司祭の言葉 11/6

年間第32主日C年

 今日も、こうして、まだここでミサが出来ることを感謝します。でもいつ出来なくなるか、その日が突然来るのか、その前に恍惚の日が来るのか、それは神様だけがご存じです。今日の説教を準備するために3年前の原稿を探し出し、それを読んで愕然としました。そこにはこう書いてありました。
 「先週、二日間断食して腸の中をきれいにし、内視鏡の検査をして、見つかったポリープを切除しました。医者からは場合によって入院もありうるので、その用意をしてくるように言われて、入院の支度をして行きました。検査に当たり二日間の断食をしたのですが、終わってみると体がふらふら。初めての体験でした。脱水症状と思い自動販売機にポカリスエットを買いに行ったのですが、そのまま椅子に座り込んでしばらく動けませんでした。体力の衰えを感じさせられた一日でした。」

 愕然としたのは、この春、がん保険の勧誘があって、保険会社の人に「ポリープの検査をしましたがまだ手術はしていません。でも、2年以上たちます」・・と答えていたからです。手術したのを忘れていたのですよ。信じられないでしょう?

 死は誰にでも確実にやってきます。 問題はその後にあります。人生にとって死は終わりですが、信仰はその後に続く命を示しています。

 聖書に復活についての記述が初めて現れるのは、マカバイ記の今日の箇所です。この事件は紀元前180年から、130年の間に起こったものと見られています。復活の信仰はトビト書にも現れますが、同時代と見られています。

 今日のマカバイ記で四番目の兄弟の言葉が、印象に残ります。
 「たとえ、人の手で、死に渡されうとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だが、あなたは、よみがえって再び命を得ることはない」

 わたしたちの信仰は、すべての死者がよみがえることを教えています。
 でも、信じないものは、新しい命を生きることはないのでしょう。
 信じないだけではなく、望んでいないからです。

 サドカイ人たちはレビラート婚の定めを根拠に、復活はないという論理をイエスにぶっつけてきました。彼らが守ってきた契約の箱には、向き合う一対の天使の像が置かれていました。・・しかし彼らは、天使も、復活も信じなかったと言います。
 使徒パウロはキリストの復活がなければ私たちの信仰は空しいと語っています。(1コリント15の17)
 復活はキリスト教にとって、信仰の根幹にかかわる問題なのです。

 今日の、ルカの言葉から推測されることがいくつかあります。

  1. 1.死人からの復活にあずかるにふさわしい者たち・・すべての人が復活するわけではないのでしょうか?
  2. 2.復活にあずかるものは死ぬことはない・・死ぬことはないので、子孫を残す必要はない。ゆえに結婚の必要性はなくなる・・ということでしょうか。
  3. 3.死者が復活することは、モーセも「柴」の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
    神はモーセに、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と現在形で語っています。つまり、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、神の前で生きていることを示しているというのです。

 そのイエスは、証明を求められたときに、ヨナの印以外は与えられないと応えています。復活こそはイエスの言葉と行いのすべてが、神からのものであることを証しするということです。でもそのとき、弟子たちにはその言葉の意味が、理解できませんでした。
 イエスの弟子たちは、復活の主に出会って初めて信じたのです。そして命を懸けて、復活の証人となって世界に散って行きました。