司祭の言葉 4/9

主の復活

 主の復活、おめでとうございます。 今年の復活祭もコロナウイルス対応のミサを継続しておりますので、春日部教会の信徒が一堂に会することはまだできておりません。お許しください。もう少しの辛抱です。
 思えば、3年前春日部教会に赴任し時は新型コロナウイルス蔓延のさなかで、世界中がパンデミックに慄いていました。3年たった今も、いまだにコロナ対応が続いている中で小生は春日部を離れることになります。高齢者の方の中には一度もお会いすること出来なかった方々がいらっしゃいます。大変心苦しく申し訳ない気持でいっぱいです。
 最初の復活節は、司祭は一人で自室でミサをささげることが求められ、信徒を参加させることは許されませんでした。しかしながらこの春は、ふたつのグループに分かれていますが、皆さんと共に復活祭をむかえることが出来ています。感謝です。
 小生もこんなに早く春日部から移動になるとは、つゆほどにも考えていませんでした。神様は小生の執着をご覧になり、バッサリとそれを断ち切られたのだと思っています。本当に皆様から良くしていただき、春日部教会に甘えておりましたから。

 ところで私たちの信仰は、すべてがこの、主の復活という出来事にかかっています。

 マタイ福音書の12章に、律法学者とファリサイ人がイエスのもとにきて、「先生,しるしを見せてください」という場面があります。
 同じ章ではイエスが手の萎えた人を癒す場面や中風の人の癒しが語られていますし、またその前の章では二人の盲人の癒し、不治の病であったライ病を患っている人の癒しも語られています。それでも人々はなおしるしを求めたのです。

 彼らに応えてイエスは「、預言者ヨナの徴以外は与えられない」と答えています。

 預言者ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩大地の中にいることになる・・・そうお答えになりました。それは死んで葬られ三日目によみがえるというしるし、復活という出来事の予言でした。まさにイエスが神からのものであるというしるしであり、十字架による贖いの業が万人のためになされた・・・主の十字架によってすべての人は救われている・・・ということの証明なのです。

 復活祭がキリスト者にとって最大の、信仰の祝日であることのゆえんです。
 私たちはみな主の贖いによって救われています。

 私たちはただ、主よ、罪深い私を憐れんでください・・そうり頼めば、主は私たちをその懐に迎えてくださるのです。
 今日は大いに喜び、ともに感謝の祭りを続けましょう。喜びましょう。主はまさに復活されたのです。そして私たちもいつの日か、主のように復活することが約束されているのです。

 聖パウロは「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」と、コリントの信者たちに向かって語っています。
 初穂は稲刈りの時に最初に刈られたもので、神への感謝の捧げものでした。

 そしてさらにパウロは「自然の命の体がまかれて、霊の体が復活するのです」と語ります。

 私たちは死すべき肉の体ではなく、永遠に生きる霊の体をいただいて復活するのです

 私たち人間社会では、大量破壊兵器、核弾頭をつけたミサイルがつくられ、いたるところで戦争が継続し、多くの難民が生まれています。今まさに第三次世界大戦の勃発が危惧されています。殺し合い憎しみ会う人間たち、そんな人間は、神の目から見れば、互いに殺しあって絶滅しても仕方がないような存在ではないかと思います。

 その人間のために神は人となり、十字架上の死をもって、その命で私たち贖い、復活の命を約束しました。私たちは主によって贖われ、奴隷状態から解放されたものなのです。主によって買い取られたものですから、その贖いにふさわしい実を結ばねばならないと思います。
 主の贖いに感謝し、イエスが愛したように、自分を大切にし、隣の人も同じように大切にする・・・今こそ、その生き方を見つけねばならないのだと思います。