「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
「十字架称賛」の祝日(9月14日)の黙想
(ヨハネによる福音3:13-17)
過ぐる8月6日に、「主の変容」を記念しました。主イエスは、最期にエルサレムに上られるに先立ち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて高い山に登られました。その時、主のお姿が変わり、主の服も真っ白に輝きました。さらに、弟子たちは、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」との天からの声を聞いた、と福音は伝えていました。
「主の変容」が、主イエスの過越、すなわち主の十字架と復活の40日前であったとのカトリック教会の古い伝承に従い、紀元5世紀以来、8月6日の「主の変容」の祝日の40日後の9月14日に、教会は、「十字架称賛」の祝日を祝い続けて参りました。
「主の変容」が、主イエスの過越の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が、約束の地に入るまでの荒野の40年を思い起こさせます。「主の変容」の直後から、主は、弟子たちを伴って、エルサレムに上る最期の旅を始められます。そしてまさに40日後に、弟子たちは、エルサレムで、主の「過越の食卓」(最後の晩餐)に与り、約束の地、すなわち「神の国」に迎え入れられます。
ただしそれは、「主の変容」の前後三度、主イエスが弟子たちに告げられたように、主の十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」。しかも、その「過越の食卓」(最後の晩餐)で、主が弟子たちに与えられる「永遠のいのちの糧」が、「キリストのからだ」であることが、主によって弟子たちにはっきりと示されることになります。
冒頭の主イエスのみことばは、主と二コデモとの長い対話の一部です。ニコデモは、ファリサイ派の一人であったと言われています。しかし彼は、主が父なる神から遣わされた方であることを確信するに至ったのだと思います。その結果、ある夜、彼は主の許を独り訪ねて来たと、ヨハネによる福音は伝えていました。
この二コデモに、主イエスはご自身の真実を、次のようにはっきりとお語りになりました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これは、聖書のみことばの中でも、最も愛され親しまれて来たみことばの一つではないでしょうか。ただし、神がその御独り子イエス・キリストを、わたしたち罪人にお与えくださる。それがいかなることであるのか。じつは、このみことばの直前に、主イエスは次のように仰せでした。
「天から下って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:13,14)
「信じる者が皆、永遠の命を得るため」には、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」と、主イエスは仰せです。
モーセに導かれた神の民は、荒野の40年の旅の途上くり返し罪を犯します。ある時、主なる神はモーセに、罪なる民のために罪の贖いのしるしとして青銅の蛇を作り、十字架のように棒の上にそれを架け、高く上げることをお命じになりました。民はその青銅の蛇を仰いで癒された、と旧約の「民数記」(21章)に伝えられています。
その旧約の犧牲のしるしのように、「人の子も上げられなければならない」と、主イエスは仰せです。ただし、この度の主によるご自身の奉献は、もはや罪の贖いの「しるし」ではありません。私たち罪人の「罪の贖いそのもの」として、主はご自身を、十字架の上に高く「上げて」くださるのです。
主イエスの十字架の奉献によってのみ、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」ことを赦されます。さらに十字架を通して高く天に上げられた主は、わたしたちに「聖霊」を注いでくださるために復活してくださいます。それは、聖霊によってわたしたちを「新たに神の国に生まれさせてくださる」(ヨハネ3:3、5-7)ためです。
二コデモにお会いくださった同じ十字架とご復活の主イエスは、わたしたちにも必ずお会いくださいます。二コデモ同様、わたしたちが「一人も滅びないで」、必ず聖霊によって「新たに生まれ、神の国を見る」(ヨハネ3:3)者としてくださるためです。
父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。