司祭の言葉 9/17

年間24主日 マタイ18:21-35

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』

かつて8年間奉仕させていただいた川越教会でのある日、お聖堂で「十字架の道行き」(黒沢武之輔作)の聖画像を一枚一枚ていねいに写真に撮っている方がおられました。わたしがその方に、司祭ですと申し上げますと、その方も自己紹介をしてくださいました。その方は、キリスト教の信者ではないとのこと。ただ、教会のお聖堂の「十字架の道行き」が気に掛かり、日本でも、外国でも、可能な限り訪問先の町の教会を訪ねて「十字架の道行き」を、写真に収めてこられたとのこと。

この方は、わたしに対する自己紹介を、次の言葉で結ばれました。「神父さん、わたしはキリスト教についての知識はありませんが、日本でも外国でも、教会で「十字架の道行き」を写真に撮らせていただいているうちに、キリスト教の真実は「赦すこと」にあるのではないかと思うようになりました。神父さん、間違っているでしょうか。」

わたしは、この方の言葉に息を呑みました。「キリスト教の真実は、赦すこと」。それこそ、主イエスの真実です。わたしたちはキリスト者として、わたしたち自身が主に赦された罪人であることを理解しているつもりです。しかし、わたしたちは、時々このことを忘れ、自分自身を、そして人を裁いてしまいます。しかも大切な時に限って。「キリスト者では無いけれども」と言われたその方は、「十字架の道行き」の前で、いつも十字架の主イエスに赦されている自分自身を見つめてこられたのでしょう。

この方との会話は宗教の違いを超えて働かれる聖霊なる神のみ業をわたしに確信させてくれるに十分でした。むしろキリスト者であるにもかかわらず、罪意識も乏しく、神への感謝も懺悔の心も鈍くなっているわたし自身を恥じ、この方に働かれる同じ聖霊なる神の恵みを、再度求めさせていただきたく切に願いました。

今日の福音の主題は、「赦す」ことです。主イエスが、今日の「王と家来のたとえ」によってわたしたちに問いかけておられるのは、他者の罪を糾弾する前に、わたしたち自身が神に赦されている、と言う事実を忘れてはいないかということです。

先の方は、どこの町へ行っても、まず教会を訪ねて、「十字架の道行き」の聖画像の前に跪くと仰いました。赦されている自分を確認するためでしょうか。あるいは自分が赦されているにもかかわらず、他人を赦せない自分を懺悔するためだったのでしょうか。実は、キリスト者のこのわたしこそ、そうあるべきでした。

キリスト者のわたしたちは、教会の「十字架の道行き」の主イエスの聖画像のみ前に跪かせていただくのみならず、わたしたちが与る礼拝においては、福音とご聖体において現存される十字架の主イエスご自身にお会いさせていただくことさえ赦されています。このわたしのために、十字架で裂かれた主の御からだ、このわたしのために十字架で流された主の御血をいただくことさえ赦されているのです。

キリスト者には、先の「キリスト者では無いけれども」と言われる方以上に知らされていることがあるはずです。つまり、「主イエスの十字架の道行き」は、このわたしにとって文字通りのわが身の事実、主とわたし自身の真実であるということです。

教会のミサ曲のように、教会の「十字架の道行き」の聖画像も、宗教の違いを超えて万人を感動させる力があることは疑いようのないことです。しかし、キリストを主なる神と信じるこのわたしには、「十字架の道行き」は、芸術以上のものです。主は、「十字架の道行き」の事実そのままに、わたしのために十字架を負い、十字架上に死んでくださったからです。このわたしの罪を赦してくださるために。

そうであれば、この主イエスのみ前に、わたしたちは主のお求めになるごとく、他者を七回どころか七の七十倍まで赦すべきでしょう。なぜなら、主は、すでにこのわたしを、七回どころか七の七十倍まで赦してくださっておられるからです。

主イエスのみ業は、過去の物語ではありません。主のみ業は聖霊によって、わたしたち一人ひとりに対して常に現在の恵みの事実だからです。しかもそれは、このわたしが赦されるだけではありません。聖霊によってこのわたしに働かれる主の赦しの恵みゆえに、わたしたちも人を赦すことができるようにしていただけるのです。

主イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」主のこのおことばは、決してわたしたちに対する主の無理な要求ではありません。赦された罪人であるこのわたしをさえ用いて、他者の罪の赦しのために、聖霊によって働かれる主の恵みのみ業の約束とその事実です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。