司祭の言葉 7/14

年間第15主日 マルコ6:7-13

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスは、十二使徒たちをわたしたちに派遣してくださいます。それが、今日の福音です。しかし、なぜでしょうか?

ところで、マタイによる福音は、十二使徒の派遣に先だって、主イエスが、ご自身ですでになさった大切なこと、を伝えてくれていました。すなわち、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(マタイ9:35) 

ただしその際、主イエスは、残らず回られたすべての町や村で、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。(マタイ9:36) わたしたちのこの現実に対して、主は、十二使徒たちを派遣されます。

主イエスは十二使徒たちを、決して見ず知らずの土地の、見たことも聞いたこともないわたしたちのために派遣されるのではないのです。主が使徒たちを派遣されるのは、すでに主ご自身が「残らず回られた町や村」であり、そこで主ご自身が「深く憐れまれた」、他でも無い、わたしたちのためなのです。

そうであれば、主イエスが十二使徒を派遣される目的は極めて明快です。主は使徒たちを、「飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれている」わたしたちの魂の牧者として、わたしたちの霊性の回復と司牧のために派遣されるのです。

だからこそ、今日のマルコによる福音は、主イエスは、十二人使徒のわたしたちへの派遣に際し、「汚れた霊に対する権能を授け」られたと伝えます。汚れた霊に打ち勝つ権能とは、聖い霊の権威と力、すなわち「聖霊の権能」に他なりません。

主イエスは十二使徒の派遣に際して、彼らに聖霊を託された、すなわち主ご自身を、主の活けるいのちを託されたのです。主は、わたしたちの傷ついた魂の配慮と、わたしたちの魂・霊性の回復とその司牧に、ご自身のいのちをかけておられます

十二使徒の後継者は、司教方です。わたしども司祭は、この司教の代理者として、主イエスから各小教区に派遣されています。したがって、小教区担当司祭は、Vicar、すなわち(司教の)代理者」と呼ばれます。同時に、司祭は、主から託された「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人々の魂の司牧というべき任務から、Curate、すなわち(魂を)癒す者」・「(魂の)牧者」とも呼ばれます。

わたしたちの「魂の司牧」。それは、主イエスご自身の霊・聖霊にのみよることであり、叙階の秘跡を通して、司祭に特別に主から託された奉仕です。そしてそれは何よりも聖霊のみ業である秘跡において、とりわけご聖体の秘跡であるミサにおいてなされるべきことです。ミサこそ、主ご自身がわたしたち司祭を用いて、皆さんひとり一人にご聖体において聖霊をお与えくださる、まさにその時だからです。

主イエスご自身の霊・聖霊こそ、真のCurate、「癒し主」ご自身です。聖霊は、わたしたちの魂を癒してくださる、すなわち真の意味での魂の配慮をしてくださるのみならず、わたしたちを主の似姿へと霊的に成長させてくださいます。

故岡田大司教さまは、さいたま教区管理者時代の司牧書簡の中で、教区のすべての司牧者および信者の霊性の回復霊的成長こそ、教区第一の課題とご指摘になっておられました。霊性の成熟は、聖霊の働きの実りとして受ける以外に道はありません。したがって、「聖霊来てくださいVeni Sancte Spiritusと聖霊を求めてひたすら祈り、聖霊の恵みとご保護の内にミサにより深く与ることこそが、この課題の解決であることをわたしたちは今日の福音から確認させていただきたいのです。

あらためて、ご復活の主イエスと十二使徒の頭ペトロの対話を想い起こします。主は、三度ペトロに問われました。「わたしを愛しているか。」「主よ、わたしはあなたを愛しています」と、ペトロが三度主にお応えするたびに、主は彼にくり返し、ただ一つのことをお命じになられました。「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15-19)

なぜなら、主イエスは、ご自身ですでにわたしたちすべてを訪ねて、わたしたちが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」ことを熟知しておられるからです。主はこれほどまでに主の羊であるわたしたちの傷ついた魂のことを、その回復を、さらに魂、すなわち霊性の成熟を心にかけてくださっておられます。

だからこそ主イエスは、十二使徒たちの後継者である司教方、小教区におけるその代理者である司祭を派遣し、皆さんを主の聖霊の秘跡・ミサに招いておられます。この切ないまでの主のわたしたちへの思いの内に、今、ミサに与っています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。