年間26主日 マルコ9:38-43,45,47-48
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
今日の福音で、主イエスは既にエルサレムに向かう旅の途上におられます。弟子たちを伴ってエルサレムに向かう、これが最期の旅であることを、主はご存知です。また、その旅の果てに、主を待ちうけていることが何であるかも、主は良くご存知です。この大切な旅の途上で、主は弟子たちに、三度くり返して、エルサレムでのご自分の十字架の死と復活を予告されます。すなわち、
「人の子(すなわち、主イエス)は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」
主イエスご自身の中で、明らかに緊張が高まって行かれるのと対照的に、くり返される主のご受難の予告を聞かされながらも、心がそれについて行かない弟子たちがいます。実際、先週の福音で、主のエルサレムでのご受難の予告を、二度目に聞かされた直後に、弟子たちは、彼ら十二人の内で「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」と、言われていました。にわかに信じがたいことです。
それにもかかわらず、旅の途上、主イエスは、忍耐強く弟子たちに教え、彼らと言葉を交わし、さらに、主を訪ねて来る多くの人々に出会って行かれます。今日のマルコによる福音も、そのような主の旅の途上の一こまです。十二弟子の一人ヨハネが、主に報告します。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
一見、何気ないヨハネの報告の言葉に聞こえます。しかし、これは、主イエスのみ前に、極めて傲慢な言葉ではないでしょうか。ヨハネは、主の僕というよりも、まるで主の恵みの管理者を自認し、人々に対してそのように振舞っているようにさえ聞こえます。このヨハネに、主は、次のように仰せです。
「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
ヨハネは、またわたしたちも、あくまで、主イエスの憐れみによって、主のご保護の許に、主の僕であることを赦されているに過ぎないことを謙遜に自覚すべきです。
ヨハネが、彼の漁の仲間であったペトロ、ヤコブとともに、ガリラヤ湖の湖畔で、主イエスから召し出しを受けた時のことを、彼とともに思い出したいのです。ルカによる福音によれば、この時、主は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を、漁師としての日常の生活から、「湖の奇跡」をもって、主に在って、神に仕えて生きるまったく新しい命へと招いてくださいました。それは、彼らの思いを遥かに越えた光栄であったと思います。(ルカ5:1-11)
しかし、ここで即座に、彼らは実に深刻な問題に直面せざるを得ませんでした。それは彼らの罪です。罪人には、神に見(まみ)えることは赦されません。ペトロは主イエスに招かれた時、ヤコブとヨハネとともに、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と、主に申し上げる他ありませんでした。ペトロは、主を畏れました。もちろん、ヤコブも、そしてヨハネも、同様であったはずです。罪なる彼らは、主のみ前に、ひとえに主を畏れたのです。それ以外になかったのです。
しかし、彼らが、心から自分の罪を認め、懺悔し、主イエスを畏れたからこそ、主は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を、主の最初の弟子とされたのです。主は、ペトロ、そしてヤコブとヨハネに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」その時、ペトロは、ヤコブとヨハネとともに、この主に、「すべてを捨てて従った」と、ルカによる福音は、伝えていました。
今日の福音で、主イエスから召し出しを受けた時のヨハネは、一体どこに行ってしまったのでしょうか。自らの罪ゆえに主を畏れ、主の赦しの許にのみ、すべてを捨てて主に従ったヨハネでした。その彼がいつの間に、人々に対して、主の恵みの管理者になったとでもいうのでしょうか。ただし、これはヨハネだけの問題でしょうか。カトリックのわたしたちも、隣人に対していかに振舞っているでしょうか。
主イエスとともに、最期にエルサレムに上る旅。ヨハネだけではありません。わたしたちも、主とともに、その旅の途上にあります。主に従うこの旅は、誰にとっても、主のみ前に、主を畏れ、謙遜と従順の内に、主の赦しの許に、すべてを捨てて主に従うことを学ばせていただく旅、ではないでしょうか。
この旅は、主イエスにとっては、十字架を見つめての旅です。「すべてを捨てて主に従う」わたしたちのために、主はご自身を、ご自身のいのちさえ、十字架に捨ててくださる旅です。わたしたちは、このことを決して忘れてはならないと思います。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。