司祭の言葉 9/5

年間第23主日B年

 今日の第一朗読では、6世紀にバビロンに捕囚となっていた人々に、ユダの回復を告げるイザヤ書の言葉が読まれていますが、この預言はイエスの時代にはメシア到来の時のしるしと考えられるようになっていました。そして盲人が見えるようになり、歩けない人が歩けるようになり、重い皮膚病も癒されるイエスの業は、その時が来たことを示します。

 今日の福音は耳が聞こえず下の回らない人の癒しです。イエス様が当時の話し言葉アラマイ語で開け(エッファタ)とおっしゃると、たちまち耳が開き、舌のもつれが取れて、はっきり話すことが出来るようになった出来事が語られています。

 エッファタ・・小生にもこの言葉がほしいなと思います。最近幼稚園で子供を迎えるときに右の耳に集音器をつけています。子供たちが門を入ってくるとき「おはようございます」と声をかけますが、なかなか返事のかえってこない子がいると思っていました。あるときふと、子供は言っているのに小生の耳が聞こえていないのではないかと思い、集音器をつけました。すると何人かは、か細い声で「おはようございます」言っている子もいるのです。小生の耳がその声をとらえることが出来なかったのですね。子供の声は集音器で聞こえるようになりましたが、心の耳も最近聞こえにくくなっているかもしれませんので、もっと聞こえるようになる必要があると感じます。

 イザヤ書の「荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる。」と言う言葉には、フランスの作家ジャン・ジオノの短編小説「木を植えた男」の物語が重なります。
 南フランスのプロバンスの、人も離れてゆくような荒野で、一人黙々と毎日100個のよいドングリを選び一晩水につけ、鉄の棒で大地に穴をあけ、それを埋めていた男の物語です。荒野でこの男にあった青年が再びこの地を訪れたのは、5年の後。第一次世界大戦が勃発し戦場に出た青年が心を癒すために訪れたのでした。すると荒れた地には楢の木が育ち始め、10年前に植えられた木は大きく育っており、次第に森が再生し水が湧き出るようになり、それが人々を引き寄せ、新しい村が再生していったという話です。

 バビロンに捕囚となっていたユダヤ人は、ペルシャ王クロスの時にエルサレムに戻って神殿を再建することを許されました。荒れ果てたユダの地に戻ったユダヤ人たちは、エルサレムの神殿を再建し、エルサレムの町も民族も命を吹き返したのです。同様に、イエスによってもたらされた福音は、人々の心に愛を取り戻し、新しい神の国の建設の始まりを告げるものとなります。