三位一体の主日(年間第8週)マタイ28:16-20
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
「聖霊降臨の主日」に続く今日は「三位一体の主日」。集会祈願で、「唯一の神を礼拝するわたしたちが、三位の栄光をたたえることができますように」と祈りました。
唯一の神を、父・子・聖霊の三つの位格を以てお呼びさせていただく。これは、ご復活の主イエスご自身がなさっておられることです。主は、仰せになられました。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名(「名」は単数)によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
先の「聖霊降臨」の主日の福音で、ご復活の主イエスは、天の父なる神のみ許からわたしたちに遣わされる「聖霊」を「弁護者」と呼んでおられました。ただし、日本語で「弁護者」と訳されたギリシャ語パラクレートスは、元来「(人を助けるために)傍らに呼ばれた方」という意味の言葉です。そうであれば、「聖霊」は、日本語で「復活する」と訳された元来のギリシャ語の意味する「倒れている者を抱き起こし、病む者を介抱してくださる」、つまりご復活の主イエスのお姿と、確実に重なります。
このように、「聖霊」において、ご復活の主イエスご自身がご昇天後も変わることなくわたしたちと共にいてくださる、むしろ「聖霊」こそ「ご復活の主イエス」ご自身であられることを、主は今日の福音でわたしたちに確信させてくださいます。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
同時に、「聖霊」としてわたしたちと共にいてくださるご復活の主イエスが、ご昇天という出来事を通して、全能の天の父なる神と一つであられることも明らかにされました。主は仰せです。「わたしは天と地との一切の権能を授かっている。」
マルコによる福音は、この真実を、さらにつぎのように具体的な事実を以って語っています。「(ご復活の)主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、(父なる)神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(マルコ16:19-20)
父なる神と一つに「天と地との一切の権能」を行使なさるご復活の御子なる主イエス。ご復活の主は、ご昇天の後の今、「ご復活の主の霊」である「聖霊」によって、地上のわたしたちといつも共にあり、さらに共に働いてさえくださっておられます。
それにしても、なぜ、唯一の神が、父・子・聖霊の三つの位格によって働かれると言われるのでしょうか。あるいは、わたしたちは、なぜ、「唯一」の神を、父なる神・子なる神・聖霊なる神の「三位」、つまり各々異なったお働き(存在の違いではなく、存在の仕方の違い)ゆえに、三つの異なった位格でお呼びさせていただくのでしょうか。
それは、わたしたちの救いのためです。罪なるわたしたち一人ひとりのために、神ご自身がわたしたちと共に在り、さらにわたしたちすべての内にまで来てくださって、わたしたちの内から救いのみ業を全うしてくださるためには、唯一なる神が、父なる神、子なる神、そして聖霊なる神として働いてくださる他ないからです。
わたしたちの救いのために、天の父なる神は、全知全能の力の座である天を離れること無く、御子キリストとして地のわたしたちの許に来てくださり、わたしたちの罪の贖いために、ご自身を十字架につけてくださいました。さらに、主イエスは復活され、そのご復活の主は、ご昇天の後にわたしたちにご自身の霊である「聖霊」を与えくださり、わたしたちの内に働き、またわたしたちと共に働いて、わたしたちのみならず、わたしたちを通してすべての人々の救いの業を完成してくださいます。
神がわたしたち一人ひとりの救いのためにしてくださった具体的な事実、その手続きの一つひとつを指折り数えるように、わたしたちは心からの懺悔と感謝をこめて、唯一の主なる神を、父・子・聖霊と、三位の位格でお呼びさせていただくのです。ただしそれは、神が難解で複雑な方だということではありません。わたしたちの罪が、わたしたちを救ってくださるための神の救いの手続きを複雑にしたのです。
したがって、わたしたちにとって、唯一の神を「三位」の位格でお呼びする「三位一体」の信仰は、単なる教理ではありません。わたしたち自身の心からの懺悔と感謝による信仰の告白です。罪なるわたしたちを救い取ってくださった神のご懇切なるみ業を思い起こす時、わたしたちは唯一の神を、父なる神、子なる神、聖霊なる神と、懺悔と感謝を以てていねいにお呼びされていただく他無いからです。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。