司祭の言葉 11/17

年間33主日 マルコ13:24-32

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

マルコによる福音13章全体は、「キリストの終末預言」と言われて来ました。ただし聖書において「終末」とは、たんに「世の終わり」を意味しません。神の遣わされる救い主キリストによって、天地の創造主、歴史の支配者である天の父なる神が、決定的な仕方で、また、目に見えるお姿で、歴史に介入されることです。

「終末」とは、したがって「古い時の終わり」であるとともに、「キリストにおける新しい時の始め」・「神の国の到来」です。「終末」という出来事の中心に立っておられるのは、「神の国の主イエス・キリスト」です。この方を、見失ってはなりません。

マルコによる福音13章の主イエスご自身による終末預言は、「エルサレム神殿の崩壊」の予告によって語り始められます。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい建物でしょう」との、当時の巨大なエルサレム神殿に対する、弟子たちの讃嘆の言葉を受けて、主は、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と、仰せになられました。

驚く弟子たちの「そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」との問いに応えて、主イエスは、「その時」わたしたちが経験するであろう「大きな苦難」を予告されました。

東日本大震災の傷跡が未だ癒されないままに、今年のお正月の能登大震災の衝撃。その上に、長引くロシア・ウクライナ戦争に加えて、イスラエルにおける内戦と緊張感を増す世界情勢等、「終末の徴」を巡っての議論は尽きません。しかし、主イエスは、そのような「大きな苦難」でさえ「まだ世の終わりではない」、すなわち「産みの苦しみの始まり」であっても、「終末の徴」ではない、とはっきりと仰せです。

(マルコ10:3-8)

実は、主イエスが、マルコによる福音の終末預言において、「終末のしるし」として語られるのは、「聖霊」とその働きです。見えない神ご自身の見えるみ業。「聖霊」とは、終末預言をなさる主ご自身の霊であり、したがって活ける神なる主の働きです。このことを、わたしたちは決して聞き逃してはなりません。

それでは、「聖霊」はいかにして、この「終末の時」に、働かれるのでしょうか。主イエスは、次のように仰せです。「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれる時、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(マルコ13:10,11)

わたしたちは、「終末のしるし」である「聖霊」の働きを求めて、あちこち捜し回る必要はないのです。「聖霊」は、主イエスを証しする者たち、すなわちわたしたち教会を通して働かれる。そうであれば、「聖霊の働きである教会」こそ「終末のしるし」、「神の国の到来のしるし」です。これは、驚くべき主のおことばのように聞こえます。しかし、わたしたちが現に教会で体験している事実ではないでしょうか。

これらのおことばの後、主イエスは、今日の福音に語られた「人の子」つまり主ご自身の「来臨」をお語りになられます。それは、教会を通して働かれる「聖霊」が証しする「終末の主」・救い主キリストご自身の来臨のお姿です。

(このような苦難の後の)そのとき、人の子(キリスト)が大いなる力と栄光を帯びて雲にのって来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

「終末の時」には、主イエスの予告のように、それに先だって起こり得る、悪霊の業としか思えないような、大きな災害や混乱や疫病や戦乱が、人の目には大きく映るかもしれません。しかし、実は、そのような出来事の中で、より大きく、またより鮮やかに浮かび上がってくる「終末」のしるしとその真実は、わたしたち教会を用いて働かれる「聖霊」の力です。その「聖霊」によって証され、「聖霊の働きである教会」を「ご自身のからだ」とされる、キリストご自身の現存です。

「終末」を支配されるのは、歴史の主キリストです。主は、勝利の主。ただし、主の栄光は、主の十字架の苦しみを経て成就される勝利です。「終末の時」、わたしたちが受ける一切の苦難。主はそのすべてをご自身の十字架として負ってくださる。主とともにわたしたちも、苦難を経て後、主の栄光の内に復活させていただくことができるように。主は、「終末の預言」を次のおことばによって結んでおられます。

「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしのことばは決して滅びない。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。