捧げくださるという、わたしたちのための父なる神ご自身の誠に尊い犠牲奉献がある事を、わたしたちに忘れさせないためではないでしょうか。後の、神の御子キリストご自身の十字架上の犠牲奉献が、すでにここに明確に指し示されているように思われてなりません。

そうであれば、父なる神の「初子キリストの奉献」の記念を通して、主なる神がミサにおいてわたしたちに成就してくださることも明らかです。それは、主イエスにおけるわたしたち一人ひとりの出エジプト、すなわち「主とわたしたちの過越」です。

わたしたちは、神から受けた主イエスを、神にお捧げします。ご降誕日に父なる神からいただいた父なる神の「初子にして独り子なるキリスト」を、わたしたちの感謝(ユーカリスト)として、父なる神にお捧げさせていただきます。それがごミサです。

「主イエスのご奉献」の恵み。それは、父なる神により、わたしたち一人ひとりが、御子キリストの奉献、すなわち、ご受難と死を通してご復活の栄光に過ぎ越して行かれた主イエスご自身の過越に固く結びあわされることです。この恵みの奇跡を、わたしたちはごミサの度に、マリアさまとヨセフさまとともに記念し、祝います。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/26

年間第3主日 ルカ1:1-4、4:14-21

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」

これが、主イエスの福音宣教のおことばです。これこそ、主の宣教のアルファでありオメガ、主の福音宣教の一切であると言うべきでしょう。

これは、かつて預言者イザヤを通して父なる神が語られたみことばを御子キリストご自身が朗読された後、ナザレの会堂にいたすべての人の目が主に注がれる中で、主イエスが宣言された福音宣教のおことばでした。

先に、ルカによる福音は、主イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた時、聖霊のご聖櫃である「天が開け、聖霊が鳩のようにイエスの上に降って来た」と伝えていました。御子キリストは、この時、「天の父なる神」から「神ご自身のいのちである聖霊」を託され、そのみ力に満たされた、と言うことです。

事実、福音は、その後四十日の荒野での試練を経て、主イエスがガリラヤに帰られた時、「イエスは『霊』の力に満ちてガリラヤに帰られた」と伝えています。その後、聖霊に満たされた主は何をなさったのか。今日の福音の伝える通り、主は、「聖霊」に満たされて、「福音宣教」をお始めになられました。 すなわち、

「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にした時、実現した。」

主イエスの福音宣教とは、旧約の預言者のように、神のみことばをわたしたちに語り伝えるだけではありません。主の福音宣教は、「主イエス・キリストにおける父なる神のいのちである聖霊のみ業」であり、したがって「父・子・聖霊の三位一体の神のみ業」です。それは、御子キリストを通して、父なる神が聖霊において働かれ、一切を新たにする「神の新しい創造のみ業」です。

しかし、それは、誰に対して、そしていかにして、果たされるのでしょうか。それは、父なる神が神の民の歴史を通して預言者によってお語りになってこられたおことばの一切を、御子キリストにおいて、わたしたち一人ひとりに実現してくださることによって、です。

ところで、その日ナザレの会堂で、御子キリスト自らお読みになられた、かつて預言者イザヤを通して語られた父なる神のみことばは、次の通りでした。

「主の霊がわたしの上におられる。 

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

主がわたしに油を注がれたからである。 

主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を、

目の見えない人に視力の回復を告げ、

圧迫されている人を自由にし、

主の恵みの年を告げるためである。」

事実、この後、福音は、「天の父なる神に油を注がれた」御子キリストが、「神なる主の霊」・「聖霊」に満たされて、「貧しい人に福音を告げ知らせ、捕らわれている人を解放し、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げ」て行かれたことを、語り伝え続けて行きます。

ただし、ここで、「貧しい人、捕らわれの人、盲目の人、圧迫されている人」とは、一体だれのことなのでしょうか。実は、彼らこそ、わたしたち一人ひとりのことではないでしょうか。

主イエスの福音宣教。それは、天地の創造主・全能の父なる神が、御子キリストにおいて、聖霊により被造物の一切を新たにされる大いなる創造のみ業です。ただしそれは、主に出会うことをゆるされたわたしたち一人ひとりを、「キリストの似姿」に新たに造り変えてくださることによって成就されて行く神のみ業です。

それは、「貧しく、捕らわれており、目が見えず、圧迫されている」わたしたちに対して、空しく将来の夢や希望を語ることではありません。そうではなく、主イエスは、主に出会うわたしたち一人ひとりの「今」を、変えてくださるのです。否、「今」を変えてくださるばかりではなく、全く新しい「今」を、わたしたち一人ひとりに造り出してくださる。それが主の福音の宣教です。

「福音」には、今、わたしたち一人ひとりを新たにする神の創造のみ力があります。わたしたちの創造主なる神なる主イエスご自身が、「福音」その方だからです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/19

主の洗礼 (ルカ3:15-16,21-22)

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

カトリック教会は、「主の公現」の祭日に続く主日を、「主の洗礼」の祝日として祝います。主イエス・キリストは、ご自身そのものである「福音」の宣教に先立ち、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていた洗礼者ヨハネから、人々とともに洗礼をお受けになられました。しかし、「聖そのもの」であられる主が、なぜなのでしょうか。

実際、マタイによる福音は、主イエスが洗礼者ヨハネのもとに来て、人々とともに洗礼を受けることを望まれた時、「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして、『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」と、主に申し上げたと伝えています。このヨハネに、「イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」(マタイ3:13-15)

主イエスは、人々とともに洗礼を受けられるのは、「正しいこと」であると仰っておられます。それが父なる神のみ旨であり、御子が人々とともに洗礼をお受けになることによって、神がわたしたちをお救いくださるということです。事実、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」、父なる神は、次の「三つのこと」をなさったと、ルカによる福音は伝えています。まず、「天が開け」、次に、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」続いて、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」

第一に、主イエスが、人々とともに洗礼を受けられたことによって、人々に「天が開かれた」。これは驚くべきことです。罪なる者に、「天」は閉ざされていたからです。詩編は、「死」を恐れる人々の呻きを伝えます。ただし人々が恐れたのは、「死」そのものではなく、罪人のままの「死」によって、彼らに「永遠に天が閉ざされて」しまい、したがって、彼らが神にお会いさせていただく機会を永遠に失うことです。

詩編第6編にこうあります。「主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません。」(詩6:5,6)

しかし今や、神ご自身が、主イエスにおいて人々とともに洗礼を受けてくださったことにより、罪なるわたしたちに「天が開かれた」のです。ただ一度、かつ永遠に。

父なる神の在す天は「聖霊のご聖櫃」です。「天」が開かれたのは、「聖霊が降る」ことでもあります。事実その時、天から「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」「父なる神のいのち」である「聖霊」が、今や目に見える姿で「御子キリストの上に降った」。このように、天の父なる神は、イザヤの預言どおり、神ご自身のいのちである「聖霊を主の上に置かれた(主に聖霊を託した)のです。(イザヤ42:1)

さらに、福音の伝える、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」との神のみことばは、これも預言者イザヤを通して語られていた次の神のみことばと同じです。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが喜び、喜び迎える者を。」そして、イザヤの預言は、あらかじめ御子キリストの洗礼の時を指し示していたかのように、次のように結ばれていました。彼の上にわたしの霊は置かれる(御子キリストに父なる神の霊・聖霊を託した)。」(イザヤ42:1)

「父なる神がご自身の霊を御子キリストの上に置かれる」目に見えない「天の父なる神」の霊・「聖霊」が、わたしたちとともに洗礼をお受けくださった「御子」に降った。聖霊が、主イエスから、また主を通して、わたしたちに与えられるためです。洗礼者ヨハネはそれを証ししていました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、その方(キリスト)は、聖霊と火で洗礼をお授けになる。このように、主はご自身の洗礼を以て、わたしたちに洗礼の秘跡を制定してくださいました。

主イエスの「福音」宣教は、預言者のように神のことばをわたしたちに伝えるだけではありません。主の「福音」宣教は、その始めから、わたしたちに対する「御子キリストにおける父なる神のいのちである聖霊の業」、すなわち、天地の創造主・全能の父なる神が、御子キリストに「聖霊を置」かれることによって、わたしたちのために始められた「父・子・聖霊の神のみ業」、すなわち「三位一体の神のみ業」です。実にそれは、福音そのものであられる御子を通して、父なる神の力が聖霊において働き、わたしたちに新しいいのちをお与えくださる「神の新しい創造のみ業」です。

ヨハネからの洗礼の後、主イエスは「福音」の宣教に立たれました。見えない「父なる神」が、「御子キリスト」において見える姿で働かれる。御子によって、目に見えない「神のいのち・聖霊」が、「父なる神」のみことばの実りを目に見える形でわたしたちに結んで行きます。それが、わたしたちへの主イエスの「福音」宣教です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。