説教:年間第14主日 マタイ11:25-30
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
人生に悩み、疲れを覚え、あるいは後悔や絶望の中に蹲(うずくま)っていた時、この主イエスのみことばに慰められ、再び立ちあがる勇気を与えられた方は多いのではないでしょうか。しかしこれは、実は、不思議な主のおことばではないでしょうか。
人生に、負うべき「軛」や「重荷」が無ければと、わたしたちは願います。しかし、本来、弱く、限界があり、加えて、神と人とに対する罪から自由ではないわたしたちにとって、「軛」あるいは「重荷」、すなわち「わたしたちの十字架」をまったく負うことのない人生、否、むしろ、「わたしたちが、本来負うべき十字架」を負おうとしない人生は、かえって自らと他者を、さらには神をも、欺くものではないでしょうか。
もちろん、「神の子キリストが負わねばならない十字架」というようなものがあろうはずはありません。しかし「弱く、罪に汚れたわたしたちが負うべき十字架」を、主イエスは、わたしたちに「あなたの軛、あなたの十字架」とは仰らず、驚くべき事に、「わたしの軛」、「わたしの荷」、すなわち「わたしの十字架」と仰ってくださるのです。
その上で、本来はわたしたちが負うべき「わたしたちの十字架」を、主イエスはわたしたちに、ご自身と共に「わたしの軛」「わたしの荷」すなわち「わたしの十字架」を、一緒に負ってくれないかと仰せになっておられるのです。この主のおことばにわたし自身の言葉を失います。ただ、主に合掌し、主を礼拝させていただくばかりです。
ところで、主イエスのこのおことばは、十二人の使徒たちをお選びになり、「神の国の福音」の宣教に遣わされるに際して、弟子たちに語られた主のおことばです。実は、主は、弟子たちを町や村に宣教に遣わされるに先立って、予めご自身ですべての町や村を訪ねておられました。マタイによる福音は、そのことを、次のように伝えています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。」(9:35)
ただしその時、それらのすべての町や村で、主イエスがご覧になられた、他でも無い「わたしたち」は、どのような様子だったのでしょうか。マタイは続けます。
「(主イエスは)、また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(9:36)
ここで「打ちひしがれている」とは、フランシスコ会訳聖書のように、むしろ「倒れている」、さらには「死にかけている」と強く訳すこともできる言葉です。
これが、主イエスが十二使徒たちを「働き手」としてお遣わしになられるに先立って、主ご自身の目で確認された「飼い主のいない」わたしたちの姿です。しかしなぜ、わたしたちには「飼い主がいない」のか。実は、「飼い主」はいらっしゃるのです。もちろんそれは、神です。わたしたちには「飼い主がいない」のではなく、「飼い主である神から離れて」しまったのです。その結果、「弱り果て、打ちひしがれ、死にかけて」いたのです。誰のせいでも無い、わたしたちの愚かさ、否、罪ゆえにです。
主イエスご自身で確認された、「飼い主を失い、弱り果て、人生の途上で倒れ、死にかけているような」わたしたちとわたしたちの人生の現実ゆえに、主は、十二使徒をお選びになり、宣教、さらに司牧に遣わされたのです。マタイは、さらに続けます。
「そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。』」(9:37f)
「収穫は多いが、働き手は少ない」と主イエスは仰せです。ただし主は、何を、否、誰を「収穫」されるのでしょうか。わたしたちが羨むような物、あるいはわたしたちと違い知恵と徳に優れた人々でしょうか。そうではありません。「飼い主を失い、弱り果て、人生の半ばで倒れ、最早自分で立ちあがる事のできない」わたしたちです。
主イエスは、このようなわたしたちを、父なる神から与えられる掛替えのないご自身の宝(ヨハネ10:29)として、大切に「収穫」してくださるのです。そのためにわたしたちの弱さと罪の一切をご自身の十字架として負い抜くことさえ顧みられずに。
主イエスは仰せです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・私の軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。