待降節第三主日
洗礼と訳される言葉は、ギリシア語で水に沈めるという意味の「バプティゾーbaptizo」という動詞から来る言葉です。古い、罪の奴隷である自分に死んで、新しく神の子として生まれ変わることを意味します。
「聖霊と火による洗礼」の「霊」は、ヘブライ語のルアッハ、ギリシア語で「プネウマpneuma」で「風、息」を表す言葉です。この「風と火」のイメージは本来、裁きのイメージでした。洗礼者ヨハネが予告した方は、風で中身のない殻を吹き飛ばし、火で焼きつくす、神の裁きをもたらす人でした。ヨハネはその裁きが来る前に、人々に悔い改めを呼びかけたのです。
その回心の具体的行為として、洗礼者ヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者にわけてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と言います。福音は実行されなければ何の意味もありません。
(だが、実際に来られた方イエスは、裁きではなく、許しをもたらされるお方でした)
皆さんご存知のように待降節には、主の降誕の準備ということで、さいたま教区の取り組みとして、毎年主の食卓献金が行われています。金曜日の夕食に主をお迎えしてもてなす・・・と言う取り組みです。それは陰膳のように食事を供えるという事ではありません。代わりに一食分のお金をとりわけ、主の日に教会に持ってきて献金するというものです。
でも、実際にお茶わんやお皿を置いてイエス様のご絵などを置くのはいかがでしょうか。そして一回の食事分のお金を底に置く・・・。
今日のパウロの言葉も黙想してみてください。
「主において常に喜びなさい。(Gaudete in Domino semper)重ねて言います。喜びなさい。あなた方の広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。」
Gaudete in Domino semper・・ガウデーテインドミノセンペル・・この言葉から今日はガウデーテの主日として、バラ色のロウソクが灯されます。待降節の心の準備の中にも、喜びをもって・・ということを忘れないようにするのです。
・・・主は、私たちのすぐそばにおられるのです。とくに、小さくされている人々の中に。だから喜びをもって彼らを覚えるのです。
フランスでは移民一世の30%が社会に受け入れられていないと感じ、移民二世は70%が社会に受け入れられていないと感じているそうです。そしてそこに、ISなどのイスラム過激派が付け入り、3年程前に頻発した、フランスでのテロが引き起こされたと分析されています。
・・・はたして私たちはどうでしょうか。
自分の幸せしか目に入っていないとすれば、周りの人にも心配りがなされていないとすれば・・・ 社会の不正を糾弾する声はますます大きくなり、暴発することになります。その責任はイエスの教えを聞き流す私たちにあるのではないでしょうか。
皆さんは今日の洗礼者ヨハネの言葉、パウロの言葉をどのように聞くでしょうか。
今の自分はイエスが愛されたように、隣人を愛しているのかどうか。イエス降誕のための最良の心の準備とはなにか、暫く沈黙のうちに考えてみましょう。
わたしたちは毎年この季節に、特別に「主が来られる」ということに心を向けます。
それは「今が回心のチャンスだ!」という福音を受け取る時でもあります。さらに、このチャンスとは、来られるイエスに目を向けると同時に、隣人に目を向け、隣人に対して不正を行なわず、愛を行なうチャンスなのだと言ってもよいでしょう。
主の恵みが皆さんの上にありますように!!