年間第11主日 マルコ4:26-34
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
主イエスは、「神の国」をお語りになられる時、「たとえ」で語られます。なぜなのでしょうか。「神の国」を「たとえで語る」とは、どのようなことなのでしょうか。
「たとえで語る」と訳されますが、ギリシャ語の元来の言葉パラ・バロないしスン・バロの意味は、「一緒に(ともに)飛び込む」という意味です。つまり、主イエスがわたしたちに「神の国をたとえで語る」というのは、主からわたしたちへの、「神の国に一緒に飛び込もう」、あるいは「神の国にともに生きよう」との招きなのです。
つまり、主イエスが「神の国」を「たとえで語る」とは、聞くわたしたちに「神の国」というものを説明し想像させることではありません。実際、その必要もありません。なぜなら語られる主ご自身が「神の国の主であり王」であり、その方のもとに「神の国」は「すでに来ている」つまり「すでに始められている」からです。それが、「神の国の主であり王であるキリスト」がわたしたちのもとに来てくださったということです。
そうであれば、「神の国の主であり王であるキリスト」から「神の国」の「たとえを聞く」とは、わたしたちが、今、主イエスに在って体験している事実、つまり主とともにわたしたちのただ中で、すでに始まっている現実、わたしたちがすでに招き入れられている「神の国」と、その真実とその力に、わたしたちの目が開かれ、その真実の世界、つまり「神の国」に「神の国の民」として自覚的に生かされていくことです。
主イエスにおいて「神の国」が来ている。このことは、主によって今日唐突に語られたことではありません。主は、「神の国」の宣教のはじめから仰せでした。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)
ただし、「神の国は、近づいた」と訳された元の文章は現在完了形で、「神の国は、すでに来ている」ないし「すでに始まっている」という意味になります。しかし、それはどこに? もちろん、「神の国の主であり王であるキリスト」のもとにです。
ただし、主イエスが、招き入れてくださったご自身の「神の国」に、わたしたちが生かされるためには、どのようにしたら良いのでしょうか。主は、続けて仰せでした。「悔い改めよ」と。文字通りには、「(主イエスと)心を合わせなさい」ないし「(主と)思いを重ねなさい」という意味です。さらに同じことが、「福音を信じなさい」という主イエスのことばによって念を押されます。
「福音」とは、主イエスご自身であり、その主を「信じる」とは、主にわたしたちを委ねることでです。つまり、「主と心を合わせ、主と思いを重ねさせていただく」ことに他なりません。そしてこのことこそ、わたしたちにとって主とともに「神の国」に生きるということ、「神の国」の真実とその力に生かされるということです。
ただし、わたしたちは罪のままでは聖なる主イエスのみ心を知る由もなく、主と「心を合わせ、思いを重ねる」こともできません。つまりわたしたちは罪のままで「神の国」に生きることはできません。わたしたちは、主から聖霊を求め、聖霊による罪のゆるしと聖化を願うべきです。主ご自身との「神の国」の食卓であるごミサの冒頭で、わたしたちが聖霊による罪のゆるしを求めるのはこのためです。
実は、ルカによる福音では、主イエスが「神の国のたとえ」を語られるに先だち、わたしたちに、「目を覚まして、神の時を見分ける目をもつ」ようにと仰せでした(ルカ12-13章参照)。主は「神の国」の宣教の最初に、「時は満ちた」と仰せでしたが、「時(カイロス)」とは「神の定められた時」です。わたしたちに「神の時」むしろ「時を定められる神」を「見分ける目」がなければ、主において「神の国」が「すでに来ている」という事実にも、わたしたちの「目が覚め」ないでしょう。
ただし、「目を覚まして、神の時を見分ける目をもつこと」は、主なる神からの罪のゆるしの中でしか求め得ません。「神の時を見分けること」を妨げているのは、神に目を閉ざすわたしたちの罪だからです。しかし、罪ゆるされてわたしたちの目が開かれる時、主イエスにおいてすでに始められている「神の国」の事実とその力は、かつて罪に曇ったわたしたちの目に映っていた停滞し混乱したこの世の姿とは、まったく別ものです。わたしたちは、すでに過去となった神の創造のみ業の結果の中に住んでいるのではありません。「聖霊」による新しい神の創造のみ業の内に、「神の国」に、今、生かされてあるのです。そのことを、主は次のように仰せです。
「(神の国は、)からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。